(4)希望の本心
希望ちゃんの姿を赤山学院大学で見掛けてから一週間、すでに真冬と言える時期に入った。
それでも未だに彼女と接する機会は訪れない。
彼女は頭が良いから、俺が外出と帰宅する時間を選んで出入りする事だって容易なはず。
だから最近は少しだけ諦め始めていた。
そもそも同僚でも旧友でもないのだから関係を切られても仕方ないし、やる気になれば引っ越しだってできてしまう。
彼女との交流が始まってから、仕事も執筆も好調だったのは確かなのに、今はそれ以前の灰色だった日々に戻ったかのように思える。
おまけに今日は雨が降っている。
普段よりもさらに気温が低いため心も冷えている気がする。
自転車で勢いよく駐輪場に入りそのままマンションの正面ゲートを開ける。すると――心臓が一気に跳ね上がった。
「あっ」
それは数ヶ月前にも見た光景。
スマホを両手で構えた希望ちゃんが、エントランスの壁に寄り掛かりながら座り込んでいた。もしかしたら今日も、部屋に鍵を置いたままにして締め出されたのかもしれない。
それに以前なら俺の姿を見ても慌てながらゲームに戻ったが、今は気まずそうな表情で動かしていた指を止めている。
「久しぶりだね」
中身のない言葉でもひとまず投げ掛けてみることにする。
「……そうですね」
覇気が全く無い、希望ちゃんらしくない返事だった。
「中へどうぞ。お仕事帰りで、お疲れだと思うので」
俺が鍵で正面ゲートを開ければ、彼女をそのまま部屋に返してあげることもできる。ただ俺はそこまでお人好しでも馬鹿でもない。
「黙っていたことは謝るよ」
「何をですか?」
「執筆活動を秘密にしていた事だよ。一緒に出掛けたり遊んだりもしたのに、壁を作ってしまった」
「別にいいじゃないですか、そんなの」
淡々と言われる、興味が無いかのように。そう取り繕っているのは間違いない。
「ならどうして避けるんだい?」
何も喋らず無反応を貫かれる。
本当は強引な言葉を浴びせたくはない、けれど何もしないでいてもこの状況は変わらない。
「俺達は夏頃から、愛徒さんや夏織に会ったりした。その時に君は「どうして活動をしているのか」みたいな質問を、あの人達にしていたよね?」
そう訊くと、希望ちゃんの瞼が大きく見開く。
「天音ちゃんの話もよく聞いていたし、特に絵美さんの時は露骨だった」
「不愉快です」
全く身動きせずに視線を逸らされたまま、ぼそりと言われる。
「小説の事を黙っていたことは謝る。でも、俺の実力なんて大したことないから、言い出すほどのものじゃないと思ってさ、話す機会が無かったんだ」
「はぁ……大したことない、ですか」
鬱陶しそうに大きな溜息をつきながら立ち上がり、俺を避けて正面ゲートから出て行こうとする。
「ちょっと待って」
肩を掴んで引き戻そうとするが、希望ちゃんは持ち前の運動神経で俺の腕から苦も無くすり抜ける。
「ついて来ないでください!」
感情を剥き出しにしたまま叫び声を上げると彼女は雨の中、一気に駆け出して外へ出ていく。
慌てて追い掛けようとするが、すでに彼女との距離は広がっていた。
このまま走っても、俺の体力ではコミケの時のように追いつけず距離が開いていく一方だろう。
ならどうすればいいか――すぐに立ち止まって引き返す。
毎日訪れる駐輪場へ戻り、急いで自転車に跨り希望ちゃんの後を追う。道具に頼って大人げないけれど、四の五の言ってはいられない。
通りに出ると、希望ちゃんはすでに何十メートルも先にいたが見失わなければどうにかなる。
車輪が道路の水溜まりを掻き分けながら進んでいく。
すると最初はかなり空いていた距離がどんどん詰まっていく。
希望ちゃんが背後へ振り向き、一度だけ足を緩める。しかし自転車で近づく俺がわかると、慌てて再び駆け出す。
このままなら追いつけるだろう、と思ったが希望ちゃんが向かう先を考えると、俺もペースを上げていく。
俺と希望ちゃんが住むマンションは住宅地にあるが少し離れた場所には大きい繁華街がある。つまり人ゴミの中に紛れることができる、そのくらいあの子なら考えつくはずだ。
だから状況が不利になる前に、追いついて引き止める。
車にぶつかるリスクがない時は全力でペダルを漕ぎ、最低限の安全を確保しつつ距離を詰めていく。
やがて手が届く位置まで追いつき、希望ちゃんよりも数メートル先に出たところでタイヤを滑らせて自転車ごと立ち塞がる。
その頃には体力のある彼女でも疲れ果て、膝に手を置いて濡れたコンクリートの上で立ち止まる。
「じ、自転車っ、なんて、ずるいじゃないですか」
息を整えつつも文句を言ってくる。
「俺はエンジニアだから、体力が売りの人間じゃない」
「そういうのがっ! 嫌なんです!」
すると雨で乱れた前髪をかき上げ、俺の事を睨みつけながら胸の内をぶつけてくる。
穏やかな雰囲気ではない。けれど久しぶりに向き合えた事が嬉しかった。
「ずるいですよ、そういう肩書きみたいなのが沢山あって。小説の事だって聞きたくなかった。だってわたしには……何も無いから」
「そんなの――」
途中まで言い掛けて踏み止まる。大学生になったばかりなら誰だって肩書きなんて少ない。けれど、そんな浅い言葉を言ってはいけない気がする。
「わたしにだって、昔はあったんです……打ち込めるものが、必死に挑めるものが」
少し項垂れながら、秘めていたことを打ち明けてくれるようだった。
すぐに鞄の中にある折り畳み傘を開いて、今も地べたに座る彼女の頭上に広げる。
「ずっとバスケットをやってて、高校は全国大会へ行く年度もあるような強豪校でした。一年上の先輩の代では全国に行けなかったので、みんな毎日練習に打ち込んでいました。わたしもレギュラーで張り切ってましたよ」
初めて聞く話だった。
希望ちゃんがコミケでスリを追い詰めた運動能力、その理由がやっとわかった。
「全国出場が掛かった決勝リーグの第一試合でわたし達はリードしていました。相手チームは見るからに焦っていて、特にわたしと同じポジションの選手は必死でした。わたしも気迫で負けないように対抗したんですが、どの選手にも疲れが出る後半終わり際に、その選手がゴール下で過剰に圧を掛けてきて、足が絡んで縺れたんです」
表情を苦々しく歪ませてから、話を続けた。
「激痛が起きて……骨折でした。その日は元々リードしてて勝てたけど、その後の試合はレギュラーのわたしを一人欠いたせいか全敗で、全国に行けませんでした。あれから一年以上経った今でも悔しい。だって……肝心な時に、戦うことすらできなかったから!」
その無念を吐き捨てる。
「それに県大会で敗退が決まったすぐ後、後輩の子達が「蒼井先輩がケガしなきゃ勝てた」って話してたの聞いちゃったんです。それ自体は別に良いんです、謝ってくれましたから」
雨と真冬の寒さもあってか、唇を震わせながら話してくれる。
「でも悲しかったのは、後輩に注意する部員はいても、その内容を否定する部員はいなかったことです。みんな「蒼井がケガをしなきゃ」っていうのが本音だったと思います」
運の悪い巡りだったのだろう。
「そっか……」
相槌を打ちながら聞いてはいるが「辛かったね」の一言ですら失礼な気がして何も喋れない。上手い言葉の掛け方は無いのかと、自分の不器用な部分が情けないと思う。
それを卑下する気はない。けれど同時に……俺自身の巡りに比べれば、なんて黒いことを考えてしまう。
「バスケのことを紛らわそうと受験勉強してもさらに虚しくなる一方で、第一志望の大学には合格できませんでした。それでも大学の新生活で気分が変わると思ったのに……一人暮らし自体は少し楽しいけど、同じ学科の友達といても体裁を取り繕うだけで満たされなかった。そんな時に、創一さんと出会ったんです」
それを聞いた瞬間、俺も嬉しい気分になった、それは本当だ。希望ちゃんと出会ってからの日々は、それ以前までを忘れられる転機のようなものになったから。
「今まで縁が無かった場所へ行けたり、出会ったことの無い特徴的な人とも知り合えて、自然な自分でいられたりして楽しかった……けど同時に、打ち込むことがない、自分がない人間はわたしだけだって思い知りました……何者にも、なれてないんだって」
――きっと、ジブンはな……何者かになりたかったんだ。
その言葉を聞いた瞬間、夏のコミケの後に愛徒さんから聞いた言葉を思い出す。
俺は彼女のようにやりたいことが無い時期なんて人生で一度も無かった。理系の大学に行きながら創作を志した時点で、仕事でも夢でも進む道に迷うわけが無いからだ。
「そんなわたしみたいな人間が、夢や希望を見せつけられて、叫びたくなる気持ちがわかりますか?」
きっと俺のような人間に理解することは難しいかもしれない。
でもそれ以上に俺は、大事なものを失ったことはある。
「ずるい、みんなやりたいことがあって。そんな人達と会うのはつらいです。どうして打ち込めるんだろう。夢が消えてなくなっちゃうこともあるのに……馬鹿みたい」
「違う! 馬鹿なんかじゃない!」
俺には、希望ちゃんのその言葉だけは絶対に認められなかった。
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