(2)愛徒とスリ

 俺は東ホールに入ってから、事前にチェックしていたホール壁沿いに位置する大手サークル二ヶ所に並び三冊、その後中規模サークルの本を二冊購入した。

 それからゆっくりと小規模な島サークルを巡回し琴線に触れた本を一冊だけ購入。


 二時間が経ち疲れてきた足を休めるために、東ホール中央通路にある壁沿いの椅子で休憩していた。

 手に入れたばかりの戦利品をゆっくりと観賞し安らぐ時間を過ごしていると、鞄の中にあるスマホが振動する。

 心当たりは二人。通知画面を見るとメッセージがあり、


――スタッフ少し抜けれるぞ


 という飾り気の無い短い文面に対して、


――中央通路の1ホール入口と2ホール入口の間にいるよ


 そう返信し終えると一安心できた。

 なぜなら、今日ビッグサイトにやってきた一番の目的は同人誌を買うことではなく、彼に会うためだからだ。彼はコミケの運営スタッフをやっているため忙しく、会えずに諦めて帰る可能性もあった。


「創一さーん!」


 俺の名前を呼ぶ声を探すと、途切れない人通りに逆らいながら手を振る希望ちゃんの姿が見えた。

 床に座る男達の隙間を抜けて、椅子に座る俺の近くにどうにか辿り着く。

 この猛暑で額から汗が流れているのは当然だが、待機列に長時間並んでいたせいで足取りがかなり重そうだった。


「いやー、ホールの中はかなり暑さですね。あんな中で大手サークルへの列がいくつもあるなんてすごいです」

「お疲れ様」


 俺は十分疲れが取れたこともあり椅子を譲る。すると休息の誘惑に揺れながらも彼女に遠慮されるが、年上の圧力を利用してどうにか座らせる。


「サインは貰えた?」


 にやりと口の両端を大きく吊り上げて、戦利品の入ったショルダーバックを触る。


「もちろんです! あと少しだけお話もできて、さいっこーーーの時間でしたよ!」


 至高の一時を思い出すかのように目を閉じ、彼女は満足そうに微笑む。


「そっか。成功なら、コミケの説明をいろいろした甲斐があったってもんだ」

「他にもいいなって思った本買えたし、いろいろ教えてくれて助かりました」


 コットンハットを脱ぎ、柔和な笑顔で軽く会釈される。


「いやいや、どういたしまして」


 控え目に見ても綺麗な部類に入る年下の女性に淀みないお礼を言われてとても良い気分になる。

 しかしなぜか、律儀な彼女に対していたずらしてみたくなった。魔が差すとはこういうことをいうのだろうか?


「じゃあそのご褒美に、買った本を読ませてくれないかい?」


 真顔で自然な空気感を崩さず訊いてみる。

 しかし勘の良い希望ちゃんはすぐに察して、訝しむように目を窄めてショルダーバックを抱き寄せる。


「むっ、創一さん悪い顔してませんか? ダメです。これは聖域なんですから……なら、わたしにも創一さんの本見せてくださいよ」

「うっ……いいさ、俺は清廉潔白な人間だからね。鞄に手を突っ込んで一冊取ってくれても構わない。その代わり、同じことをさせてもらうよ?」


 俺が買った如何わしい本は六冊中一冊、きっと分の良い勝負になる。それにエロい本を買ったことぐらい知られても開き直ればいい。

 ひとまず、まだゆとりのあるリュックサックを中が見えない程度に開いて差し出す。


「の、望むところです」


 若干の動揺が窺えるため、彼女のショルダーバックにはBL同人誌が何冊か入っているのだろう。こちらが有利かもしれない。

 暑さからくるものとは違う汗を垂らしながら、ゆっくりと手を伸ばしてくる。彼女は負けず嫌いなところがあるから、勝負に乗ってくるとは思っていた。


「さあ、好きなものをどうぞ」


 この暑さで人は冷静さを失うから、露骨な煽りにならない程度の誘導は効果的。あとはこちらに多少の運がついてくれば――


「おい、創一!」


 突然、頭上から聞こえた低く野太い声に引き戻される。

 勝負の駆け引きに集中していたせいで忘れていた。スマホでメッセージを送ったからすぐに来るのは当たり前なのに。


「えっ――うひゃあえええ」


 俺にやや遅れて頭上を見上げた希望ちゃんは、驚きのあまり奇声に近い悲鳴を上げ、壁に背を押し付けて手足をじたばたしながら後ずさる。


「お、お嬢ちゃん……そんな驚かなくてもいいじゃないか」

「ご、ごめんなさい。熊が出たと思って」


 ビッグサイトに熊が出るわけないが、彼女らしい感想かもしれない。

 ただ俺達の前に立つ大柄な体躯は床に広い影を作り、常人離れした存在感を放っていることは間違いない。周囲の見知らぬ通行人も、タンクトップ一枚の彼をちらちら見ている。


「愛徒さん。久しぶりっす」


 彼には体型以外にも特徴がある。首からIDカードを下げ、コミケのロゴが入った帽子と腕章を着けているところだ。


「初対面じゃ愛徒さんインパクト強いからしょうがないですよ。この前、ボソっと喋る癖だけでも直せば、印象変わるって言ったじゃないですか」

「わかるが、癖なんてなかなか直せないぞ」

「いっその事、ハルグのコスプレでもしたらどうですか?」

「なんだ、半裸で肌を緑に塗るのか? そこまでいくとコスプレの範囲を超えている気がするな」


 ガハハハ、と相撲取りやプロレスラー並に分厚い胸板で豪快に笑う。


「久しぶりだな、元気か?」

「はい、なんとか元気ですよ……希望ちゃん、彼は愛徒さん。コミケの運営スタッフをやってる人なんだ」

「ジブンは平和島愛徒へいわじまあいとだ、ハンドルネームはひらがなで「ちょーじん」と名乗っている。さっきは不可抗力とはいえすまない」


 彼は帽子となぜか腕章も外し、きちんと自己紹介し希望ちゃんに会釈する。

「ジブン」という珍しい一人称も相まって、彼は暑苦しく濃ゆい人柄をしている。


「蒼井希望です、つい驚いちゃって失礼しました。見たままですがすごく大きいですね」


 しかし彼女は怖がらず、両手を広げて物珍しそうな視線で目の前に立つ大男を眺める。


「身長は二メートル近いのは自慢だ、それに鍛えてるからな。コミケの運営スタッフはタフじゃないと」

「この暑さだと貧弱じゃやっていけなさそうですね」

「いやいや、素の体型もあるだろうけど、ここまでやってるのは愛徒さんだけだよ」


 彼は関節の太い指を立てて、チッチッと左右に揺らす。

 さらに筋肉の輪郭がくっきり浮かぶ上腕二頭筋を誇らしげに掲げてくる。それは雑誌やテレビで観るボディビルダーのものと変わらない。


「この腕っぷしが役に立つのは設営の時だ。一人でサークルスペースの長机を四枚は持ち運べるからな」


 そんな力技は普通の人には無理だが、彼なら確かにできそうだと納得できる。


「えっと、設営ってなんですか?」

「言葉通りの意味だ。参加サークルを示すカタログを事前に作成し販売、前日には担当毎の打ち合わせや机の整理をする。当日は、サークルが販売する同人誌のチェックはもちろん、人気サークルの整列や各トラブル対応、開場から閉会までの進行、ジブン達運営はそれらを一通りやっている」


 愛徒さんはやや専門的な言葉を矢継ぎ早に使っていく。しかし不慣れな言葉が連続で続いても、希望ちゃんは圧倒されず咀嚼するように頷き続ける。


「その様子だと、もしかしてお嬢ちゃんはコミケの参加歴浅いのかい?」

「今回が初参加です」

「おおっ、素晴らしい!」


 彼は初参加だった頃を懐かしむかのように、腕を組みこの東ホールの天井と背後に見えるホール内を一瞥する。


「初参加は楽しいだろうな、欲しいものは手に入ったか?」

「きちんと手に入れましたよ。本じゃなくてサインですが……マックスイズムってところで」

「ジブンはその近くの列整理してたぞ。トラックヤード……いや、駐車場の東6辺りで長い列ができてたと思うんだが」

「えっ、あれですか! すごい列だな、って眺めてましたよ。でもあんなのを管理するんじゃ、忙しくて買い物してる時間少なそうですね」

「確かに今みたいにのんびりとできる時間は珍しい。だが長くスタッフをやっているから仲の良いサークルがあってな、欲しい本を譲ってもらえることもある」


 ジブンは直接列に並ばず、他人便りで購入した事が後ろめたいのか、巨人は猫背でやや控えめに言う。


「相変わらずの即売会好きですね。希望ちゃん、愛徒さんはコミケだけじゃなくて、いろんな即売会の運営に関わってる人なんだよ」

「コミケ以外にも即売会があるのは知ってました。いくつくらい関わってるんですか?」

「即売会も大小様々で、関わり方も重さが違うけど、宣伝を少し手伝うだけの時もあるが、ざっと十個くらいだろうか?」

「じゅっ!」


 希望ちゃんは額を打たれたように仰け反る。少し前まで高校生だった子には想像し難かったのかもしれない。俺でさえ最初に話された時は驚いたくらいだ。


「ジブンの休日は即売会関連の打ち合わせや当日のスタッフがほとんどだ、後はトレーニング」

「すごいよね、俺にはワーカーホリックにしか見えないや」

「失礼な。これは仕事じゃない、趣味だ」


 両腕を組み分厚い胸を張ってそう言い切る姿は、自信に満ち満ちている。


「はいはい……そういえば、絵美さんと夏織は見掛けました?」

「絵美のやつはサークルが出展こそしてても、本人はスペースにいないらしいぞ。今は同人じゃなく商業で忙しいらしい。夏織はコスプレ広場にいるだろうが担当じゃないしよく知らん、仮に見つけてもあの人気だから声を掛けられないだろう」

「あの二人に今日会うのは無理そうですね」

「絵美のやつは確か近くに住んでるんだろ? それに夏織だって配信――」


 すると話を遮るように、愛徒さんのポケットが震え出す。

 彼はジブンのスマホに目くじらを立てて不機嫌そうに着信に出る。雑な相槌を打ちながらも、最後に「わかった」と一言返事をした。


「まったく、外す時間だと言っておいたんだがな……もう少ししたら戻らなきゃいかん。二人は何時頃離脱する予定だ?」

「特に決めてなかったけど、希望ちゃんはどう――」


「スリだ!」


 熱気と喧騒に満ちた中央通路に、大きな叫び声が響き渡った。

 その異彩な空気を察して、俺達三人はもちろん近くの人達も雑談や休憩の緩い雰囲気を打ち切って、周囲を探し始める。


「財布盗まれた!」


 もう一度男性が叫び声を張り上げる。助けを求めているのは俺達から約十メートル離れたところにいる白いTシャツの人だとわかる。

 そして、彼から少しだけ離れた場所にいる青いTシャツの男が、挙動不審になりながらやや遅れつつもその場から走り去ろうとする。


「あいつか!」


 愛徒さんが他の誰よりも素早く動き出し、俺もその後に続こうとするが――


「おっと、あわわわわ」


 しかし二メートルに迫り横幅もある巨体は、地べたに座るコミケ参加者達を避けながら進むことはできずバランスを崩して躓いた後、派手にすっ転んでしまう。


「ちょっと、ちょっと、愛徒さん大丈夫ですか?」


 ただ倒れる寸前に身を捻っていたのは、すぐ近くの人を巻き込まないためなのは後ろから見ていてわかった。


「ああ、すまない。STRはともあれAGIには自信無くてな」


 どことなくRPGのゲーム用語を思わせる彼らしい口振りから、今は放っておいても大丈夫だろうと思い、逃げた男を追おうとした時――俺のすぐ隣を何かが駆け抜けていった。

 ビッグサイトはどこも熱気が立ち込めているのに、それは爽やかな疾風のように思えた。


「待てぇぇぇ!」


 希望ちゃんはコットンハットを投げ捨て、戦利品の入った鞄を起き上がれない愛徒さんの前に放り投げ、飛び出していく。

 トレードマークであるポニーテールを揺らし、持ち前の軽快なフットワークで地べたに座る男達を避け、その先にいる人ゴミの中へと突入していく。


「ちょっ」


 俺も遅れないように彼女の後ろ姿を追うが、その駿足に少しずつ離されていく。

 ジブンの運動不足もあるかもしれない。ただ彼女の身のこなしは常人よりも軽く、人を避けて左右に揺れながらも前に進みスリの男を追い掛けていく。

 階段の辺りに差し掛かり、希望ちゃんとスリの男の距離は縮まっていた。


 外へ出るために男が扉を開けようとその場で勢いが止まる。

 対して希望ちゃんは全く勢いを弱めず、そのまま男の背中を目掛けて、肩から体当たりを仕掛けていく。


 二人と扉がぶつかり合う激しい衝撃音が轟く。

 すると挟まれた衝撃による激痛を受け、男が絶叫を上げる。


「うわっ、たっとっとっ」

「おっと大丈夫かい?」


 希望ちゃんは体当たりの反動で後ろへ倒れそうになるが、少し遅れて到着した俺が両肩を抑えて受け止めることができた。


「あ、ありがとう……ございます」


 お礼を言ってくれる彼女はどこか照れくさそうだった。その理由が、今もその華奢な両肩を握り続けている俺のせいだと気づいてすぐに手を離す。


「お手柄じゃないか」


 気まずくならないように会話を続ける。もっと気の利いた言葉を出したかったが、俺はそこまでセンスのある男じゃない。無言よりは良いだろう。

 一方で青いシャツの男は、ドアノブに手を置いていたところに体当たりされて、手首を挫いて腰にも痛みが残ったのか、その場で立てずもがき苦しんでいる。


「おう、間に合ったか?」


 すると背後から、機敏さを全く感じない重量感のある足取りで愛徒さんがやってくる。


「お嬢ちゃんやるな、助かった……さあ、君は観念してもらおうか」


 今も床で仰け反っている男の片腕を捻り上げて取り押さえる様は、警察官や軍人のようだった。

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