第7話 たった一人の闘い


 世界史の授業というものは、現代日本からは遠い場所、遠い時代に起きたことを学ぶので、どこか現実味が薄いものだ。


 ――最悪。


 授業の内容は頭に入らない。脳裡だけで言葉にしてみた。


 先生の声が遠く感じる。萌乃は授業を聞き流しつつ黙思口吟する。


「最悪」


 思うだけでは満足できなかったので、声には出さずに唇だけで紡いでみた。迂遠なことをせずに最初からそうしていれば良かったようなものだ。


 だけど萌乃の気持ちは晴れなかった。世界史の先生はあまり背が高くないのだが、後の方の生徒にもよく見えるようにと、思い切り背伸びして高い場所に板書する。中国、宋の時代が今日の内容だった。中国歴代王朝の中では色々と変化のある面白い時代ではあるのだが、その一方で素人の目につきやすいインパクトが無い王朝なので、よほど歴史好きでない限りは、なかなか覚えにくい時代である。人類の歴史において、いくつもの王朝が興り、倒れた。何故、みな、王とか皇帝とかになどなりたがったのだろう。自らのわがままを体現したいからか。自分の気持ちを親友に分かってほしい、という一介の女子高生の気持ちは、独裁君主に匹敵するほどのわがままだろうか。


「サッチーがあんな言い方するなんて。信じられない」


 更に口の動きだけで呟く。隣の席の男子生徒が、萌乃の口が動いていることに気付き、横目で何度も様子見していた。世間の中で生きているというのは、時として他人の目を気にすることと同義であるのだが、空を突き抜けてヴァンアレン帯にまで達しようかという程に膨れ上がった気持ちを抑制することはできない。他人の目など気にしてはいられない。親友を信じる気持ちはダマスカス鋼の剣のように強固だったはずなのに。それが裏切られたのは想定外でまさに慮外千万だ。何らかの形で、心に沈殿している灰色の靄を吐き出さずにはいられない。


「……そんな醜い根性を心の中で飼っていたから、天罰が下ったのよ。いい気味だわ。一度、チアガール地獄を味わってみればいいのよ……って、あれ?」


 思考の行き違いに、ようやく気付く。


 萌乃の隣の席の生徒が、先生に指名された。質問内容は教科書に分かりやすく書いてあることだったので「殿試」と無難に答えていた。萌乃にとっては隣の席であっても、遠い対岸の問題だ。


 萌乃にとって重要なのは、こちら側、自分の足元の問題だ。世界史の勉強は後からでもできる。


 幸枝がメンバー落ちしたのは骨折が原因だ。だとしたら、いかに手の指だけとはいえ、チアガールとして炎天下で激しい踊りをするのは現実問題として不可能だろうか。西野教諭は、自身で正しいと信じることは、たとえ生徒が嫌がることであっても躊躇なく強要するが、無理無体なことをさせる人ではない。手の骨折とはいえ怪我をしていて体調が万全とはいえない生徒に体力を消耗する踊りを強要して、その生徒が熱射病あたりで倒れたりしたら、責任問題となって社会から制裁を受けてしまう。中央高の西太后は、現実の西太后と比肩しうるほどに専制独裁独裁君主ではあるが、歴史に学んでいる差か、暴君ではないのだ。


「まあ、幸枝がチアガールをできないならば、誰か別のメンバー落ちした人の中から選び出して四人にする、ってことになるかな」


 野球部応援のメンバーに入れなかった吹奏楽部員の中から、女子四人がチアガールとして西太后の独断で選抜される。楽器を演奏するために吹奏楽部に入ったのだ。実力が及ばずにメンバー入りできず、裏方を担当させられるのはやむを得まい。だが、まるで罰ゲームのような羞恥プレイをさせられるのは誰にとっても本意ではなく、毒々しい白い煙の立ち籠める無間奈落に突き落とされるごときショックだ。でも西太后には逆らえない。落選した男子部員とチアガールにならなかった落選女子部員は、試合当日には裏方として吹奏楽部員のフォローをすることになる。声と拍手で応援し、飲物を運んだり、試合終了後にスタンドのゴミ拾いを率先的に行ったりする。


 恐らく幸枝は、その裏方になるだろう。


 実力があって、一年生の頃からメンバーに入っていた幸枝は、まさか自分がメンバー落ちするなどという事態は想定していなかったはずだ。今回の骨折はショックなのだろうけど、だからといって萌乃に八つ当たりするのは筋違いというものだ。


「いい気味、ってものよ」


「先生に当てられたのがそんなにいい気味か? ちゃんと殿試って答えたけど」


 隣の男子生徒が燕の嘴みたいに唇を尖らせながら小声で囁いた。萌乃の声に出さない呟きは、いつの間にかヒートアップして、小声になって出てしまっていた模様だ。それでも、聞こえたのがせいぜい隣の生徒であって、先生には聞こえていなかったらしいのが不幸中の幸いだ。先生は教卓に肘をついて、教科書に記述されている内容を解説している。教科書のページの右上あたりに、桃の枝に鳩がとまっている絵が掲載されているが、その作者は徽宗という宋の皇帝だという。生きていく上では役に立ちそうにない無駄知識だ。でも受験には大いに役立つのだろうから、桃鳩図を描いた文人皇帝も誇らしいだろう。


 完全な誤解であるが、隣の男子生徒の誤解の原因を作ったのが萌乃であるのも事実である。自分が悪いからには素直に謝罪する。授業中であるからには「ゴメンゴメン」と小声で呟くだけだ。


 自分が悪いと分かっているならば、素直に謝ることができる。


 幸枝との確執が発生した原因は、萌乃には無い。幸枝が怪我をしたのがそもそもの発端だ。その怪我にしても幸枝自身の不注意によるもので、萌乃には全く因果関係は無い。幸枝の怪我によって結果的に萌乃がトランペットのポジションを奪うという得をしたけど、それはあくまでも結果だ。萌乃は悪くないから、幸枝に対して謝るのも筋違いだ。怪我をした幸枝が、ポジションをゲットした萌乃につっかかる義理は無いのだが、確実に掴みかけていたものを直前で失ってしまった失望感が大きいであろうことは想像に難くない。幸枝の無念の心情を思うと、幸枝に譲歩を強要するのも憚られる。畢竟、萌乃も幸枝もどちらも引くことができず、お互い落ち着くべき鞘に収まることができず、鍔迫り合いを継続しているような、身まで削られてしまうが如き嫌な心理状態に置かれている。


 原因としては自分が悪いわけではない。でも、実質的にポジション獲得が確定的になったことを喜んでいる小泉萌乃もいる。高校に入ってから吹奏楽を始めたばかりの後発の萌乃であっても、それなりに練習を積み重ねてきたのは事実だ。ポジションが欲しいというのは素直な気持ちだ。おおっぴらに喜んでは不謹慎だと知っていても、虚心坦懐な嬉しい気持ちは偽ることはできない。


 女子高生のやわらかな心は、五線譜に描かれた音符が平坦ではないのと同じで、常に波打ち、揺れて短調のような音色を奏でる。


 易きに流れるは人間にとって堕落の始まりであるからには、間違った道へ行ってはいけない。他人の不幸を喜ぶような人間になってはいけない。むしろ他人の痛みを自分のものとして共感して同情できるような優しい心を常に持ち続けなければならない。人としてあるべき姿と、ポジション獲得に欣喜雀躍する自分の正直な気持ちとが、まるでキリスト教世界とイスラム教世界がせめぎ合う中世のコンスタンティノープルのようだ。ボスフォラス海峡に面する古都には歴史のロマンと郷愁があるかもしれないが、やわらかいハートを抱えた日本人女子高生にとって板挟みの葛藤は痛いだけだった。


 自分がこんなイヤな人間だったとは思わなかった。整然と畝を揃えた畑のようだった萌乃の心に、自己嫌悪という雑草が生え蔓延し始めた。


 青紫色のためらいが心の裡を占める。これではいけない、と思う。中学時代から親友としてやってきていた幸枝と気まずいままでは、自分の体の右半分と左半分が突然犬猿の仲になったかのような不自然さと落ち着きの悪さを感じる。まだ半年以上残っている高校生活を実りあるものにするためにも、幸枝との仲直りは不可欠だ。


 今すぐ、というのは現実路線に沿うならどう考えても無理と結論づけて、気持ちを落ち着ける。教室内は相変わらず世界史の先生が教科書に書かれている事項を説明している。昼食直前の授業のため、萌乃以外の生徒の集中力も切れかかっている。糖分欠乏症に喘ぐ教室中の脳が、弁当から補給される栄養を心待ちにしている。窓際のくたびれた様子のカーテンは波間に漂う病葉のように心許なげに揺れていた。


 文人皇帝徽宗は、靖康の変という事件で北方の狩猟民族に首都を落とされ、自らは拉致された異国で死去してしまったという。


 明日あたりから、タイミングを見て仲直りを目指そうと決意する。こういうケースでは、冷却期間も必要なのだ、きっと。頭に血が上って熱くなった状態では、まともに相手の言い分を聞くこともできないという場合が多々あるものだ。そして、そういう人物が下手に権力を握ったりすると史実のような西太后になるのだ。


 スピーカーからチャイム音が教室中に鳴り響く。もう授業終了時間が来ていたことに気付いていなかった世界史教師は、不意打ちを食らったかのように自らの左手に巻いた高級そうな腕時計と教室に掛けられた円いシンプルな壁時計とを交互に見比べている。


 幸枝と違うクラスである、というのが現在の状況では萌乃にとってかえってありがたい。距離をおきたい時に、状況が自動的に距離を作ってくれる。


 長く感じたけれども終わってしまえばあっという間だった授業が終わる。世界史教諭は慌ただしく教室から出て行く。一刻も早く愛妻弁当を広げたいのか。


 世界史の授業がひとコマ終わるこの瞬間にも、新たな世界史は紡がれ続ける。スケールはそれよりも随分小さくても、萌乃の歴史は大きなターニングポイントを迎えている。


「仲直りの前に、自分の気持ちをきちんと整理しなくちゃ」


 席から立って、萌乃は声に出して独り言を紡いだ。視界の隅では留実が両手の拳を天に突き上げるようにして気持ちよさげ伸びをして、午前の授業が終わった解放感を満喫していた。


 自分の気持ちにきちんと向き合って的確に知る。というのは簡単そうに思えて、青春時代の高校生にとっては最も難しい問題だということ。その事実を分かっているような分かっていないような萌乃であったが、理屈がどうこうではなく、実行するしか道は無い。


 たった一人の闘いが、これから始まろうとしているのを予感し、萌乃ははからずも武者震いした。


 闘いの行方がどちらに向かうのか、闘いが終わったらどうなるのか、今は分からないまま、まっすぐに向かって行くしかない。


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