第31話 エピローグ1 幸福量は保存される


 放課後になっても、吹奏楽部員は気持ちを緩めることはできない。学生の本分はすべからく学業であるべきだが、部活はそれ以上に神経を使う場所である。生徒によっては、画業以上に重心がかかっていたりもする。


 音楽室に向かう前に、萌乃は原稿用紙を持って職員室に向かった。


「あれ? 小泉さん? 職員室に何か用事あったの?」


「あ、対馬くん? いや、用事っていっても、そんな大したことじゃ……」


 萌乃は言いごもった。先日の件で反省文を書かされて、西野教諭に提出してきたところだ、とは言いたくなかった。なお、萌乃だけではなく、もちろん幸枝も反省文を書かされている。


 職員室の前で出会った対馬の手には、今も白い包帯が巻かれていた。


 三年生であるからには、最後の大会が終わってしまえば引退だ。これまでの努力でエースピッチャーとして背番号1を獲得したにもかかわらず、大会直前の怪我によってマウンドに立つことができず、一球も投げずに終わってしまった。


 運が悪かった、と言ってしまえばそれまでの話だろう。


 恐らく、そんなに珍しい悲劇でもないだろう。たぶん、よくある話だ。


 だが、だからといって、そういったありがちな悲劇に巻き込まれた本人の気持ちが平穏ではいられないだろう。


「対馬くん、怪我で投げられなくて、残念だったね……」


「う、うん、さすがにショック大きくて落ち込んでいるわ、今でも」


 対馬の声が暗鬱に沈んだ。


「そ、そうか。そうだよね……」


 そう簡単に割り切れるものではないだろう。


「まあ、これも勉強なのかなって思ったけどね。努力したからといって必ずしも報われるわけじゃないっていうのって、多分高校を卒業して社会に出たら、当たり前なんじゃないかなーって思ってさ」


「でも……」


 それはそうかもしれない。努力が必ず報われるなどと、青臭いことがある程度通用するのは学生時代までなのかもしれない。世の中は理不尽が普通なのかもしれない。しかし萌乃は思う。逆に考えれば、せめて学生時代だけでも、努力がそれなりに報われてもいいんじゃないか。


「俺のことで小泉さんが落ち込まないでよ」


 対馬は笑顔を浮かべた。ぎこちない笑顔だった。萌乃に心配をかけたくないという一心なのだろう。


「なあ、小泉さん、以前に俺さ、幸福量保存の法則、って言ったの覚えている?」


 萌乃は首をひねった。


「世界史の教科書を忘れた、って時に言っただろ?」


「あー、そう言われてみれば、そんな話をしていたかも……でも、それがどうしたの?」


「俺、思ったんだ。幸福量保存の法則ってのがあるのなら、大会直前に怪我をして投げることができなかった俺って、ものすごく不幸だよな? ってことは、バランスを取るために、何か良いことが俺に起こる、って思わないか?」


「え? 何、それ? それって、幸福量保存の法則を逆手に取ったというか、もっとハッキリ言えばずる賢く悪用した考え方じゃないの?」


「まあそうかもしれないけど、別にそういう考え方をしちゃダメだってルールがあるわけじゃないだろう。だから俺、思ったわけだ。幸福量保存の法則で良いことが起こるのなら、大胆に攻めるべきじゃないかって」


 それを自分に対して力説して何の得があるのだろうか、と萌乃は困惑の色が心の中で変にマーブル模様を描いた。


「俺さ、小泉さんのこと、好きなんだわ。付き合ってくれないかな?」


「え? それって、もしかして告白? 幸福量保存の法則が、どうして告白になるのよ?」


 怒ったように声にトゲトゲしさを持たせて、萌乃は言い募った。少しだけ、心臓がドキドキしているのを自覚できたが、無視した。ゾンビでない限り心臓がドキドキしているのは当たり前だ。


「野球の方は自分は怪我して投げられなくてチームも一回戦で負けちゃって散々だったけどさ、それを埋め合わせるように、いいことがあるってことだよ。ってことは、告白が上手く行くかもしれないから、思い切って告白してみたらいいんじゃないか、って言われたんだ」


「言われた、って、何? 誰かの入れ知恵?」


「そんなの、サッチー斎藤さんとコヤマンに決まっているじゃないか。……あの二人、協力してくれるって言っていたから、そろそろ来てくれるはずなんだけどな……」


「協力?」


 みんなで力を合わせるのは素晴らしいことだ。野球にしても吹奏楽の演奏にしても、一人だけではできないことも、みんなで力を合わせれば達成できる。


 だが、恋愛の告白で、協力する要素というものが、果たして存在しうるのだろうか。


「あ、萌乃! もう反省文出してきたの?」


 声をかけてきたのは、萌乃と同罪ということで反省文を課せられた幸枝だった。幸枝が、書いた反省文を提出するために部活に出る前に職員室に来ることは、妥当な行動だろう。だが、恋人である小山も何故か同伴だった。


「おう、対馬。告白は成功したか?」


「まだ返事もらってないんだよ。約束したんだから、ちゃんと協力してくれよ」


「協力って言われてもなあ。結局本人の気持ち次第だし。……ということで小泉さん、対馬はなかなかイイ奴だからさ、付き合ってみるといいよ」


 とてもやる気の無さそうな言い方で、キャッチャーがエースピッチャーをお薦めした。幸枝は原稿用紙を持って職員室に入って行った。


「ねえ、なんなのコレ? なんか三人でグルになって私に何か仕掛けようとしているの?」


「別に何も悪いことなんか企んでいないよ。対馬と付き合ったらいいよ、っていうだけの話だよ。そうすればオレたち四人ともハッピーになれるんだよ」


「なんで? おかしいんじゃない? 幸福量保存の法則ってのがあるんでしょ? それなのに、四人全員がハッピーになるって、計算が合わなくない?」


 関係者全員が幸福になる、といった都合の良い事象が、存在するものだろうか? 萌乃には疑問しか出てこない。野球の試合をすれば、片方のチームは勝ってトーナメントを上がることができるが、負けた側のチームは悔しさを抱え、三年生は引退だ。両チームがハッピー、ということには、ならないだろう。そうとしか萌乃は考えることが出来ない。


「小泉さんは、対馬と付き合えば、恋人ができてハッピーになれるだろう? 対馬は、こんなファンキーな奴ではあるけど、これでも野球部のエースピッチャーだ。普通だったら野球部のエースと付き合えるのは女子マネージャーくらいなんだぞ」


「野球部に女子マネなんか居た?」


「いや、いないけどさ」


 野球部のエースがモテて、女子マネージャーが存在するのは、甲子園出場を狙えるレベルの私立の強豪校くらいではないだろうか。中央は普通の公立高校だ。今年は上位進出が狙える、と言われていたようだけど、蓋を開けてみたら結局初戦敗退だった。


「対馬にしてみれば、小泉さんと付き合うことができれば、最後の大会で投げられなかった傷心を少しは癒すことができるだろう」


「まあ、そこまでは分からなくはないわね。私と対馬くんが当事者なんだし。それで、なんで小山くんとサッチーが関係してくるのよ?」


「オレとサッチーは、告白に協力してくれって対馬から頼まれたんだよ。だから、放課後のこの時間に反省文を出すために必ず小泉さんは職員室に来るはずだ、ということで、ここに来たんだよ」


「だ……」


 誰のせいで反省文を書かされたと思っているのよ。と心の中だけで思ったが、萌乃はギリギリで口を噤んだ。


「サッチーは、以前から欲しいバッグがあるって言っていたんだ。それで、告白が成功したらって条件だけど、誕生日プレゼントとしてバッグを買うお金を対馬に出してもらうんだ」


 そういえば、幸枝は欲しいバッグがあると以前に言っていたかもしれない。バッグを手に入れたら、次はマーラーの交響曲のCDを買いたいと言っていたような。だから、バッグが欲しいという話はウソではないのだろう。だが、萌乃的に理解できない部分もあった。


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