エピローグ

 あの大事件から三ヶ月もの月日が流れていた。


 労基局、第五番相談窓口の外には夜の景色が広がっている。宗谷兜人は先ほどまで繰り広げられていた、霧の夜の大捕物に思いを馳せながら、紅茶がたゆたうカップに口をつけた。


 三ヶ月前、北条は逮捕され、アマテラスには警察や検察の大がかりな捜索の手が入った。子供達は無事保護され、アマテラスが経営していた保育園は別の経営会社へと引き継がれた。薫は元のたいよう保育園に戻ることができた。晋平や佐倉は警察に身柄を拘束されたものの、北条の罠にはまり、脅迫に従わざるを得なかったとして、罪は軽くなるようだ。


 結果としてはめでたしめでたしだったわけだ。


 しかし、事件から一月経ったある日だった。


 いつものように昼頃学校を終えて労基局に出勤すると、建物の入り口にうだつの上がらなさそうな男がうろうろとしていた。スーツはよれよれ、顔色は悪く、目の下には隈ができている。明らかに怪しげだ。だが男は兜人を見るなり、ほっとした表情になった。


「お久しぶりです!」


「……どちら様ですか」


 男は冗談だと思ったらしく、あはは、と愛想笑いをした。しかし兜人がいつまで経っても訝しげな表情を変えないので、こんどは泣きそうな顔になった。


 と、そこへちょうどちとせがやってきて、


「兜人くん、お疲れ様〜……って、ああっ、高野さんじゃないですかぁ!」


 高野。兜人は自分の記憶の中を探ってみたが、一向に該当する人物に当たらなかった。ちとせは兜人の肩をぽんと優しく叩いた。


「ほらぁ、兜人くんの初出勤の日に、誓約書を元の雇い主さんに食べられちゃった人だよ」


「あぁ」


 言われて、兜人はやっと思い出した。ただ、忘れていた自分もどうかとは思うが、その紹介の仕方もどうなんだ。しかし当の高野は一向に気にした様子もなく人のいい笑みを浮かべるだけだった。


「高野さん、新しい職場の様子はどうですか? 海運会社、でしたっけ?」


「はい、それはもう……ブラックです!」


「そうですか、それは良かっ——はい?」


「ええ、本当に……真っ黒な会社です……」


 しょぼんと肩を落とす高野に、兜人はちとせと顔を見合わせた。


 相談窓口の部屋に通し、ちとせがお茶を振る舞う中、高野はぽつぽつと転職した先の会社のことについて話し始めた。自主的早出やサービス残業は当たり前、とかく時間外労働が長く、今も夜勤明けで会社から出てきたところらしい。人手が足りず、中学生の念動力者(サイキッカー)に高度の技術を要する重機の操縦をさせたりもしている。また経営状況が良くないのか給与の支払いが滞るようになり、高野の話ではあからさまに怪しい積み荷運搬の案件も引き受けていたのだとか。


「ちょっと前、アマテラスが大騒ぎになったでしょう? 妙な薬を開発しただとか。あれの残りだ、と言ってるらしいんですよ」


「なんですって?」


 この男もつくづく運がないな、などと呑気に構えていた兜人はのんびりとカップに伸ばしていた手を止め、ようやく本腰を入れた。


 何も知らなければ、ただの与太話と片付けていたかもしれない。


 だがちとせもまた難しい顔をして、考え込んでいた。


「北条が言ってたよね、最後に。『これで終わると思うなよ』って……」


「ええ。もしかしたらそれがそうなのかもしれません」


「ええと、どれがどうなんでしょう……?」


 訳の分かっていない高野にちとせは笑顔を向け、お茶のおかわりを淹れた。


「高野さん、お話してくださってありがとうございました。とりあえずお体を壊す前に……その職場はお辞めになったほうかいいかもしれません」


「ええ、そうですね。私もそうしようと思っています……」


「もちろん、お給料はちゃんともらえるようにしますからね! で、ですね。高野さんの補充要員として……兜人くんをその会社に潜入させてもらえませんか?」


「え?」


「——え?」


 かくして、兜人の二ヶ月に及ぶ内偵が始まった。会社内部はそれはもう散々たる有様で、叩けば埃が出てくるように法律違反が次々と見つかった。そしてワンマン社長によるパワハラの嵐はすさまじく、社員のほとんどが覇気のない顔をしていた。唯一、兜人は背が高いせいか、黒ずくめの格好のせいか、第一高校の生徒だからか、進行度6の発火能力者(パイロマニア)などという物騒な異能力者だったからか、ただ目つきが悪いせいか、社長はあまり干渉してこなかったが。


 とにもかくにもその内偵捜査で足場を固め、その怪しい積み荷が運び込まれる日になって、労基局と警察、入管局、税関の連携の元、今夜の大捕物が敢行されたというわけであった。


 税関からの連絡によると、積み荷の中身は薬品のアンプルのようだった。


 それが『SXRI』の残りであれば、兜人らは無事、北条の企みを阻止できたことになる。


 まぁ、元々労基局としてはそこまでの捜査は管轄外である。


 法律違反の労働をしていた中学生も無事警察に引き渡したので、あとはこうして優雅に夜のお茶会をしているというわけであった。


「お茶はどう? お口に合う?」


 ほくほく顔でお菓子を運んできたちとせに、兜人は軽く頭を下げた。


「美味いです。……すみません、先輩に全部させて」


「今更何言ってるの〜? これは私の趣味だよ、趣味。気にしないで」


 静かな微笑みを浮かべ、ちとせもまたお茶を口に運んだ。


「ううん、ふんわり香るレモンバーム……グリーン系の味とあいまってとっても爽やか。まるで風の吹く草原にいるみたいで、今夜みたいに高ぶった心を落ち着かせてくれるわ」


 夜と言うことで、鎮静効果のあるハーブブレンドらしい。味や香りに関してはあまり詳しくないが、確かに温かいものを飲むと体から緊張が抜けるような気がした。


 と、そこへ第五相談窓口の扉が勢いよく開いた。


「あっはっは〜、というわけでうちじゃ! 今夜は大義だったようじゃのう!」


「こんばんは。夜遅くにごめんねー」


 扉の向こうに立っていたのは、やたらとテンションの高い滝杖蓮華と時間も時間なので少々控えめな倉知薫だった。


「蓮華ちゃんに薫さん! こんばんは、どうしたの?」


 突然の来客に驚きながらも、ちとせは嬉しそうににこにこと笑顔を返した。蓮華は勝手知ったる様子で客用の椅子をがたごとと小さな体で運ぶと、そこにどっかと座った。


「小僧も大義大義、にゃははー!」


「うるさ……てかなんでそんなにテンション高いんですか」


「兜人くん、蓮華ちゃんが研究室を出てくる時は論文が終わった時だけなんだよ〜」


「うむ! というわけで、祝いじゃ!」


 真っ白な猫足テーブルにどっかと置かれたのはビニール袋に入った何かのパッケージだった。それが四つ。


「なんですか、これ?」


「カツ丼じゃ。しかもカツダブル」


「——重ッ! 何時だと思ってんですか、もうすぐ十時ですよ」


「ええい、うるさいうるさ〜い! 〆切に勝ったんじゃからカツ丼なんじゃ〜い!」


「あはは、実はあたしも買ってきちゃったんだ。……フライドチキン、二十ピース」


「だから重いッ! あんたらの胃は鉄で出来てるんですか!?」


「だって、二人が今日大仕事するって言うから〜! お腹空いてると思って〜!」


「……ぷくく、あはははは〜!」


 腹を抱えて大笑いし出したのは、ちとせだった。足までバタバタとさせて笑っている様子に他の三人はぽかんとちとせを見つめる。


 ちとせは目尻に溜まった涙を拭いながら、言った。


「やっぱり優雅なお茶会とはいかないか。……でもいいや、楽しいから!」


 ちとせは席を立つと、兜人の肩を優しく叩いた。


「大丈夫、カモミールとペパーミントのブレンドを淹れるから。消化促進効果もバッチリだよ!」


「……てことは、今から食べるんですか、これ」


「もちろん。お客様のご厚意は無下にできないもの」


 弾むような足取りでキッチンに向かうちとせの背を、兜人は微苦笑を浮かべ、見つめていた。


 いつでも、どんな時でも、ちとせは客人にお茶を淹れ続けるのだろう。


 そして、四つ分のカップ&ソーサーをトレイに乗せ、ちとせは振り返った。


「——さぁ、ようこそ。私のお茶会へ!」


 めちゃくちゃなそのお茶会がどうなるかは分からない。明日は胃もたれしているかもしれないし、ハーブティーのおかげでそんなに気分は悪くないかもしれない。


 分かっているのは、兜人自身がただここにいたいだけ。


 それだけだ。

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