宝石の刻 ~野球部を応援する吹奏楽部員も青春だ!~
kanegon
第1話 ラッキーセブン
7月11日
もっと気力を振り絞らなければ、と熱い息を吐きつつ萌乃は自らを鼓舞した。太腿にまとわりつく制服のスカートがまどろっこしく感じるが、それでも眉を顰めたりせず、笑顔だけは頑なまでに維持する。全身の激しい動きに従って胸が上下に揺れ、ブラジャーのストラップが背中や肩に食い込んでくる。縛っていない長い黒髪が踊り乱れて空中に迷路を描いているようだ。
高校野球地方大会の試合は七回まで進んでいる。
七月の空は遮る物が何も無く、桶を引っくり返したような直射日光が降り注ぐ。現代日本において栄光を目指す闘いが繰り広げられるスタジアムは熱気に満ちていて、剣闘士が命を削って闘ったという古代ローマでグラディエイターたちが泣き笑いした円形闘技場を髣髴とさせる。
グラウンド上の選手たちの白いユニホームは土と汗に塗れている。それでも闘う高校生たちの表情は真夏の太陽よりも輝く。
一つの白球を追って、日頃の厳しい練習の成果をぶつけ合う。ひたむきに若さを燃やす高校野球、夏の甲子園を目指す熱戦が行われている真っ最中だ。
青春、という言葉が割と安直に当てはめられる。が、それで間違いではないのだろう。若い頃だけが青春というわけでもないだろうが、高校生というのは青春というワードの全盛期であるのは確かだ。
地方大会の一回戦なので、開放されていない外野席には誰も観客はいない。だがバックネット裏には平日にもかかわらず熱心な高校野球ファンが一杯に詰めかけている。一塁側と三塁側の両校応援席には、ベンチ入りできなかった野球部員、学校の生徒、父兄たちが、暑さに耐えながら声をからして応援している。応援する者にとっても、待ちに待った高校野球シーズンの到来なのだ。
現在は、三塁側の中央高校が攻撃中なので、萌乃たちが陣取る三塁側スタンドからは、吹奏楽の演奏が嚠喨と鳴り響いている。暑さに苛まれてあまり脚は上がっていないが、チアガールたちも必死に踊っている。
炎天下でダイヤモンドを駆け回る選手たちに疲れの色が見えるのは当然として、スタンドで声援を送る人びとも渇水状態の早明浦ダムのように声が干上がり始めていた。ましてや応援している自校が劣勢だと、応援による疲労が、あたかも江戸時代の貧しい農民に課せられた年貢のごとく重く感じるのは不可抗力だ。
萌乃は、汗で湿って額に張り付いた前髪を、左手で軽く払った。いや、払おうとしたが、手に持っている黄色いモノが邪魔で、上手くできなかった。夏服ではあっても、高校の制服を着たままのハードワークは無謀だということを萌乃は思い知る。だが、服装云々を気にしている場合ではなかった。
今まで、「西太后」との異名を取る苛烈な女性顧問教師の下で、気力と体力が勝負の吹奏楽部で頑張ってきたのだ。西太后が口を酸っぱくして繰り返し言っていた不撓不屈の精神こそが今までに培ってきた財産であり、財産は使いどころを間違えればタダの役立たずでしかない。中学時代に陸上部の中距離走で体力アップしていたはずの萌乃だったが、あまり貯金が残っていないらしい。
逆転を願う萌乃たちの気持ちが通じたのか。中央高七回ウラの攻撃は、期待された四番打者と五番打者があっさり凡退してツーアウトを取られながらも、六番バッター、背番号10の選手がセンターオーバーの大きな二塁打を放ち、得点のチャンスを作った。あの背番号10の選手は一年生だという。下級生で試合に出ているだけあって、バッティングのセンスも優れているようだ。
続いて、背番号2というからキャッチャーの七番打者が右打席に入り、鈍い銀色の金属バットを構える。テレビゲームの異世界ファンタジーRPGに登場するミスリルの剣よりも聖なる輝きを有しているように見える。
試合の様子を見守りつつも、萌乃はこっそりと右を見、左にも流し目を遣る。今の恥ずかしい自分の姿が、周囲の目にはどのように映っているのか。羞恥心は破棄したつもりでも、やはり気になっていた。
額を、頬を、首筋を、滝津瀬の汗が伝い流れる。ブラジャーが食い込む背中に微妙な痛みと痒みを感じていたが、萌乃は耐え続けた。野球部にとっても、萌乃にとっても、今は大事な局面なのだ。
実業高校のエースピッチャーが投げ込んだ白球は、金属音を空に響かせつつ、ライト方向に弾き返された。緑の天然芝を構成する草の一本一本を、薬草を調合するのに使う薬研でゴリゴリ磨り潰すような鋭いゴロだった。スタンドやバックネット裏からは歓声なのか悲鳴なのか差異も無いような大きな叫びが起こる。
二塁走者が疾駆する。三塁ベースコーチが、右手を大きく回して白い包帯の軌跡を空中に描く。ライトからの矢のようなバックホームと、スパイクシューズで地球を削って薄皮を剥くような走者のスライディングが、白い五角形の上でほぼ同時に交錯する。萌乃が吹奏楽部で頑張ってきた二年半にわたる日々の記憶もフラッシュバックする。
審判の判定が出るまで、永遠にも等しい時間が球場内を漂っているように思われた。
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