第8話 怪我人の決意


 野球部応援演奏とコンクールの追い込み時期には、普段は無い早朝練習が吹奏楽部でも行われる。野球部が早朝練習をしているのに、吹奏楽部だけ余裕綽々という態度でいられるほど、西太后の手兵たちは天稟の実力に恵まれてはいないのだ。礎を作ることができるのは唯一、継続的な努力のみ。


 いつもより早い時間に家を出るので、朝食の時間も自ずと早くなる。


 この日は目覚めてすぐに、クラスの日直に当たっていることを思い出した。面倒なことではあるが、だからといって疎かにすることはできない。もし日直の業務を誠実にこなさなかったことが西太后の耳に入ればどうなるか。世界史の授業の中では悪の象徴のようなニュアンスで扱われている恐怖政治というのは、下々の人間を束縛することにより成果を上げる一面があることだけは否定しようが無いものだ。


 娘の生活に合わせて、母は文句も言わずに朝早くに朝食と弁当を作って、萌乃を送り出してくれる。


 いや、時々冗談めかした口調で文句は言っている。「低血圧だから起きるのが大変だわー」という母の言葉を右から左へと聞き流しながら、萌乃は俯き加減で朝食の味噌汁をすする。


 娘としては、母親の前で不景気な顔をしたくはないが、あえて明るい表情を貫ける程の演技力も無いし、そこまで精神的余裕のある問題ではないから。


 それくらい、幸枝という存在は、中学時代からの親友として大事な位置を萌乃の中で占めていたのだ。改めて思い知った。磁石のN極とS極が互いに引き合うように、自らの偽らざる心は、幸恵との関係が再修復されることを願ってやまない。


 しかし仲直りのきっかけというのは、なかなか上手く掴めないものであるらしい。萌乃の見込みが甘かった。幸枝との和解は未だ果たせず、二人の間に横たわる隔絶はギンヌンガガプの谷よりも深い。


 谷から這い上がろうにも、断崖絶壁は磨き上げた鏡のように取っ掛かりが皆無で、きっかけが掴めない。幸枝はまだ怒っていて門を閉ざしている。幸枝の方から萌乃に話しかけて来ることは無い。


 お互いが歩み寄るのではなく、萌乃が一方的に譲歩させられるとなると、面白かろうはずがない。陽はまた昇り繰り返すように、萌乃もまた不機嫌な日々を繰り返していた。


 幸枝とかち合わないように意図的に時間をずらしている帰り道に、自動販売機で三五〇ミリリットル入りの缶コーラを買って、一人であおる。大人が、日頃のストレス解消と称してビールを飲んでいるのと同じ感覚だった。幸枝が炭酸飲料は口の中がピリピリする感覚が嫌だから飲まないので、勝手にあてこする意図もあった。濃い炭酸が口の中で弾けて、舌や上顎の粘膜を小さい針でひっきりなしに刺す。


 毎日が、指と爪の隙間を針で少しずつ刺され続けているようなものだった。練習をしていても、どうも集中できない。音出し練習をしても、濁った音しか出てこない。自分で分かるくらいに音質が悪いのだから、客観的にはよほどの低レベルな音を排出していることになる。


 このままではまずいと思ってはいる。あまりにもレベルが低いと、せっかくトランペットパートでのメンバー入りが確実なのに、西太后の逆鱗に触れてしまっては落とされてしまう危険もある。定員が二名だから、一年生と田辺と萌乃の二名でほぼ決まりなのだが、最後まで油断はできない。それに、メンバーに選ばれること自体が目標だったわけではない。メンバーに入った上で楽器を演奏して野球部応援を盛り上げる、というのが目的だ。あくまでもメンバー入りというのはそのための手段なのだ。


 でも練習が、中身の入っていない蝉の抜け殻のような今の状態では、無事にメンバーに残れたとしても、本番の時に満足な演奏ができないで終わってしまうかもしれない。


 前評判通りの強さを発揮して野球部が勝ち上がれば、吹奏楽部の演奏の機会も増えるから、一度くらいは不満足な演奏の回があったとしても再挑戦できるかもしれない。それでも、野球部が必ず勝ち上がるという保証はどこにも無い。


 メンバー入り確実で嬉しい、でも親友と気まずくなって戸惑う、と同時に自己嫌悪、真面目に練習はしても演奏の実力が向上しないばかりか逆に下降線を辿っている、などといった負の連鎖がドミノ倒しとなって、学校の勉強も調子が悪かった。受験に関係の無い科目はともかく、必要な教科でさえ集中ができない。例えば英単語を、目を通して脳に叩き込んだつもりでも、その次の瞬間には削除ボタンを押したかのように鮮やかに消し飛んでしまっている。


 行列を乱された蟻のように、今の萌乃は自分の行くべき方向を見失って右往左往していた。


 勉強で困っているといえば、利き手が骨折のため板書を筆写できない幸枝の方が物理的な理由で困っているはずなのに。萌乃の場合は精神的理由であり、気の持ちようで充分に改善可能であり、もう高校三年生であるからには、そういった気持ちの切り換えもそれなりにできなければ、人間として、やがて社会へ羽ばたく鳳雛としては恥ずかしいことである。


 ぼんやりとした不安が、いつも以上に顔にも出ていたのか。


 今までは何か言いたそうにしていながらも口を噤んでいるようだった母親が口を開いた。ややどんよりとした曇り空が窓を圧している小泉家の朝食の席が、更に重くなった。


「萌乃、あんた、最近なんか元気無いような感じがするけど、学校でちゃんとやっているの?」


「や、やっているよ……」


 何を、ちゃんとやっているのか明確にはなっていなかったが、萌乃はパブロフの犬よろしく反射的に答えてしまった。あくまでも自分の問題なので、親に心配をかけたくないという防衛本能も働いていた。


「部活の方もいいけど、勉強も頑張らないと。英語とか数学とかは、毎日の積み重ねが大事なんだよ」


「分かってるよ……お母さんこそ、フラダンス教室、ちゃんと通っているの?」


「もちろんちゃんと週二回続けているわよ。人の心配よりも自分のことをちゃんとしなさいよ」


 継続の重要性を言うなら、楽器の練習も毎日の積み重ねが大事だ。今日、練習をやらなかったから明日、二倍の練習をすれば良い、という単純計算は成り立たない。筋肉のようなもので、使わなければ能力は衰えてしまう。そういう意味では、吹奏楽部は筋肉を使って活動する部活であり、やはり文化系ではなく体育会系だ。


 茶碗に残っていた最後のご飯粒一つを器用に箸で摘んで口に運んでから、萌乃は席を立って洗面所に向かった。早く学校に行きたいという以上に、この場に長居していたら母に自分の本音を全て聞き出されてしまいそうで怖かった。


 テレビでは、視聴者の何パーセントが必要としている情報なのか不明だが、世界主要都市の天気が流れていた。ニューヨークは曇り。北京は快晴。ローマは雨だった。画面はコマーシャルに切り替わり、萌乃と同い年のアイドルタレントがえくぼを作りながら美味しそうに低脂肪ヨーグルトを頬張る。


 世界の遠いどこかの天気予報などよりも、自分の心の天気予報があればいいのに。青っぽいテレビ画面を顧みながら、萌乃は「いってきます」と棒読み口調で言った。


◇◇◇


 早朝練習が始まる前に日直の用事を済ませておこうと、萌乃は自分の教室に鞄を置いてから、職員室へ向かった。


 まだ生徒の少ない校内は、少しひんやりしているようにも感じられた。放課後の学校というのも独特の雰囲気を持っているものだが、授業開始前の朝の学校もまた、朝焼けのような寂寥感と希望とが綯い混ぜになってたおやかに時が流れている。


 階段が作る陰影は静けさの中で息をひそめている。体育館の方に行けば、バレー部かバスケ部か、どこかのクラブが朝練を行っているのだろうから、賑やかさに出会うこともできるのかもしれない。その対比として、始業前の廊下は地下迷宮の通路さながらの無機質さが際だっていた。


「あ、小泉先輩、おはようございます」


「田辺くん。おはよう」


 踊り場で出会ったのは、同じ吹奏楽部の同じトランペット担当、一年生の男子生徒だった。寝坊したのか、田辺の頭頂の毛髪はアンテナのように跳ねていた。


「あれ、小泉先輩、朝練は? 行かないんですか?」


「行くよ。今日、ウチのクラスの日直だから、職員室に寄って用事を済ませてから音楽室に行くから」


 そう言い残してすれ違う。階段を昇って遠ざかる足音と、階段を降りる自分の足音とが丁度良いタイミングでアンサンブルとなった。


 もし担任の先生がまだ出勤していなかったりしたら無駄足となってしまい、朝練終了後にまた来なければならなくなる。そんな二度手間になったらイヤだなぁ、と心配していたが、杞憂だった。まがりなりにも進学校なので、教師も授業の準備が色々あるのだ。また、部活の顧問を引き受けている者も多いため、早朝練習のために生徒よりも早く来ている。生徒だけで練習を行い、何か問題でも起きたりしたら責任問題が面倒になるため、練習において具体的な指示などをしなかったとしても、顧問の先生は居るようにしているのだ。


 萌乃のクラスの担任教師は、もうすぐ定年になる国語教諭だ。部活の顧問は受け持っていないものの、年寄りだから朝の目覚めが早いのかもしれない、と萌乃は失礼な考えを抱いた。


 担任から日誌を受け取り、退屈な注意事項を立ったまま拝聴する。早く教室に戻って日誌を置いて、すぐに音楽室へ行きたいのだが、こういう時に限って無駄な長話に束縛されて解放してくれず、急いでいる時になかなか青に変わらない赤信号のようで、苛立ちが募る。


 ふと視線を泳がせた萌乃は、すぐ近くにある西野教諭の席に注意が向いた。聞き覚えのある声が流れてきたからだった。


 椅子に掛けて脚を組んでいる西野教諭の前に、立ったまま項垂れ気味の女子生徒がいる。大きな鼻も口も、現在はやや控えめに沈んでいる。怪我をしているため練習に参加できないので、早朝練習においても集合義務を免除されているはずの幸枝だった。


 幸枝のクラスの担任教師が西野教諭ということではない。幸枝は日直として職員室へ来ているのではないのだ。あくまでも吹奏楽部の顧問教諭として西太后に用があって早朝の職員室へと足を運んでいるのだった。


「斎藤さん、あなた、本当にそれでいいの? 怪我は大丈夫なの?」


「完全に大丈夫、ということはないと思います。でも、他のメンバーに迷惑をかけるようなことはしません」


「こればかりは、やり始めたけど無理だったから途中でやめる、ということをされると対処に困るのよ」


 鋭い目線に神経質そうな鋭い声。いつも通りの西太后の様子だった。紺のタイトスカートから伸びる白い足を組み替え、また反対に組み替える。膝とひかがみが落ち着く場所が無いのだ。


「途中でやめたりしません。最後まで吹奏楽部の一員として、控え要員ではなくて、もっと形のある方法で野球部の応援をしたいから、立候補するんです」


 萌乃の耳から伸びる意識の糸は、完全に幸枝と西野教諭の会話へと繋がっていた。すぐ目の前で喋っているクラス担任の声は、萌乃の鼓膜は震わせているが、心の共鳴板に対しては無影響だった。萌乃の視線も、担任教師の皺の寄った口許に焦点を結んではいるが、意識が伴っていない空っぽだった。現在の萌乃が眺めている光景は、無声白黒映画の中で忙しなく動くチャップリンのようなものだった。


 西太后は黙ったままだった。日頃口やかましい教師が言葉を封印したままというのは逆に生徒の不安を煽る。


「こ、個人的理由もあります。アタシの、その、恋人が、野球部の選手なので、応援したいんです、どうしても」


 飼い主を見上げるチワワのような哀願の表情と声音が功を奏したのか、西野教諭の表情が金管楽器のシャープさから木管楽器の穏やかさへ変容した。


「分かりました。私も鬼ではありませんから、生徒がそこまで熱意を持って挑むと主張するのなら、それを認めるにやぶさかではありません。何事も、やる前からできないと決めつけるのではなく、挑戦してみるということが大事ですからね。斎藤さん、あなたがチアガールになることを認めましょう」


「ありがとうございます」


 幸枝は三角定規をあてがったかのように直角に腰を折り、西太后に礼をした。そして、風を巻いて逃げ去るようにして職員室から出て行った。


 追いかけるつもりは無いが、それでも居ても立ってもいられず、萌乃もまた担任教諭に礼をしてた。担任の話はまだ終わっておらず、呆気にとられた表情で引き留められたが、萌乃は聞こえない振りをして、日誌を胸に抱きかかえて足早に職員室を出た。


 何かに急き立てられるように廊下へ飛び出して、幸枝の後ろ姿を見つけたけれども、ただ空しく虚空に手を伸ばすだけで、声をかけることができない萌乃だった。


 あとはただ、制服に着られた高校生たちとスーツに着られた公務員である公立高校教諭たちが行き交う廊下が静かに佇むのみだった。


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