1.隠れヲタク達

(1)ヲタクの隣人

「お前って彼女いるのか?」


 またか、うざったい。

 ビールのジョッキを片手にそんな余計なお節介をしてくるのは他部署の先輩。企画部の出世頭で、背が高く明朗快活で存在感がある人だ。


「いえ、いないです」

「へー、意外だな。うちの会社員ならまともな仕事してるって言えるし、イケメンってわけじゃないけど見てくれだって痩せ型だし身形も整えてるのに」


 そう思ってくれているのなら問題ない。

 趣味を隠すことには成功している……隠れヲタク歴十年以上の俺を舐めるな。


「今度、女の子紹介してやろうか?」

「興味が無いわけじゃないですけど、無理に作ろうとも思ってないので、遠慮しておきます。でも誘って頂いてどうもです」


 人の好意である事に違いはないため、お礼はしておく。


 すると焼き鳥の串を片手に持つ、小太りの同期社員と目が合う。すでに酔っ払っていて酒気を帯びた赤い豚となり、遊ぶ獲物を求め千鳥足で近づいてくる。


「なんだよ、東野はホモなのか?」


 ほらきた、面倒くさい。


「男同士はちょっとなー、女同士は美しいけど」


 適当に無意味な言葉を並べ、失礼にならない程度にあしらう。

 どうやら女に興味が無いやつをホモと決め付けるのは、飲み屋では決まり事らしい。


 ここは、池袋に数えきれないほど存在する居酒屋。

 取り繕うことが義務のつまらない飲み会にも、社会人四年目にもなると慣れてきたところだ。新人の頃には無かったやり過ごす処世術を、今は習得している。

 やがて一次会が終わり、ひとまず解散になった。

 二次会への参加率が減る女性陣の散らばりを頼りに、俺も風のように姿を消す。人ゴミの隙間を通り抜けて同僚達の輪から十分に離れれば……ここからは自分の時間だ。


 檻から解き放たれ、肺の中を都会の空気でいっぱいにすると、小走りである場所へ向かう。

 店の名前はひらがなで「りゅうのもん」。

 同人誌やヲタク向けのグッズを扱う店だ。この池袋には男性向けと女性向けで二店舗あり、今日はその両方に行かなければならない。


 一店舗目には普段からチェックしているサークルが描いた同人誌を買いに行く。

 数年前から追い掛けているサークルで、キャラクターの描写は筋肉や骨格が考慮され肉感もあり、衣服も繊細に描かれている美麗な絵柄のため目の保養になる。

 だから夜の儀式に……といった側面もある。お世話になっています。


 二店舗目は女性がターゲットの店舗で普段は行かないが、とある漫画原作アニメのギャグ同人誌が欲しいため訪れることにした。

 作品名は限界フォルテッシモ、略して「限フォル」というダークファンタジーモノ。その同人誌を買うことが目的だ。

 女性向けの店に置かれているくらいで、BL要素も含んだ内容。しかしそれは、決してヲタク女子を沸かせるためだけではなく、ストーリーの中で意味のある設定なのが男性にも高く評価されている作品だ。

 性別問わず感動できるシリアスな展開の中にエッジが効いたギャグがバランス良く盛り込まれているところが、俺も気に入っている。


 昨日、限フォルのギャグ同人誌なるものがあることを知り、会社の飲み会帰りに買いに行こうと決めていたのだ。

 店内には普通の書店とは少し違う匂いと、俺以外のお客さんは全員女性で男子禁制の雰囲気がある。事前に調べ覚えていた一冊を手に取り、素早く会計を済ませて帰りのエレベーターに乗る。


 これでミッション終了だ。

 電車の中で同人誌を広げたくなる衝動を抑える。帰宅して入浴を済ませた後、ゆっくりと読む至福の時間が楽しみだ。


 下車してからやや速歩きで一人暮らしのワンルームマンションに数分で着く。

 エントランスを通り、二階廊下の一番奥にある自分の部屋に向かうが――隣の玄関が急に開く。


「うがっ」


 全く注意していなかったため、激突とまではいかなくてもやや頭を打ってしまう。いい大人の癖に、ゲームや漫画が楽しみで我慢できない子供じゃあるまいしと、すぐに反省する。


「ごっ、ごめんなさい。大丈夫ですか?」


 慌てた女性の声が聞こえて、まだ痛みが残る額から手を退ける。


 まず見えたのは、肩越しに揺れる純白のリボンでまとめたポニーテール。長く腰の位置まで下りていて、しかも女性にしては背丈があるためとても映える。メリハリのある顔立ちも合わさって凛々しいイメージ。


「いえいえ、大丈夫です。俺が不注意でした」


 彼女は数ヶ月前に引っ越してきた隣人。まだ垢抜けない雰囲気がありカジュアルな服装ばかりだから大学生かもしれない。

 表札が無いため苗字すらわからない、擦れ違った時に会釈するだけの間柄。都内のマンション付き合いはそんなもの。ワンルームの一人暮らし同士なら尚更だ。

 それにこんな若い女子と二十五歳でヲタクな自分とは住む世界が違うだろう、近づこうという気さえ起きない。むしろそんな発想自体が犯罪的だ。


「あれ、それって」


 ぼそりと呟く彼女の指先が動き、指し示す先には……一瞬で心臓が跳ね上がった。

 そこには、りゅうのもんで購入した同人誌。表紙の一部が、紙袋から飛び出していた。


「あっ、いやいや別に」


 大人とは思えないほど動揺し、落とした紙袋をすぐに拾い上げる。羞恥心のあまり、頭を下げながら奥にある自分の部屋へ駆け込もうとするが――


「それって、限フォルですか?」


 思ってもいなかった言葉に、玄関を開けようとする手を止めてゆっくり振り返る。


「はっ、はい。そう、です」


 恐る恐る振り返って肯定する。彼女の視線は俺の右手にある紙袋へ向いていた。


「実際に見たことは無いんですが、それって同人誌って本ですか?」


 蔑みを感じない無垢な表情で質問されて、俺はただ頷く。


「もし良ければ……少しだけ見せてもらっていいですか?」


 自分でもわかるぐらいぎこちなく頷いて、紙袋から一冊の同人誌を手渡す。

 その時、ぶつかった拍子に見られたのが限フォルの本で良かったと安堵し、やや自己嫌悪。もう一冊は男性向けの、有り体に言えばエロ本だからだ。


「……くすっ……ふふっ……あはは」


 すると彼女は数ページ読み終えただけで、手元から本を落としそうなほど笑い出した。

 それもそのはず、彼女がもし限フォルを知っているなら当然。買う前にこの本の何ページかをネットで見たが、限フォルファンなら笑わずにはいられない内容だ。


「た、確かにツヴァイはアベルをストーキングするけど、能力まで使ってここまで必死にやるなんて。あと、所々アメコミみたいな濃い描写が面白い……これが同人誌なんですね」


 同人誌の実物を見たのはこれが初めてなのだろう。

 ギャグに比重が置かれた内容は珍しいため、これは例外的な本だ。ただ印象の良さをわざわざ消す必要も無いから、余計なことは言わない。

 すると彼女は満足しつつも、名残惜しそうに本を閉じてこちらに返してくる。


「全部読むのは申し訳ないので、これでお返しします」

「これを読んで笑えるなんて、限フォルかなり好きなんですね?」

「はい、大好きです。ネットの先行放送一分前には、いつもスタンバイしてますよ」


 握り拳を掲げて彼女は語る。ヲタク的な話にも関わらずはっきりと言えるその姿は、元気に溢れていて羨ましい。


「俺も毎回リアルタイムではないけど、週末にはいつも観てますよ。ストーリー自体も面白いし、BLっぽいとこも男の友情って感じもあって。あとなんか、ギャグも好きで」

「だからこの本を買ったんですね。わたしは月並みですけど、近づこうとするアベルを傷つけないようにカインが上手く躱すやりとりとか見てるとホッとします。あと、敬語使わなくても大丈夫ですよ、ついこの前までわたし高校生だったし。社会人の方ですよね?」


 高校卒業して十八歳なら俺とは七歳も年下になる。そんな事実に驚くが態度に出てしまいそうなところをなんとか抑える。


「そ、そうだよ……あと一応、俺の名前は東野っていうんだ、東野創一郎ひがしのそういちろう


 俺の返事を聞いて嬉しそうに微笑んでから、何かに気づいたように口元に手を当てる。


「すいません、お隣なのに名前も言ってませんでしたね。わたしは蒼井、蒼井希望あおいのぞみといいます」


 慌てて会釈する彼女につられて俺もすぐ頭を下げる。


「日付が変わる前にコンビニに行かなきゃいけなくて、今日は失礼しますね。またお話しましょ」


 すると鍵で玄関を閉め、微笑みながら「それじゃ」と手を振り廊下を小走りで去っていった。

 感受性が豊かなのか、表情の変化が多くて明るい印象の子だった。特に限フォルのことを語る彼女はとても活き活きとしていた。

 対して俺は年上としての余裕など欠片も無く、むしろ気遣われただけの情けない時間だったかもしれない。機会があればもっと落ち着いて話をしよう。


「蒼井さん、か」


 人の名前を覚えるのが苦手だから、一度だけ声に出して忘れないように頭に留める。

 こういうのを世間一般では下心と言われるのだろう。けれど性別関係無く、ただ共通の趣味をお隣さん同士で語り合えたら良いなと思った。

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