第11話 中央高校にはチアリーディング部はありません
萌乃も含めて音楽室に到着すると、先に来ていた部員たちにより普段以上に気合いの入った音出しが行われていた。チューバの太い大音量が鼓膜を圧迫する。トロンボーンもファゴットも負けていない。全楽器がフォルテッシモで奏すると埋もれてしまうようなピッコロまでもが強烈に自己主張している。音と音とが混ざるのではなくぶつかり合うことによって不協和音が形成される中で、トランペットが質の高い澄んだ音を響かせているのを、音楽室に入ったばかりの萌乃の耳が捉えていた。
萌乃が自分の席に着くと、隣に座っている一年生田辺はトランペットの音出しを続けたまま、軽く会釈しただけだった。下に視線を落とした一瞬に萌乃の膝付近に視線をやっていたが、すぐに興味をなくして、真っ直ぐ前の虚空を見つめたまま音出しに集中した。西太后が今の様子を見張っているわけではないが、今朝の失点を取り戻したい一心なのだ。
田辺の更に隣の席、いつもならば斎藤幸枝が座る一番窓際の椅子は、今日も誰もいないまま冷たい四本脚で佇んでいるだけだった。
さすがに同じ失敗を幾度も繰り返しては、仏の顔も三度までという昔の人が作った諺が現代において適用されてしまう。そうでなくても顧問の西野先生は赫奕と照りつける砂漠の日輪のような女性教諭であり、仏などではなく最初から鬼なのだ。萌乃はすぐに自分の楽器を準備し、音出しを始めた。演奏する実力は劣っていても、二年強の吹奏楽部経験があるからには、耳は肥えている。田辺の出す音色と比べたら、自分のトランペットは蚊の飛ぶ音のようで、折れそうなほどに細くて揺れながら漂っている。
職員の会議が長引いたのか、西太后が来たのはいつもよりも遅い時間だった。音楽室の空気が引き緊まる。普段通り締め切って熱の籠もっている吹奏楽部の聖域は、さらに若人たちの熱気が爆発寸前というほど溢れ、吐き出され続ける音の洪水は不規則な渦を巻いて四隅を留めていた画鋲が一個取れているブラームスの肖像を微かに震わせた。
「はい。音出し練習やめ」
怒鳴り声ではなく、普通の発声ではあるが、吹奏楽部員たちは西野の声を聞き漏らすことはない。全ての楽器は休止して、無数の音は壁や天井を形成しているボードの小さい円穴に吸収される。、攪拌されていた室内の空気は地球の重力に従って少しずつ沈殿し始めているようだった。
「先日言った通り、野球部応援演奏に出場する正式メンバーを、今、発表します」
来た。ついに。この時が。
音楽室に閉じこめられた哀れな囚人達が一様に緊張して身を強張らせる。
西野教諭は、手元のメモ帳を見ながら、各楽器パートごとにメンバーを一人ずつ読み上げて行った。
萌乃も含めて部員たちは、歯医者で歯を削られる時のように体に力を入れて緊張の面持ちで静聴していた。田辺の腕時計が刻む一秒一秒の音が、隣から妙に大きく響いて聞こえる。アイボリーホワイトの校舎の外では、六月の陽気の中で緑が豊かに茂り、馥郁たる香りが光の煌めきと共に初夏を彩っているはずなのだが、四階の音楽室は小さな蚊すらも潜り込めぬほどに窓を密閉しているため、重苦しい蒸し暑さという要素だけが窓を透過して萌乃たちに降り注ぐ。
「木管楽器。ピッコロ、山本さん。フルート、秋山さんと高橋君。オーボエ、佐々木さん。ファゴット、……えー、ファゴットは今年の野球応援では使わないことにします。次、バリトンサックス、中田君」
発表は淡々と続く。当選した部員は最小限の安堵の表情を浮かべ、目指していたパートで落選した部員は、僅かに肩を落とす。当落の内容自体は、さほど驚きのあるものではなかった。楽器パートが同じならば大抵は、経験年数の差で上級生の方が実力で勝っている。また、実力が同じくらいならば上級生、特に三年生が優先的に選ばれる。おそらく、阪神甲子園球場を目指す野球部や国立競技場を目指すサッカー部や他の部活であっても、実力が同等なら三年生優先は同じだろう。
残念ながら希望のパートで落選した人は、運が良ければ、別の楽器に回される。さもなくば裏方だ。もし試合当日に正規メンバーに欠員が出た場合、補欠として急遽演奏に加わるケースも想定されている裏方だが、臨時で演奏に加わるケースはほとんど考えられない。実力が無いと西太后に判断されたからこそ落選したのだ。インフルエンザの大流行で正規メンバーの大半が欠場した、などといった、音のバランスが著しく狂ってしまう場合の補填以外では、裏方が楽器を奏する機会は与えられない。そして、まがりなりにも補欠的要素を持っている裏方からも落選してしまった哀れな女子生徒四名には、楽聖ベートーヴェンの交響曲第五番のような最悪の運命がハ短調で扉を叩きかけてくる。
音を出すことを前提として防音処置も施された音楽室は、静寂が支配している。ただ西野教諭がメンバーを読み上げる声だけが木訥とした調子を帯びて、静かな川のように潺湲と流れる。
「次に金管。トランペット、田辺くん、小泉さん。ホルン……」
分かっていたことだ。トランペットパートの第一席は一年生の田辺。そして第二席は、怪我で脱落した斎藤幸枝ではなく、小泉萌乃。それでも歓喜と安堵がマーブル模様の渦を巻いて心を席巻するのが心地よく、萌乃は頬を緩ませた。気が付くと、白セーラー服の青リボンの下では、心臓がヴァイキングメタル並の激しさで脈動していた。一拍ごとに右膝のまだ生々しい傷が少し痒い感じで疼いた。
萌乃は自分に言い聞かせる。ここで喜んでいちゃダメだわ。これからが大事なんだから。メンバーに選ばれることは目的ではなく手段。本当の目的は、野球部の試合の時に精一杯応援して、野球部を盛り上げて勝利に導くことなんだから。
顔は動かさずに目線だけを横に移動させると、田辺は真っ直ぐ前だけを見つめて、落ち着いた表情をしていた。トランペットパート定員二名のところを候補者が二名だったのだから、一年生ながら当選確実だったとはいえ、田辺は浮かれた様子は微塵も見せない。
その後も次々と決定メンバーの発表は続く。打楽器パートの発表を終えると、演奏メンバー当選者は全て網羅したことになる。
「最後に。中央高校にはチアリーディング部はありません。そのため、当日の応援に華を添えるため、四名の女子部員には臨時でチアガールをやってもらいます。その四人をこれから発表しますので、今日以降は放課後の練習時間では楽器の練習をせずに踊りの練習をしてください。その代わり早朝練習参加は免除します。これも、吹奏楽部の重要な役目だと認識して手抜きをしないようにお願いします。それでは、チアガールを担当してもらう四人は……」
自分がその四名に入らなかった幸いを喜ぶべきなのか。
四人のために、同情すべきなのか。
発表された女子生徒四名は、三人が初心者の一年生で、最後の一人が三年生の斎藤幸枝だった。
怪我人である幸枝がチアガールの方でメンバー入りしたことは、部員たちには驚きを以て迎えられたらしい。鬼軍曹の睨みがあるから大きな声には出さないものの、意外性が細波の揺らぎとなって音楽室に伝播し満ちる。職員室での幸枝の直訴を立ち聞きしてしまった萌乃にとっては想定通りだった。
分かっていたこととはいえ、幸枝がチアガールになるという正式決定は、重い事実として受け止めずにはいられない。
「斎藤さんは、今日は病院へ行くという連絡がありましたけど、明日からはチアガールとしての練習に参加するそうです。一年生の三人は、斎藤さんと協力してダンスの練習に励んでください。去年まで使っていた練習マニュアルを渡しますので、それを見てしっかりとやってください。私は、そちらの視察にはあまり行けませんけど、決して気を抜かないように。油断していると大怪我をしますからね」
指名された一年生三人は、楽器演奏の実力で劣る自分たちが落選してチアガールにされてしまうであろうことは予想していたのだろう。マニュアルを受け取って、比較的しっかりとした足取りで荷物を持って音楽室を出て行った。これから体育の授業用のダサいかぶりジャージに着替え、今日のような天気の好い日は校庭の隅で踊りの振り付けを練習するのだ。萌乃は一年生の時にチアガールを経験しているので、彼女たちがどういうことをするのか知悉していた。
「名前を呼ばれなかった人は、裏方になってもらいます。今後も、裏方の人も正式メンバーと一緒に今まで通りに練習してもらいます。当然早朝練習も参加必須です。万が一の時には正式メンバーの代わりに演奏を担当する可能性もあるのですから、どうせ自分は裏方だからと気持ちが腐ってしまっては、いざという時に大恥をかいてしまいますよ」
西野先生の声は、普通に語っているだけでも極めて神経質そうに聞こえる。それにより、裏方の者に対しても緊張感を与える効果は充分発揮している。
連絡事項伝達が終わると、通常の練習が始まる。
正規メンバーに選ばれた萌乃も、いつも以上に気合いを入れてトランペットを吹く。今日も暑いので、一階に設置されている自動販売機で買ってきたコールド緑茶の五〇〇ミリリットル入りペットボトルを置いてある。暑さのせいですぐにぬるくなってしまう運命ではあるが、蒸し暑いばかりか密閉空間のため微風すら吹かない環境にあっては水分補給は若く瑞々しい肉体と精神を維持するために必要不可欠だ。
運にも恵まれたとはいえ、せっかくメンバーに選ばれたのだから、良い演奏をしたいと思う。それと同時に、不幸な怪我が原因でチアガールになった幸枝が気の毒であり、申し訳ないような気持ちが胸の中で同居する。頑張ろう頑張ろうと思っても心が快晴ではないので、迷いが唇の余計な震えとか過剰な肩の力となって、自分で思うようなクリアな音が上手く出ない。
真夏になればアブラゼミもミンミンゼミもヒグラシも一斉にけたたましく鳴くように、音楽室は様々な吹奏楽器の音が四方八方に飛び散る。トロンボーンもホルンもフルートもメンバー落ちしたファゴットも、それだけではなくトライアングルやティンパニのようなパーカッションも音色の妍を競う。
今回、野球応援のメンバーに入れなかった者にとっても、楽器の音出し練習に関しては真面目に取り組んで損をするものではない。野球応援は七月の中旬くらいに行われる。もしも野球部が地方大会のトーナメントを勝ち進めば七月の下旬までだ。その後には、吹奏楽部にとっては本命ともいえる、全日本吹奏楽コンクールの地方予選が七月下旬に行われる。その時には、野球応援で使用したアニメソングではなく、課題曲と自由曲を演奏することになる。即ち、個別の曲の演奏に関してはともかく、音出し練習はやっておいて無駄にはならない。今、頑張ってきれいな音を出せるようになっておけば、今回野球応援メンバーに入れなかった者でも、コンクールメンバーには逆転で選出されるかもしれない。
野球応援メンバーに入ることができた萌乃も、決して油断できる立場ではない。現在はコンクール用課題曲の練習と野球部応援用の曲の練習を併行しているから、コンクール曲のみの演奏で田辺の技術に今から迫るのは非常に困難だ。しかし音出し練習ならば演奏する曲がアニソンであるか課題曲であるか無関係に、今の頑張りがストックとしてコンクールの時にも活きてくるはずだ。
額から汗が滲む。どういうふうにか眉毛を乗り越えた汗の滴が目に入り、痛い。楽器を持つ手を離し、目をこする。小休止ついでなので、ペットボトルのお茶を一口飲む。横をうかがうと、田辺もまた顔中に汗が水玉となって浮かんでいる。それでも定規をあてがったかのように真っ直ぐに背筋を伸ばした姿勢でトランペットを吹く姿は堂に入っている。
他人のことを気にするような立場ではない。自分のことをしっかりやらなければ。
絶好調にはほど遠いとはいえ、だからといって気持ちまで枯れ草のように萎れていては始まらない。萌乃は自らを鼓舞して奮い立たせる。
マウスピースに付ける唇の振動、ただ単純に吹き込むだけでは鳴らない楽器から音を生み出す息遣い。音階を渡り歩くためにバルブを押し込む指の動き。暑気に耐えて意識を集中し、一つ一つの動作を肉体に覚え込ませる。
顧問の西野教諭は、絶対的君臨者として音楽室全体を睥睨し、手兵が良質な音へと順調に高めつつあるか、抜かりなく目を光らせていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます