第9話 世界最強の剣も世界最強の盾も
日曜日の夕方は蒸し暑さを孕んでいた。東の空に浮かぶミルク色の月も、輪郭が少し滲んでいるように感じられる。遠くでカエルが鳴いている声が聞こえる。
自転車をこぐ足に力を入れる。中学時代に中距離走で鍛えた萌乃の脚力は、ペダルを回転させる運動のためにはあまり役立ちそうになかった。別に急ぐ必要は無いし、むしろゆっくり気味に行きたいくらいだ。夕方。スーパーのお総菜に五〇円引きとか半額とかのシールが貼られ始める時間。
母が買い物へ行く時に使う自転車は、萌乃にとってはややサドルが低くて乗りにくかった。
買い物に行くように母に頼まれた時は、最初は断ろうと思った。せっかくの休日、吹奏楽部の練習すら休みという奇跡的な日なのだから、一日中、図書館から借りてきた本を読んでゆっくりしたかった。だが、もし断ったら勉強しなさい勉強しなさいと言葉の機銃掃射を受けてしまいそうだと咄嗟にさとり、避難と気分転換を兼ねてスーパーに出かけてみることにしたのだ。まだ雨が降り続いていたら小言を言われてでも外出はしたくなかったが、タイミング良く雲が切れ始めているのを見逃さなかった。
いわゆるママチャリで疾走する萌乃は、道ばたの小さな水たまりを軽快に避ける。ブレーキレバーを握ると悲鳴のような甲高い音が鳴って不快なので、なるべくは減速をしないようにスピードを維持した。
民家の庭では紫陽花が花をつけていて、小さな花びらの集合体は紫水晶のようだった。燕が忙しく飛び踊っている。古い平屋の軒先に巣を作っているのだ。
陽が照りだしたとはいえ、もう夕方なので山吹色の光が穏やかな光景を描き出すだけだ。水無月らしからぬ六月の雨は、降り方こそ物憂げだったが、去り際は潔かったようだ。アスファルトはまだ乾いていないため全体的に黒く染まっていて、自転車の車輪が転がるのと呼応して水性の糊を剥がす時のような音が小さく伴う。光の反射が直接目に入ると、突き刺すような煌めきとなる。輝きの中には、交通事故の車が残したらしいガラスの破片によるものも混在していた。
萌乃を取り巻く世界は、いつも美しい。だからこの街も学校も雨上がりの情景も嫌いではないのだと思う。
雨奇晴好というだけあってどんな天気にも趣があって、珠玉の美しさで世界は萌乃を包み込んでいる。
だが、今の萌乃にとっては心が空っぽになると、そこに優先的に忍び込んで来るのはポジティブな思考ではなかった。
私服のスカートが風を受けて孕むのを、無意識に片手でおさえる。
黒い自問自答が萌乃の中に湧き上がる。まるで、三国志で有名な黄巾の乱のように澎湃と。
本来なら自分が即席チアガールになるはずではなかったか? でも幸枝の怪我で、運命は一八〇度転換したのではないか? そう、これは萌乃にとってラッキーなことだったのだ。自分はメンバー入り確定的だ。
借りた本の主人公の台詞にもあったが、自分を取り巻く世界はいつも美しい。それは子供の時から知っている。むしろ幼い頃の方が、見るもの全てが真新しく宝石のように輝いていたほどだ。
母の小言も、実際に苦戦している勉強も、息が詰まりそうな西太后の独裁も、歯車が狂いだした幸枝との関係も、全てを側溝に流してしまいたい。萌乃は顔の正面に風を感じながら願う。道の脇には重そうなコンクリートの蓋と、所々に鉄のグレーチング。隙間に挟まった土からは雑草が生えて生命力の強靱さを歌う。路上の雨水は黄色と茶色の中間ぐらいに染まって、少しずつ側溝に流れ込んでいる。
なかなか自転車の進み具合が思わしくなかったが、いよいよペダルが重く感じ始めた。不審に思いつつ大きな水たまりを回避しようと右にハンドルを切った時、後ろタイヤの動きが萌乃の想定を裏切った。バランスが崩れた時、常に片手で走っていたため持ち直すことができなかった。
「いっ……たい」
幸い、その時は車は通っていなかったため、右膝から落ちてその場にうずくまっても、轢かれずに済んだ。スカートの裾が乱れているので、痛みを堪えて慌てて立ち上がり、自転車を引き起こして周囲を見渡した。自転車で走っていた主婦が止まって「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。
誰かに下着を見られた、という心配は無さそうだったが、自転車で転倒というみっともない場面を見られてしまった恥ずかしさで顔から火が出そうな気分だった。火力では、西洋のお伽噺に登場するドラゴンが口から吐く炎にも匹敵しそうだ。それでも、心配してくれる人がいることが嬉しくもあり、微妙に照れくさい気持ちを抱えて「大丈夫です」と何度も何度も小さく頭を下げた。
親切な主婦が去ると、擦り剥いた膝の痛みが少しずつせり上がって来た。痛みに涙がうっすらと滲んだが、転んで痛くて泣いたとなると小学生みたいで恥ずかしいので、萌乃は必死に堪えた。そよ風が通り過ぎただけでも、赤くなった膝が脈打つように痛む。
「ついてないなあ」
異物を踏んだわけでもないのに、どうして急にバランスを崩して転倒してしまったのか不思議だったが、引き立てた自転車の後輪を見て重い重い息を溜息を半開きの口から零した。
タイヤのゴムが、死んで鮮度の落ちた烏賊のように潰れていた。
その場に立ちつくした萌乃は、自転車に乗った小学生に追い越される。ウォーキングをしているらしい熟年夫婦にも追い越される。犬の散歩をしている人にも追い越されただけでなく、その雑種犬にも無駄に吠えられた。
「どうしよう」
膝は痛いが、これが帰路でなかったのはラッキーだったかもしれない、と思い直した。買った荷物も一緒に転倒していたら、卵や煎餅はことごとく割れていただろう。
「さっきガラスの破片踏んだからパンクしたのかな?」
最近、市内では交通事故が多発しているらしい。まさか自分がその二次被害を食らうとは。
自転車を押しながら歩いてスーパーへ向かう。先に買い物を済ませないと、買いたい商品が売り切れになってしまうかもしれない。買った物を家に持ち帰ってから、自転車屋にパンク修理に行けばいいだろう。ご近所のハヤシサイクルさんは、夕方遅くまで営業しているので、今日預けておけば明日ぐらいにはパンクを直しておいてくれるだろう。
「私って、運がいいのか悪いのかどっちなんだろう」
吹奏楽部で、野球応援のメンバー入りが確定的になったことは、ラッキーと言っていいだろう。幸枝の災難を考慮に入れなければ。だがそれ以外の部分では、不幸なことも身に降りかかってきているように思える。天の配剤で幸福量保存の法則が働いて帳尻が合うようにできているのかもしれない。
我田引水ではないが、自分の所に幸福が流れ込んで来るようにするには、やはり日頃の行いが良くなければならないのだろう。もっと積極的にお母さんの手伝いでもしよう、と思いながら、萌乃は自転車をスーパーマーケットの駐輪場に入れた。パンク自転車が盗まれる心配をするのも面倒くさいとは思いつつもしっかりとチェーンロックをかける。
店内に入ろうとすると、店の前に繋がれていたゴールデンレトリーバーに吠えられ、びっくりして左胸をおさえた。金色っぽいふさふさの毛と人懐っこい優しい目を持つ大きな犬は、あまり吠えない品種のはずだと萌乃は認識していた。予想のつかない出来事も起こるということだ。
スカートのポケットから買い物リストのメモを取り出すと、乳房の丸い感触が残る右手で買い物かごを持った。想定よりも到着が遅くなったので、膝の痛みを我慢して早足で店内を巡った。
◇◇◇
今日も暑くなりそうだな、と思いながら朝の通学路を一人で歩く。どうせ幸枝は早朝練習に参加はしないので、竹島小児科の前で待つこともなく、そのまま学校へ向かう。
学校前のバス停で、丁度バスから降りてきた数人の吹奏楽部員と合流して、四階の音楽室に向かう。
先に来ている部員たちは、既に音出しを熱心に行っている。この場所は戦場だ。自分以外の部員は、苦楽を共にする戦友であると同時に、ポジションを争うライバルでもある。楽器別のパートがあるから、直接利害が絡み合う人は多くはないが。
「おはようございます小泉先輩」
「田辺くんおはよう」
萌乃にとって後輩の一年生田辺は、つい先日までは自分よりも上回っている強力な好敵手だった。ところが幸枝がトランペットパートから外れてチアガールに回ったため、今では萌乃と田辺がたった二人のトランペット同士の戦友だ。実力を発揮してライバルよりも強く質の高い音を出さなければならないが、ソロ演奏でないからには、自分以外のトランペット奏者や他の楽器との協調も大事だ。
「小泉先輩、足、どうしたんですか?」
田辺は口から完全にトランペットを離し、萌乃の右膝に目をやった。
昨日、擦り剥いた膝は血が滲んでいて、傷口付近はかなり赤くなっていた。萌乃はハヤシサイクルから帰宅してから水道水で傷口を洗って絆創膏を貼った。若くて新陳代謝も活発な女子高生とはいえ、さすがに一晩寝ただけでは怪我は治らないので、今朝、新しい絆創膏に貼り替えてきた。皮膚の色に近く、貼っていることがあまり目立たないタイプの絆創膏なので、バス停で合流した数人の部員たちには全く気づかれなかった。あるいは気づかれつつも指摘されなかっただけなのかもしれないが。あまり大きなものではないとはいえ、玉の肌に瑕瑾を持つことは高校生の女の子としては良いことではない。ふくらはぎまでの白いソックスの上。絆創膏さえ貼ってあれば、赤くなっている部分は完全に覆い隠すことができている。
「昨日、自転車で転んで怪我しちゃったんだ。でも田辺くん、目立たない絆創膏なのに、よく気づいたね」
「ストッキングでも穿いていれば気づかなかったかもしれませんね。でも、男だったら、女の人の素足についつい目が行ってしまいますから」
「えっ、田辺くん、真面目そうな顔して、いつも女の子の足なんて見ているの? もしかして結構むっつりスケベ?」
田辺の隣、自分の席に座りながら、萌乃はスカートの裾を丁寧におさえた。今日も暑くなりそうなので、絆創膏を隠蔽するためにストッキングを穿いてくるという選択肢は最初から考えていなかった。
蒸し暑さの気配を感じつつも、音楽室は今日もまた窓も扉もきちんと閉めてあり、ハイドンやチャイコフスキーを看守とする牢獄のようであった。楽器から吹き鳴らされる音は縦横無尽に流れるが、涼しさを運ぶ微風すら流れることはなく、女子生徒の白セーラー服の襟も布の柔らかさを放棄してどこか重そうに凝固している。
「そんな変態を見るような目でボクを見ないでくださいよ。男だったら誰だって性欲は持っているだろうし。それに、見られるのがイヤだったら、そんな短いスカートじゃなくて長いスカートを穿けばいいじゃないですか」
男のジレンマと女のジレンマ。萌乃と田辺に限らず、昔から繰り返されてきたであろう議論だった。
「長いスカートって、なんか大昔の不良少女みたいじゃない。スケバン、だったっけ? 今時誰も穿いていないからかえって変に目立って格好悪いよ。短いスカートの方が、脚線もきれいに出てカワイイんだから、やめるわけにはいかないよ」
萌乃はプリーツスカートの折り目を撫で整えると、素肌の太腿に両掌を置いた。一七歳の高校三年生という若さの特権、真珠のようななめらかで白い肌。青春時代の輝きというのは、当然内面から溢れ出す活力のことを言うのだろうが、それは肉体的外見の美しさがあるからこそ両者が相乗効果で高め合えるものなのだ。
「つまり、男に足を見られたいから、短いスカートを穿いているってことですよね?」
「そうじゃなくて。周囲の風景のように自然に視界に入るのは問題ないんだけど、そうやってジロジロ見られるのはイヤなのよ」
「それって完全に矛盾してますよね」
「矛盾じゃないわよ。女の子は、美味しいスイーツも食べたいし、でもダイエットをして美しいプロポーションも保ちたいし。そういった感じで、世界最強の剣も世界最強の盾も、両方欲しがるワガママな生き物なのよ」
「矛盾は、剣と盾じゃなくてホコと盾ですけどね」
雑談に花が咲き、二人は音楽室の空気の微妙な変質に気付くのが遅れた。
「田辺君! 小泉さん! あなたたち、無駄話をするのだったら、練習に来なくてもいいんですよ!」
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