(2)ベランダでの再会

 その後、部屋に戻っても同人誌を読む気にはなれなかった。

 我ながら気持ち悪い話だが、蒼井さんとの会話を何度か思い出しただけで満足してしまい、シャワーを浴びてすぐに寝てしまった。

 だから睡眠時間は十分で、良い仕事ができるだろう……と思っていた。


「おっと」


 ここは周囲に電子部品や計測機器が沢山置かれた試作室。

 手元から滑り落ちたそれに触れないよう、耐熱性が高いビニル床に落ちてからグリップを握ってゆっくりと拾う。三百度以上に加熱された銅の塊に触れたら火傷してしまう。

 だから注意されるのも当然かもしれない。例えそれが、年下の後輩だとしても。


「東野先輩、半田ごて落としたの今日二回目っすよ。気をつけてください」


 起伏の無い声で淡々と喋り、やや長い前髪が掛かるプラスチックの黒いフレームのメガネ越しにこちらを一瞥。


「ごめんごめん」


 俺が謝ると、その小柄な体がロボットのように等速で動き、再び試作基板に集中する。

 彼女は霧島さん。

 今年の新入社員で、俺が指導員として担当することになった女子。

 言動が機械的でエンジニアらしい。飲み込みも早く、指導員である俺は喜ぶべきだろう。

 若干性格がキツめなところもあるが、理系女子にはよくあること。ただもう少しくらい愛想の良い面があってもいいのにと思う。

 例えば、昨晩マンションの廊下で少しだけ話した蒼井さんのような。


「あの……視線を感じるんですが、なんですか? さすがにちょっとキモいです」


 一応敬語なのは先輩への配慮か、しかし冷たい視線で静かに責め立てくる。


「いやいや、他意は無いよ。たまたまさ」


 反発せずに穏やかに言葉を返せば、理系女子とは良い関係を続けられる。学生時代に学んだことだ。

 それに自分が仕事に集中していなかったことは事実なため、反省し作業に戻る。


 この会社は老舗の医療機器メーカーで、俺はエンジニアとして働いている。給料は高くないが残業時間は少ないホワイト企業だと先輩達からは聞いている。実際、四年前に就職を決めたのはそんな雰囲気を察したからだ。

 そんな身が入らない仕事っぷりで午前中を過ごした後、食堂に行き格安の定食を受け取ると、暗黙の了解で俺の定位置になっている席に座る。


「やあ、東野くん。元気?」

「おう。矢口さんおつかれ」


 同じ内容の定食を置き目の前に座るのは、同期社員の矢口さん。

 技術職の俺とは違い、営業職の彼女は持ち前の細身も相まってスーツ姿がよく似合う。

 普通のスラックスにスニーカー、Tシャツの上に不燃素材の作業着を羽織るだけの俺とは違い、活き活きとして輝いて見える。


「疲れるのは午後からよ」

「どうして?」

「取引先の偉い人がエロ親父でさ、憂鬱なのよ。この前、握手を口実にすんごくいやらしい触り方されたよ」

「そりゃ難儀だね。我が社の利益がそういった苦労の元に成り立っているとは、感謝するよ」

「うわー、心無い社交辞令どうもね」

「すまない、悪ふざけが過ぎた……でもそういうのって、正当に主張はできないの? うちは小さい会社ってわけじゃないんだし」

「度が過ぎてればできるけど、いつも反発してたら取引が成り立たないからね。でもいいの。今日はいいとこと合コンだからさ、あたしは仕事上がりのビールと合コンのために生きてるのよ!」

「そっか、そりゃ平和でいいね」


 そう言い切る彼女の意気込みには、無難で乾いた返事をしてしまう。

 社交的で明るい性格だし悪い人ではない。ただ何度も合コンに行っている、といった俗世間に埋もれ過ぎな部分が見えた時は冷めてしまう。もちろんそんな自分の感性が、やや閉鎖的なこともわかっている。


「東野くんは週末何するの?」

「予定は無いから、資格の勉強に街のカフェをうろうろかな」

「真面目だねー」

「技術者らしいだろ?」


 からかわれても余裕のあるユーモアで返すことぐらいはできる。

 それに嘘はついてない。簡単な資格だが遅いペースながら勉強をやってはいる。

 でもいつもと変わらず平凡で、予定とも言えない内容に満足していないのも事実だ。


 そのせいか、ふと蒼井さんのことが頭を過ぎる。

 限フォルや他の作品でもいい、休日にあんな子とアニメや映画の鑑賞会なんてできたら楽しいかもしれない。


「ん、何よ。ぼーっとして」

「えっ、いやいや、なんでもない」


 慌てて手を振って取り繕うが、矢口さんに「変なの」とやや馬鹿にされる。

 同僚を前に、この場にいない女性の事を思い出し妄想に耽るとは良くない。午前もやや腑抜けた仕事っぷりをしたこともあり自分を戒める。

 変態とも思われたくないし、蒼井さんのことは縁があれば良いと割り切るとしよう。


********************


 午後には心を入れ替えて仕事に打ち込めたこともあり、定時上がりで帰宅できた。

 夕食と入浴を済ませ、昨日はできなかった同人誌を眺める優雅な時間を過ごしていると、テレビの下にあるレコーダーが予約していた録画を始める。


 何の番組だろうと一瞬思うが、曜日と時刻から限界フォルテッシモだとすぐに察し、テレビを点けると番組開始直前だった。

 先週のダイジェストからAパートが始まる。面白くて見入ってしまい、CMを挟み気づけばBパートが終わるのはすぐだった。

 今週はギャグに寄った展開、ただ端々に次週への伏線も散りばめられていて楽しめた。


 エンディングが終わり背伸びすると、つい壁越しに隣の部屋を見てしまう。

 彼女も観ていたのだろうか。

 確か放送前にスタンバイしているとは言っていた。そんな下心から、読み掛けの文庫本を手に取り、掃除以外では滅多に踏み出さないベランダへ出てみる。


 この部屋は二階でも一階が半地下のため景色が低い。

 文庫本を二ページだけ読み進めても、隣部屋の窓が開く事は無い。

 そこまで都合良く出会えるわけない、と諦めて室内に戻ろうかと思った時――窓のレバーが降りる音が聞こえた。

 そしてサンダルとコンクリートが擦れる音が聞こえて、


「あれ、東野さんでしたよね? こんばんは」


 アルミの手摺に手を置き、仕切りのボードから蒼井さんがひょっこりと顔を出してきた。

 昨日と違いリボンは無く髪を下ろし、部屋着なのか大きめなサイズのシャツを着ている。


「あ……蒼井さん。こんばんは」


 諦め半分だったのにこの状況が信じられなくて、挨拶を返すのが遅れてしまう。


「名前覚えてくれてたんですね。読書中でしたか、お邪魔ですか?」

「いやいや、ただの気分転換だよ」


 そう答えてから文庫本を閉じる様が我ながらわざとらしい。ただこの程度なら嘘でも許されるだろう。


「あのー、もしかしてさっき、限フォル観てませんでしたか?」

「うん、もちろん観てたよ」


 すると蒼井さんは表情が一気に明るくなり、両手を握り締めて身を乗り出してくる。


「やっぱり! 先週と違ってオリジナルのギャグ回でしたね。でもカインが靡くまでいかなくても、アベルの優しさに感謝する辺りは良かったです」

「あれオリジナル回なんだね。カインが食べる巨大麻婆豆腐は笑ったよ。あの作品、真面目にギャグやるところも好きでさ、なのに設定とかもきちんとしてるのがすごい」

「原作通りなら来週は新キャラも出てきそうで楽しみです」

「へー、原作読んでるんだね……それ聞くと、原作持ってないのに同人誌を買う俺はちょっと情けなく思うよ。にわかっぽいというか」


 昨日、飲み会の帰りにりゅうのもんへ行くのも少し迷っていたぐらいで、同人誌を買う前に原作を網羅した方がいいかもしれないとは思っていた。


「いえいえ、入り方や楽しみ方なんて人それぞれですよ」

「そう言ってくれると助かるよ。半分言い訳だけど、仕事の忙しさを理由に原作を読むのサボってたんだ。学生時代ほどの貪欲さが無くてさ」

「あっ、それじゃ貸しましょうか? わたし全巻持ってますから」


 健康的ながら細い腕でガッツポーズをした後、開けっ放しの窓から部屋の中に飛び込み、原作漫画の第一巻を持って戻ってくる。

 そんな一連の動作にはキレがある、体育会系の部活に入っているのかもしれない。


「あ……押し付けは良くないので、お時間ある時にどうぞ」


 蒼井さんは差し出したコミック本を一度手元に引き、こちらに表紙を向けてくる。

そこまで配慮されて本を手に取らないのは失礼だ。


「じゃ、ありがたく読ませてもらうよ」

「どうぞ……じゃあお願いなんですが。昨日廊下で見た同人誌少し貸してもらえませんか?」


 俺がコミック本を受け取ると、手摺に肩を預けて斜めの姿勢で両手を合わせてくる。


「うん、いいよ。ちょっと待って……はい」


 ベッドに放り投げてあった同人誌に手を伸ばし渡すと、彼女は「うわぁ」と感嘆の声を上げ、瞳を爛々と輝かせて嬉しそうに受け取ってくれた。

 そんな様が初々しくて、自分が初めて同人誌を買った時のことをふと思い出す。


「蒼井さんにそこまで喜んで貰えるなんて嬉しいよ」

「昨日は少し捲ったぐらいだったから、きちんと読みたいと思ってたんです……あとわたしのことは名字じゃなく、名前の希望でいいですよ」


 そう言われて、ちゃん付けにするかさん付けにするか、と悩む自分はやや童貞臭いと思い一瞬で反省する。


「東野さんはお友達とかにどう呼ばれてるんですか?」

「職場の人には東野だけど、友達には創一郎だと長いから、創一って短く呼ばれてるよ」

「なら、創一さんって呼んでもいいですか?」

「う、うん。いいよ」


 溌剌とした声に押されて頷いてしまう。


「じゃあ夜遅いし、また限フォルのお話とかしましょう。わたしたまにベランダとかに出るようにしますので、それじゃおやすみなさい」

「おやすみ……希望ちゃん」


 平静を装ったけれど、名前で呼ぶ時は少し勇気が必要だった。

 ただその甲斐もあって、和んだ良い雰囲気のままお互いに手を振り合って別れることができた。

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