(6)天音の宣言

 それから森嶋さんと少し話をしてから解散することになった。

 別れ際に彼が「林原さんには劇団の稽古の時に声を掛けてみます」と言ってくれたことが嬉しかった。


「なんか、すごい一日でした」

「物騒なことに巻き込んじゃって、すまない」


 今は帰宅する乗客で混んでいる電車の中、希望ちゃんと二人並んで吊革を掴んでいる。


「俺は大人の自己責任で済むけど、希望ちゃんは未成年だからね。少し軽率だったよ」


 コミケでスリの男を捕まえた時の印象が強くて、頼ってしまったことは反省すべきだろう。


「むっ、子供扱いは無しですよ?」

「見縊るのもよくないか、ごめん」

「なんだか創一さん、謝ってばかりですね」


 流し目を向けて微笑む彼女にそう言われる。


「観察しないでくれよ。音ゲー友達を紹介できたわけだし、勘弁してくれ」


 申し訳なく思っているのは本心だ。あの場での巡りがもっと悪ければ、最悪は警察沙汰になっていたかもしれないのだから。


「天音ちゃんと知り合えたことはとても感謝してます……でも創一さん、あんな複数人を前によく堂々とできましたね? わたしには無理です」

「まあ、天音ちゃんと森嶋さんの話を聞いてる間に考える時間はあったからさ」

「動画をその場で録画して、さらにあんな駆け引きがよくできましたね? いくら度胸があっても普通はできない気がします」

「一応、修羅場の経験が浅くはないからね」

「修羅場、ってどういうことですか?」


 そう問われた瞬間、少し後悔した。限フォルやコミケなどをきっかけ仲が良くなってきたせいか、取り繕うことを疎かにしてしまった。


「俺も天音ちゃんと同じで、あんな連中のことを気遣いたくもなかった。だからいきなり話し合うのではなく、有利な状況を作るために動画を用意しようと思えたんだ。最初から相手を信じる気は無かったんだよ」


 大きく話題を変えることなく、返事にもなっていない言葉で濁す。

 すると希望ちゃんは「なるほど」と一言呟き、頷いてくれた。


「オタサーの人達を庇うわけじゃないですが……創一さんが一番遠い立場の人だったかもしれないです。ちゃんと社会人だし、フリーターや引きこもりだった時代って無いですよね?」


 確かにそんな時代は無い、留年も浪人も経験していない。


「確かに俺は人生の中で、空白だった期間ってのは無い。でもね、挫折を知らないわけじゃないんだよ?」


 希望ちゃんは俺が喋る話の続きを聞きたそうだった。

 だから乗り換える駅に辿り着き、下車するタイミングになったのは好都合だった。

 それから祝日の夜で人が多い池袋駅構内を進み、山手線よりは人が少ない電車でどうにか座ることができた。


********************


「おやすみなさい。不謹慎かもしれないですけど、今日も楽しかったです」

「またね」


 マンションに辿り着き、軽く手を振りながら希望ちゃんに別れを告げると、お互いの部屋に入っていく。

 まずは鞄を置いてパソコンの電源を入れる、帰宅時のルーチンワークだ。

 この後普段ならシャワーを浴びるが、今日はスマホを取り出してアプリを開き、天音ちゃんへメッセージを送る。

 すると二十秒もしない内に「こっちも帰ったよ」と一言の返事がやってきた後、すぐに通話が掛かってきた。


「やあ、夜遅くにごめんね」

「別に平気さ……落ち着いたかい?」


 やや間が空いてから「うん」という返事。それが新宿で訊けなかった質問をしても良いというサインだと受け取る。


「相手は怒り狂ってたし、天音ちゃんもヘッドフォンとメガネしてたから、身バレにはならないと思う」


 姫が冷静さを完全に失い激昂状態だったのは、あの場にいた誰もが認めるだろう。


「でも、声優の活動に悪影響が出そうなことは避けたかったんじゃ?」

「遠くから創にぃ達の事を見てたんだけど、筐体に隠れてるだけなのは罪悪感があった。それは本当なんだけど……飛び出した一番の理由は、順番待ちしてる人達の中にいた女の子が気になったからなの」


 オタサーの人達が荒らした状況を鎮めることしか考えていなかったため、人相までは思い出せない。ただ順番待ちの列に女性もいたことは覚えている。


「あの人を見て思い出したんだよ。引っ込み思案で行動できなかった、昔の自分をね」

「昔の?」


 その言葉を聞いて俺が連想するのは、小学生の頃に妹と遊んでいた天音ちゃんの姿だ。だから俺とは頻繁に会話をしていた事は無く、昔の性格まではわからない。


「小学生の頃は、人見知りで自信も無くてビクビクしてた。特に声が低くてコンプレックスがあってさ、喋るのが苦手だったんだよ」

「えっ……でも今は声優さんにもなっていて、声だって綺麗だと思えるし」


 すると電話越しに、天音ちゃんがくすりと微笑んだ音が聞こえた。


「ありがとう。でもね、普段から地声を封印してるんだよ――ほら、実はこんな声なんだよ」


 喋っている途中、急に声のトーンが変わった。低く濁った感じだ。


「コンプレックスだったよ。自分の声が嫌いで恥ずかしかった。でもね……覚えてるかな? 創にぃが中学生になってから、録音したラジオの番組を聴かせてくれたこと」

「うっ……お、覚えてたんだ」


 あれは完全に若気の至りで、今でも反省していることだった。


「あれ? もしかして気にしてたの? 別に後ろめたく思う必要なんて無いのに。声優さんがやってるアニメのラジオ番組を、中学生の歳で小学生の小さい子に聴かせたなんて」

「ぬあああぁぁ、具体的に言うのは止めてくれえええぇぇ」


 天音ちゃんが遠慮無く並べた単語の羅列は、俺の精神を崩壊させるのに十分過ぎる威力があった。


「あはは、ごめんごめん」


 急にヲタクになった人間は視野が狭い、というのは身をもって体験した真理。

 あの頃は深夜アニメを追い掛け始めたばかりだった。

 たまたま家に来ていた小学生の妹の友達に、ハマった深夜アニメのラジオ番組を聴かせたなんて消滅させたい過去だ。


「でもね? あの時のボクはそれで感動してたんだよ。その番組で、訓練すれば声はいくらでも変えられるし、むしろそれを職業にできるって、MCの声優さんが話していた事を今でも覚えてる」


 録音していたはずの俺でも、十年以上前のことだから内容までは覚えていない。

 でも天音ちゃんにとっては違い、心の中にずっと留めておく大切なものになったのかもしれない。


「それが、ボクが声優を目指したきっかけだよ」


 夢を目指すきっかけを作ったのは自分だなんて思えるわけがなく、返す言葉も浮かばない。


「日々喋り方を変えようと意識したり、高校生になってからボイストレーニングに通ったことで、声だけじゃなく自分の全てが変わっていくことがとても嬉しかった。だからその先を、今も目指し続けている」


 そのラジオ番組は、当時の俺にとって新しく覚えた娯楽でしかなかった。だからこそ余計に自分が恥ずかしく思えた。

 なぜなら天音ちゃんが語る思いが美しくて、宝石のように煌びやかで輝いているからだ。劣等感すら覚える。


「順番待ちしてる女の子を見て、そんなことを思い出したの……だから、あのダンスゲーの周りを荒らす人達が急に許せなくなって、それでボクも飛び出したんだよ」

「そう、だったんだね」


 気の利いたことが言えず、相槌を打つことしかできない。


「ありがとう、ずっとお礼を言いたかった。今日会おうって決めたのも、音ゲー友達が欲しかったからじゃなくて、創にぃと話をしたかったからだよ」


 そんなことを、くすりと微笑みながら楽しそうに言われて恥ずかしくなる。電話越しでなければ情けない顔を晒すところだった。


「創にぃはボクに目標を与えてくれたんだよ」


 何の淀みも無く、綺麗な声で滑らかに告げられる。


「だからさ、ボクは……希望ちゃんには負けないからね!」


 天音ちゃんはそう宣言すると一方的に通話を切った。

 急に無音となり、自分の部屋なのに心がどよめいて落ち着かず、無意味に室内を往復してしまう。他人から見れば、明らかに挙動不審な毒男の絵面だろう。

 完全な確信があるわけじゃないが、恋愛経験に疎い俺でも天音ちゃんが何を伝えたかったのかはわかる。


「参ったな」


 気分転換に外の空気を吸おうとするが、窓のノブに触ってから思い止まる。

 もし希望ちゃんがベランダに出てきたら、気まず過ぎて会話など不可能だからだ。

 だから今はベッドに倒れ込み、いつもよりやや速い心臓の鼓動を静めるために天井を眺めながらしばらくじっとしていた。


「俺にはそんな色恋沙汰に向き合える気力なんて無いよ……天音ちゃん、君は知ってるはずだろ?」

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