第10話 一生のお願い


 神経質な怒鳴り声は背後から浴びせられ、瞬間的に肩を竦ませながらトランペットパートの二人は振り返った。いつもは音楽室の前の入口から入ってくるはずの西野教諭が眼鏡を光らせて仁王立ちしていた。神経質なほどに細く剃り整えられた蛾眉が瞋恚の炎を体現しているかのように斜めになっていた。


 吹奏楽部の部員たちがお互いに戦友でありライバルであるならば、顧問教師の西野先生は鬼軍曹とでもいうべき立ち位置だ。軍隊のように困難な任務に立ち向かうには、士気を鼓舞する行軍ラッパを吹き鳴らすことが必要なのだ。野球応援時に演奏する曲目は、子供から大人まで親しみ易い有名アニメソングが多いが、演奏している吹奏楽部はアニメーションのような長閑で平和な雰囲気ではない。


「大会は近いのですよ。まだまだ日があるなどと暢気に構えていたら、あっという間に試合の日になってしまいます。小泉さん、あなた三年生なのに、そんなに気持ちが緩んでいて良いと思っているのですか! おしゃべりばかりしていて、まだ自分の楽器も準備していないなんて、たるんでいますよ!」


 自分だけが一方的に怒りの矛先を向けられるのは理不尽だという思いが二パーセントぐらいあったが、全く反論の余地が無いていたらくだった。萌乃は三年生であり、もうすぐ「最後の夏」を迎える。一年生の田辺は先に来てトランペットの音出しをしていたが、萌乃はまだトランペットを準備してすらいなかった。まずい場面を西太后に目撃されてしまったものだ。


 背筋から肩の僧帽筋辺りにかけて、蒸し暑さを吹き飛ばしてしまうような冷や水を浴びせられた感覚だ。全身の毛穴が開いて嫌な汗が噴出しているようだ。まさか今から野球応援メンバーを外される、という心配は無いだろうけど、西太后に悪い印象を与えてしまうと、その後のコンクールメンバーが危うくなる。中央高校吹奏楽部である以上、最後の最後まで一瞬たりとも油断はできないのだった。


◇◇◇


 早朝練習で肝を冷やした萌乃は、怯えた小動物のように気が小さくなった。授業の合間の休み時間になっても、留実や青木との雑談もどこか気詰まりであまり楽しめなかった。風に乗って毛虫が飛んでいるのを目撃した、という知りたくないような怖い物見たさもあるような話題だったが、トイレに行くという口実で教室から出た。


 トイレに行って手を洗った後、水色のタオルハンカチで丁寧に指をぬぐう。白魚のような、と形容しても名前負けせぬような細く白い指は、シャープペンシルを握って勉強する時にもトランペットを奏する時にも大活躍する。骨折して使えなくなる、などというシチュエーションは想像すら困難だ。幸枝とは違って自分の場合は、傷を負ったのは右膝であり、それも擦り剥いて赤くなって痛いだけという、怪我とも言えないような小さな怪我でしかない。楽器の演奏にも受験勉強にも影響を及ぼす負傷ではない。


 手洗い場から自分の教室を眺めると、随分と遠くにあるような錯覚が生じる。学校は、鉄筋コンクリートで積み上げられた砂漠なのだ。すぐに教室に戻る気になれず、萌乃は用があるわけではないけれども廊下を適当に散歩した。


 授業中は教室内で缶詰にされている反動だろう。生徒たちは休み時間になると開放感を湛えた表情で思い思いの場所にたむろしている。コンクリートの校舎が六月の熱を吸い込み、廊下にも教室にも満遍なくぬるい空気が充溢している。


 萌乃以外にも廊下を出歩いている生徒は多かった。高校三年生の男女が林立する上、まるで元旦の初日の出のように少し飛び出す形で丸い坊主頭が見えた。長身の野球部エース、対馬の後ろ姿だった。隣には女房役である小山捕手も立っていた。


「なっ、頼むよ。この通り。一生のお願い」


 対馬と小山は二人並んで、観音様に拝むように両手を合わせて長身を屈めるように頭を下げた。


「なんでそんなお願いを聞かなきゃならないのよ」


 声色こそ不機嫌さを帯びているため聞き覚えはあまり無いが、声そのものは聞き慣れている女子生徒のものだった。吹奏楽部に所属して毎日毎日音と格闘しているのだから、野球部バッテリーの向こう側にいる親友幸枝の声を認識し損ねることはない。


 今の二人の関係は親友と言うには怪しく、雨で緩んだ土壌のようではあるが。


「そこを曲げてなんとか頼むよ幸枝。俺たち三年生にとっては最後の夏だからさ。ベストを尽くしたいんだよ。後悔したくないからさ」


「イヤって言ったらイヤよ。大体二人して、何回一生があるのよ」


 幸枝の声が更に少しうわずる。


「そこは言葉のアナだから突っ込まないでくれよ」


「おいおいコヤマン。それを言うなら言葉のアヤだろ? アナだったらむしろ突っ込んでください、みたいな」


 野球部二人は大声で笑い合った。天下無敵の思春期男子らしい下ネタギャグが自分で言って自分でウケてしまったのだ。だが幸枝の笑いのツボには入らなかったどころか、かえって機嫌を損ねただけだった。


「男の人ってすぐにそうやって変な方向に思考が行って最悪。だから、そんなお願いなんて絶対に聞くことはできないから」


「そう言わずにお願いしますよ。ほら、カフェ・トゥルヌソルで幸枝が好きだっていうケーキでもおごるからさ」


「コヤマン。アタシのことを、食べ物で簡単につれる女だと思わないで」


 恋人である小山の懇願を冷淡な態度でツンと突っぱねる幸枝。三人とも、少し離れた場所で萌乃がやりとりを聞いていることには気づいていない様子だ。


「だって、いつもデートの時にあそこのケーキ美味しそうに食べてるだろ。それとも、いつも食べているから、ありがたみが無いのか?」


「だからそういう問題じゃないのよ」


 野球部二人の間から、幸枝の姿が垣間見えた。セーラー服の胸元の青いリボンが、まるで幻の青薔薇の如く凛として映えていた。中央高では、学年により女子生徒のリボンの色が違う。一年生は赤で二年生はグリーン。ブルーのリボンをつけているからには、高校生活最後の夏をこれから迎える。勉強にせよ部活にせよ、真剣さが一味違う。


 男子生徒は当然ブルーリボンを付けていないが、最後の夏に向けてのベストを尽くす姿勢では負けていない。


「幸枝、『アタシにできることは何でも協力するわ』って言っていただろう。頼むよ」


「だから、できることは協力する、って言ったわよ。あなたたちの言っていることは、できないことよ。絶対不可能だから」


 もうこれ以上無駄な議論を重ねたくない、という意思表示だろう。左手に教科書を抱えた幸枝は踵を返して教室内に入っていった。白いセーラー服以上に、右手の先に巻いている包帯の白さが哀しく光っていた。その場に取り残された対馬と小山は顔を見合わせた。


「……ところでコヤマン、次の数学の宿題やってきた?」


「全然やってねえ。てか対馬もどうせやってないんだろ?」


「バーカ! おまえとは違うって。俺はやったんだぜ。やったけど、全然分からなかっただけなんだからな」


「それ、全然自慢するこっちゃねえべや! どうせ難しいからってすぐに諦めて、エロ本でも見てたんだろ?」


 言って小山は、長身対馬の胸を軽くドツいた。二人はそのまま明るく笑い合いながら、教室へと入って行った。


 廊下に佇み、三人の様子を見るとはなしに見ていた萌乃だけが取り残された格好だった。もうすぐ休み時間が終わって次の授業が始まる。まだ廊下を行き交っている生徒も多数いるが、そんな中でも萌乃だけがぽつんと一人ぼっちだった。


 くるりと回れ右して、少し俯き気味に自分の教室へと向かう。日が高いため、廊下の窓からはほとんど直射日光は入って来ないが、その眩しさが自分には痛すぎるように感じ、萌乃は小さく顔を背け、横に垂れた髪の毛で壁を作って光を遮断した。


 幸枝の恋人であり野球部キャッチャーでもある小山と、背番号1を背負うエース対馬が、幸枝に何を頼んでいたのかは、萌乃には想像する余地もなく全く分からなかった。幸枝がどういう気持ちで、一生のお願いという安っぽい定型句を付けた頼みを断ったのか、萌乃には分からない。中学時代からの付き合いであっても、別々の個性を持った人間であるからには、分かり合えない部分も当然ある。気持ちがすれ違うことだってあろう。


 だが、お願いを手厳しく断られてもめげることなく、和気藹々として仲の良い野球部二人を見ていると、萌乃は嫉妬の気持ちが湧き上がって来るのを自覚せずにはいられなかった。


 対馬くんと小山くんは、本当に親友同士なんだ。と、声には出さず心だけで小さく呟く。


 友情、信頼。人間関係というのは人の数だけ存在するものであり、それぞれがオンリーワンだ。優劣を比較してナンバーワンを決するような性質のものではない。


 対馬と小山も、同じ野球部に所属しているからには、お互いにライバルであり、チームメイトでもある。競い合うと同時に助け合って力を合わせる切磋琢磨の関係だ。ピッチャーの対馬に関していえば、同じポジションの有望な一年生が入ってきて自分の地位が安泰ではない、という点でも萌乃と共通する。


 人は人、自分は自分。自分と比べて他人を羨んでも仕方ない、ということは分かっている。それでも、良好な人間関係を保ちながら頑張っている対馬を見ていると、萌乃は自分が情けない人間に思えてしまい、悄然とした気持ちになった。


「戻るか。教室に」


 勉強は学生の本分だ。対馬はあまり勉強は得意ではなさそうだ。萌乃も決して成績優秀というほどではないのだが、せめて勉強くらいは対馬よりも頑張っておきたいという対抗心が春の黄砂のごとく湧き上がってきたのだった。


◇◇◇



 授業が終われば、掃除当番などの他の用事が無い限り、吹奏楽部員であるからには音楽室へ直行する。


 特に本日は、かねてから顧問の西野教諭が宣言していた通り、野球部応援における正式メンバーの発表がある。今更、早めに音楽室に来て音出し練習に励んだところで、西太后の心象が変わるわけではないのだが、不安を塗りつぶす自己満足行為が必要なのだ。試験当日になって焦っても良い成績が取れるわけではないと経験で分かっていても、最後の最後まで悪足掻きをして単語帳をめくって念仏のように英単語を唱え続けるのと同じだ。何か行動をすることによってそちらに神経を集中させていないと、心の中に押し寄せて来る不安の黒い雲に包み込まれてしまう。


 西野先生は、正式メンバーの発表は月曜日に行う、と先週言っていた。本日、早朝練習の時には、私語をしていた萌乃と田辺が叱られただけで、鬼軍曹西野はメンバー発表をしなかった。


 つまり、西太后本人が自身の発言を忘れていない限り、これから始まる放課後の正規練習の中で発表があるのだ。


 音楽室へ向かう途中、数人の吹奏楽部員と合流する。男子部員も女子部員もみんな、笑顔で挨拶は交わすけれども、心中は決して無風の油凪状態ではない。萌乃もまた、弥勒菩薩のような穏やかな微笑を貼り付けていたものの、仮面の内側では絶望的な不安の闇に飲み込まれかけていた。革命軍に捕まってギロチンへと引き立てられる王党派政治家のような心境に似ていたかもしれない。


 階段掃除当番らしい赤い胸リボンの一年生女子生徒が、ほうきで一段一段丁寧に掃いて埃を集めていたが、吹奏楽部の一団が通りかかったので慌ててスペースを空けた。まるでお通夜のような雰囲気を纏った重苦しい足取りの面々を見て、一年生女子生徒は追いつめられたウサギのような表情を隠しきれずにいた。


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