(5)神絵師の事情
部屋に入るとそこは、アトリエと書斎の中間を思わせるような場所だった。
室内の壁一面を埋め尽くすのは資料らしき本の数々。背景用や人体の解説書等、種類によって棚分けしていると以前教えてもらったことがある。
本棚の逆側にあるのが、大型のオフィスチェアとL字型のデスクだ。
デスクの正面に大型の液晶ペンタブレットが置かれ、側面にノートパソコンとプリンターが置かれている。
他にもアナログ作業用なのか、様々なペンや画材などが置かれたスペースもある。
俺達にとっては、完全な非日常。
ここに入れてもらうのは二度目だが、もし絵美さんと知り合わなければ、こんな仕事場に足を踏み入れることは人生で無かったかもしれない。
「すまない。椅子は仕事用のが一つしか無くてね、壁に寄り掛かってくれ」
絵美さんはデスクに置かれた卵型の木彫りを手に取り、窓枠に寄り掛かる。
そのままの姿勢で、卵を片手で擦りながら十秒くらい経つ。
そしてピタリと手元を止めて――話し出した。
「さっきも話したが、中学生の頃は美術部だった……でも一年生の時しばらくは帰宅部だった。それまでは何事も卒なくこなしてきたから、逆にどの分野にも興味が沸かなかった。背丈があったから運動部には誘われたが、特に琴線に触れるような部は無かった」
何事もこなしてしまうという絵美さんの姿は、簡単に想像できる。
「その頃、安易に言えば思春期だね、友達との間で色恋や性的な話題が増えてくる時期。女子トークや男子の悪ノリにも器用に合わせていたが……どうにも、わたしは異性に対する興味が沸かないことに気づいたんだ」
俺は「女たらしないつもの絵美さんじゃないか」と内心で小馬鹿にしてしまった。
「それどころか、同性に興味があるのかといえば違う……わたしは恋愛に興味が持てないのかもしれないと思った。思春期にありがちな温い妄想じゃなく、本能でそう思えたよ」
アトリエ部屋の空気が一変する。
いつもと違い真面目に語り続ける絵美さんの姿を見て、小馬鹿にしたことをすぐに後悔した。
「誰にも悟られないように隠してはいたが恐怖だった。恋愛ができなければ普通の人生は歩めない。人並みの幸せを享受することができず、そのまま成長すれば周囲との隔たりも大きくなるだろう……なんてことを中学生ながら思っていたさ。でも、その時の気づきは今でも間違いじゃなかったと思ってる」
語り出した絵美さんは、過去の記憶を懐かしみながら苦々しくも思っているようで、複雑な表情をしていた。
「わたしの悩みも知らずに教師は何かしらの部活には入れと強要してくるわけだ。だからそんな自分に合う部活ってなんだろう、と考えた。運動部はすぐに候補から外れたよ。極端な考え方だと今なら思うが、どれだけ極めても最終的には普通の社会員になる人が多くスポーツ選手になる人は稀、なれても若い時しか活躍できない。そこで合っていると思ったのが……美術部だ。芸術の世界なら自分の中に溜まり続ける黒い靄を晴らせるような気がしたんだ」
ここまでの話は聞けたことが無かった。
「そしたら、二年生の中頃にはコンクールで賞も取れてね、絵はわたしに合っていたよ。ただ結果は嬉しかったが、心は満たされなかった。そんな冷めた気持ちが外に出たのか、美術部の先輩達から嫌がらせがあった。運動部にスカウトされるほどの腕っぷしと相手の痛いところを抉り出すような言葉を使って、打ち負かしたりもしたよ。でもそれが愉しく感じてしまったから、自己嫌悪もした。だからどんどん浮世離れしていった」
モンバスをしている時の俺がよく知る絵美さんとは全く違う。
ただでさえ普通の人とは違うと感じる事が多いのに、より遠い孤高な存在に思える。
「クラスでも部活でも話し相手が減っていった頃かな……そんな腫物のようなわたしに美術部の後輩、女の子が話し掛けてくれたんだ。わたしの絵を称賛することはせず、内容を理解して指摘してくれたのが嬉しかった。放課後のそんな時間がとても楽しかった」
楽しかった思い出に触れてか、彼女は一瞬だけくすりと笑う。
「その子からある日、告白されたよ。ただね、わたしはその子が好きで嬉しいのに……胸が高鳴らない。その時察したさ、やはり自分は恋をしない、生まれつき欠陥のある人間なのだと。別に酷い境遇で生まれたわけでもない、偶然そうなった」
窓の外を見ながらそう言い切る姿が、美しいとさえ思えた。
「人が好きだが、恋はできない。だからわたしは、誰かが道に迷った時に寄り添うだけの、一時の安らぎを与えるだけ存在であるのが丁度良い。今の彼女にもそう伝えてある……時が来たらわたしから離れなさい、とね」
その視線は夜空を超えて、悠久の彼方へと向いている。
「でもそんな人間は、絵を描くのにきっと向いているはずだと思った。だから高校には卒業できる最低限の出席日数を把握して、可能な限り休んで家で絵を描きSNSに投稿する毎日を送っていたよ。そんな調子でも美大に進学してから仕事も貰えたりしてね、コミケにも年に最低一度は出たり、自分に合ってる生活を送っているよ」
アトリエ部屋の端から端までを指差し、いつもの陽気な様子に戻った絵美さんはどこか満足そうに微笑んだ。
そんな彼女の姿を直視できない。
夏織や天音ちゃん以上の覚悟で自分自身の活動に打ち込んでいるという事実に、打ちひしがれそうだったから。
「以上、わたしが絵を描きになるまでのあらましだ。答えになったかな?」
「はい……聞けて良かったです」
俺は本心のまま答える、見習いたいからだ。
「は、はい。もちろんです……ありがとうございます」
想像以上の内容が聞けたからだろうか、ぎこちない会釈をしながら希望ちゃんは少し申し訳なさそうにお礼を言う。
「じゃあ、一つ訊いてもいいですか?」
俺が問い掛けてみると、希望ちゃんの言葉を待っていたのか、少し残念そうな表情をされたが「いいぞ」と返事を貰えた。
「同じ絵でも、コミケに出たりどうしてヲタクよりの世界を選んだんですか? 美術部でコンクールとか出ててたなら絵画の世界、油絵とか水彩画とかアートのイメージがあります」
「いい質問だ。迷った時期もあったが、簡単に言えば……社会への影響力で選んだよ」
言葉の意味がすぐにはわからなかったが、絵美さんは俺を一瞥してから小さく頷いた。
「今でも美術展に行くぐらい、芸術の世界も好きさ。でもあの世界は、ジャンル自体が社会的な役割を終えていると思うんだ。誰もが知る名画、例えばモナ・リザや最後の晩餐からは学べることは多い。しかし同じくらいの影響を世に与える新しい絵画を描くことは、可能なのだろうか? どんな天才でも不可能な気がするんだ。それに、こんなにも情報や技術が溢れて整理された時代にそんな作品が必要なのかも疑問さ」
絵の分野における創作物の原点は、そういった古典になるだろう。
「だから芸術の世界は、古典さえ永久に語り継がれていけばいいと思ってる。それでも何百年に一人の天才が現れて欲しいとは思うが……そんな開拓者になる勇気も運もわたしには無い。今も名画を作ろうとしている人には、心得が低いと揶揄されるかもしれないがね」
それは美術史に名を残すような快挙だろう。
「古典で学んだ事を活かし、世に溢れるキャラクターや背景を描くスタイルがわたしには丁度いい。アニメやゲームの絵を描くなんて即物的で低俗だと馬鹿にする人はいるが、今の時代なら芸術よりエンターテイメントの方が世の中への影響力が高いだろう。エンタメ作品は、勉強に勤しむ学生、仕事に追われる社会人を、励ましたり癒したり感動させることができる。大袈裟に言えば、辛い時や苦しい時に救われた人間だっていただろう」
最後の言葉を聞いて、俺は何の躊躇も無く頷いた。
本当に心の底から同意できるからだ。
「だからわたしは、芸術よりもエンタメの分野を選んだ。そういう活動の方が成長できて、多くの人に自分の絵が届くと思ったよ」
内容は多少難解でも、わかりやすい説明だった。
古典的な世界を参考に、時代に合った新しいジャンルに飛び込むのが彼女のスタイルなのだろう。実際に絵美さんが描くイラストはどれも綺麗で、ヲタク層だけに媚びたものでない一般層にも通じる美しさを持っている気がする。
しかし希望ちゃんは内容が理解できないのか、困ったような表情で少し俯いている。そんな彼女の様子を察して絵美さんは少し考えてから語り掛けた。
「優劣の話ではないけど今の時代、純文学の小説よりエンタメ小説やライトノベルの方が元気ある部分もあるじゃないか? それと同じさ」
「あ、なるほど……納得です」
咀嚼しやすい砕いた言葉で説明され、腑に落ちたように握った右手を左掌に打つ。
しかしその後、何かに閃いたように希望ちゃんは天井を見上げた。
「なら、漫画とかは描かないんですか?」
絵美さんはなぜか仰け反るように頭を抱えて、よろよろと一歩だけ後退る。
それは自然と浮かぶ質問だ。完成度にもよるがイラストより、物語も加わる漫画の方が社会へ与える影響が高いのは明白だからだ。
「耳が痛いな……漫画は描かないんじゃないよ、描けないんだ」
「どうしてですか? こんなに上手なのに、躍動感のあるカットだってありますよ」
希望ちゃんは自分がモデルのイラストをタブレットでスライドさせ、作者自身に見せていく。それに悪意は無くとも、作者の傷を抉るような行為かもしれない。
「画力の問題じゃなくてね……ストーリーを組めないんだ」
その話を俺は以前聞いたことがある。
「わたしは感性で生きている人間だ。そのせいか……ロジカルシンキングが苦手でね、物語を考えても荒唐無稽な内容になってしまうんだ。魅力的なキャラクター自体、外見や性格や台詞を考えることはできても、それを動かし結末までの流れを想定できない。苦手なんだ」
「確かに、絵美さんは理詰めで物事を考えるのが苦手な印象があります」
遠慮無く思ったまま感想を言ってみると「うるさい!」とあしらわれる。
「ただストーリーが決まっていれば、漫画の描き方自体は心得ているから……期待しているんだがね」
絵美さんは微笑みながら、人を試すような流し目で俺を眺めてくる。
「新人賞はどうだ?」
まずい。
「えっ?」
希望ちゃんは唐突で何の話かもわからず、浮かんだ疑問の答えを求めるように、絵美さんと俺に対して交互に視線を送る。
「確か半年前にも投稿したんだろ?」
「あ……はい、二次選考で落ちました」
狼狽えてはいけない気がして堂々と答える。
「確か最高が四次選考だったか……かすりもしなかったよりいいじゃないか。むしろブランク明けには良い出だしだ」
「あの新人賞だとカテゴリーエラーな気もしてました、あとキャラ設定も弱いと思ってたので」
「そうか、続けるといい。期待している」
「なんですか? 新人賞とか選考とかって」
何も事情を知らない希望ちゃんが質問してくるのは当然だ。
「あれ? 創一から――」
そこで絵美さんは言葉を止める。その先を露骨に言うと、アトリエ内の雰囲気が悪くなってしまうからだろう。気を使わせてしまった。
「創一は作家志望なんだ。小説を書いて新人賞に投稿しているんだよ」
白々しさを感じさせない口調でシンプルに伝えてくれる。
すると希望ちゃんは沈黙する、まるで何をしたら良いかわからない自分を持て余すように。
「どのくらいから……活動してるんですか?」
やがて無表情のまま口を開き、絵美さんに対して聞いたことと同じ質問を俺にしてくる。
「途切れていた時期もあるけど、高校生の頃からだね」
俺も濁した言い方を一切せず、ありのままを伝えてみる。
希望ちゃんは「そうですか」と呟くと、その後はもう喋らなかった。
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