第32話 エピローグ2 青春量は保存されず蓄積される


「サッチーと小山くんは恋人同士なんでしょ? サッチーが欲しいっていうものくらい、恋人の小山くんが買ってプレゼントしてあげればいいんじゃないの? いくら成功報酬とはいえ、恋人でもない対馬くんが買った誕生日プレゼントのバッグを愛用するってのも、おかしな話じゃないの?」


「だから、あくまでも、買ってプレゼントするのはオレだよ。でもそのバッグは高いから、対馬に金額半分出してもらう、っていうこと」


「なるほどね。あくまでもバッグを買うのは小山くんなのね?」


「そうそう。これで、告白が成功すればオレとサッチーもハッピーになれるってことが分かっただろう? オレは、費用が半分で済むから、誕生日プレゼントとしてバッグを買うことができる。サッチーは、誕生日プレゼントとして高いバッグをもらうことができる」


 その時、職員室の戸が開き、幸枝が出てきた。強ばっていた顔が少し穏やかになった。西野教諭に反省文を提出するだけでも、精神的負担があるからこうなるのだ。


「あ、萌乃。私も反省文出してきたから、部活行こうよ」


「いやいやサッチー、ちょっと待ってよ。なんか私、バッグの代金として売られているみたいなんだけど……」


「そんな、ネガティブにとらえなくても……野球部のエースピッチャー様が萌乃のことが好きだって言うんだから、付き合っちゃえばいいじゃんっていうだけの話だよ。それとも、萌乃は対馬のことキライなの?」


「別に……キライ、ではないけど……」


 ここで初めて、萌乃は、自分の対馬に対する気持ちがどうなのかを考え忘れていたことに気づいた。


 キライではない。自分の言葉にウソは無かった。では、好きなのか? と考えると、よく分からなかった。考えたことも無かった、というのが正しい。


「キライじゃないんだったら、思い切って付き合っちゃえばいいよ。やっぱりダメだと思ったら別れればいいんだし。萌乃だって、一般的な女子高生として、彼氏が欲しいって思っていたでしょ?」


 一般論として、大抵の女子高生は、既に恋人がいるか、そうでなければ、恋人が欲しいと思っていることだろう。勿論、恋愛に興味が無い例外が存在することは確かだが、一般論としては間違っていない。そして、小泉萌乃個人の場合は、改めて考えてみると、恋人は、やっぱり欲しかった。


 では、今まではどうして恋人がいなかったのだろうか。自問自答する。

 吹奏楽部の練習や勉強が忙しかったから。

 自分自身がそれほど積極的に男子生徒と話したりしてこなかったから、男子生徒から告白される機会が無かった。

 かといって、自分から告白するほど気になる男子生徒も存在しなかった。

 つまりは、総合すれば、萌乃自身に恋愛に対する積極性が無かったから、と言えるかもしれない。


 それが今、野球部のエースである対馬から告白された。突然なのでびっくりしてしまったから、思考が上手く整理できていないが、それは単に今まで彼のことを恋人候補という視点で見ていなかったから見えていなかっただけかもしれない。


 改めて考えてみると、悪い人ではないのだろうと思う。自分のチームに有望な一年生が入ってきて、自分の地位が脅かされても、チームという観点から投手力の底上げになると喜んでいたという。物事を客観視できる冷静さを持ちつつも、背番号1番は絶対に譲らないぞ、という熱い心のプライドは保持していた。


 野球部のエースであるからには、いわゆるグレードの高い男子であることは間違いないだろう。小山や幸枝が言うように、付き合ってみてから考えるのも悪くないのかもしれない。


「うん、分かったよ。そうする。とりあえずお試しで付き合ってみて、ダメだったらすぐ別れるから」


 萌乃の宣言に、聞いていた三人が顔を輝かせた。


「やった。告白成功だね。対馬、萌乃、おめでとう!」


「やべぇ、俺、マジで泣きそうだわ。手を怪我して投げられなくて、ツライことばかりだと思っていたけど、やっと報われた思いだよ。うっ……」


 対馬は本当に涙目になっていて、包帯を巻いた白い手で目元を押さえていた。


「なによ、そんなに嬉しかったの?」


 萌乃には意外だった。対馬は世界史の教科書に大胆不敵な落書きをするような男であり、野球部でエースピッチャーだった。精神がズ太くて、泣くような繊細さは持っていないと思いこんでいたのだ。


「それだけ本気ってことだよ」


 涙声で対馬が言う。その向こうでは、幸枝が怪我をしていない方の手で恋人の小山とグータッチをしていた。


「これで、対馬に金を半分出してもらえるから、バッグ買えるわ。やったぜ」


「バッグを買ってもらえるなら、次は私はマーラーの交響曲第5番のCDを買うことだけ考えればいいってことね」


 ……なんかやっぱり、物欲のために自分が売られたようなかんじだなあ。と嘆息しながらも、萌乃は小さく笑みを浮かべた。


 そういえば、マーラーの交響曲って、ちゃんと全部聴いたことが無かった。自分の好みに合う曲ではなさそうだけど、一度くらいは通しで最後まで聴いてみてもいいかもしれない。アダージェットの部分だけでも好きになれるかもしれない。普段自分から聴こうとしない曲に触れることによってトランペットの表現の幅は広がるはずだ。


 やっぱり、幸福量保存の法則は、あるのかもしれない。


 いや、むしろ、萌乃も対馬も小山も幸枝も幸せになったのだから、幸福の総量としては増えているのではないだろうか。


「付き合うって言っても、私たち吹奏楽部はこれからコンクールに向けて追い込みだから、野球部は引退したって言っても、デートとかはあまりできないからね。あと、何回も言っているけど、あくまでもお試しだから。ダメだと思ったらすぐ別れるからね!」


 萌乃の声は、はからずも少し上擦ってしまっていた。ほぼ勢いみたいな感じで付き合うと思い切ってしまったが、実際に付き合うのだと自分に言い聞かせると、恥ずかしさがあぶり出しのように浮き上がってきたので、その照れ隠しだった。


 だが、幸福量保存の法則はいつでもどこでもファンタジー警察のように熱心に仕事をしていて、四人全員がほのかに幸せのぬくもりに浸っている時間は長くはなかった。


「ちょっと、斎藤さん、小泉さん! 練習にも行かずに、何を職員室の前で騒いでいるのですか!」


 扉を開けて職員室から顔を覗かせた西太后が、化粧に縁取られた目蓋をいからせて叱責してきた。


「あなたたち、反省文の中では殊勝な表現をしていても、口だけですか! そういった生活態度に全く反省の色が見られないじゃないですか!」


 西野教諭に叱られると魂が縮み上がってしまうのは、吹奏楽部員に刻まれた宿命だ。誰も逆らうことはできない。


「す、すみません!」


「すぐに練習に行きますので!」


 萌乃と幸枝は一緒にぺこりと頭を下げて、瞬間の動きで回れ右すると慌てて駆け出した。


「廊下を走ってはいけません!」


「すすすすすみません!」


「ははははしってません歩いています!」


 二人は慌てて急ぎ足の歩き方になった。オリンピックにおける競歩競技のような妙な歩き方になってしまった。


「お、おい……」


 対馬はミイラのような右手を萌乃の方に伸ばしたが、肝心の萌乃は対馬を置き去りにして疾風のように去ってしまっていた。


 対馬の幸福量は少し減った。


「告白OK貰ったんだから、そんなしょげた顔するなって対馬。吹奏楽部は俺たちの試合の時に応援してくれたんだから、吹奏楽部のコンクールの時には、今度は俺たちが応援に行こうや」


 小山の言葉に、対馬は大きく頷きながら、右手の包帯の白さを眺めた。



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宝石の刻 ~野球部を応援する吹奏楽部員も青春だ!~ kanegon @1234aiueo

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