第5話

 芽室との会話が頭の中に残っていたからだろうか、つい言ってしまった言葉に、ちとせはむうっと唇を尖らせた。


「まぁ、レディに対して失敬なっ」


 しかし、ちとせはころっと笑みに転じ、片目を瞑ってみせた。


「なーんてね。……というか、仕返しってわけじゃないけど、君もなかなか珍しいって聞いたよ。一ヶ月前に発現したフェイズ6の発火能力者パイロマニア——だっけ?」


 ことん、とちとせが首を傾げる。兜人は苦虫を噛みつぶしたような顔で、手に取ったサンドウィッチを黙々と咀嚼した。


「一応、これも生徒会長から聞いたんだけど」


「……高い進行度フェイズの割に、能力を制御できないことも?」


 ちとせはすぐには答えなかった。カップをソーサーの上に置き、スコーンを一つ手にした。小さなバターナイフでクリームを一さじほどスコーンの縁につける。そしてぱくっとそれを頬張った。


「うーん、やっぱりスコーンにはクロテッドクリームね」


 と、ちとせは上機嫌で舌鼓を打っている。誤魔化されているんだろうかと思いきや、彼女はやおら口を開いた。


「どうして異能力が『アンダー』と呼ばれているか、知ってる?」


「……いえ」


「英語で書くと『Under』ね。下に、とか内に、とか色々な意味があるけど、どちらかというと隠れて、とか秘密裏に、とかそっちの方から来ているという説よ。これは知り合いの研究者から聞いた話なんだけどね、異能力者に対して異能力を持たない人たちのことを————『一般人オーディナリィ』と呼ぶでしょう? そして一般人オーディナリィとは未だケージに囚われていると人だと考えられている。これをオーディナリィケージ論と言うそうよ。人間は全員、秘密裏に『隠された力』を持っている。だからこの力を『アンダー』と呼ぶんだって」


 ちとせは一体何が言いたいのだろう。言外に表情でそう訴えると、ちとせは柔らかく目を細めた。


「君のその異能力は紛れもなく君の一部。だからきっと——うまく付き合っていけるようになるよ」


 ミルクティーから立ち上る湯気の向こうからそう諭され、兜人はサンドウィッチの残りにかぶりつき、ぎこちなく飲み下した。


 アンダー、オーディナリィケージ、隠された力、元々自分の一部——


 だからなんだというのだろう。


 隠されていたのなら、一生、隠れていれば良かったのだ。


 こんなもの、望んだ覚えはないのに——


「そして、誰にでも自分の能力を生かせる場所はあるわ。兜人くんにとってそれが労基局ここだったら、私は嬉しい」


 曇りない双眸で見つめられ、兜人はとっさに二の句を継げなかった。ちとせは本当に、本気でそう思っているらしい。


「でも、能力を制御できないのは……何より君が辛いよね」


 兜人はむっつりと黙りこくった。何もかも見透かしているようなちとせの口調が気に入らなかった。


「んーんー……。よしっ、じゃあ、それをまず!」


 あくまでも軽い口調で言うちとせを見て、兜人の脳裏にはっと過ぎるものがあった。


 そうだ、建物前の騒ぎや突然始まったお茶会のせいですっかり忘れていたが——


 芽室生徒会長は確かに言った。


 ちとせのツテで、この能力が制御できるかもしれない——と。


「本当に、そんなことが可能なんですか?」


「うん。私のクラスにとっても頭のいい子がいてね。その子ならどうにかしてくれるかもしれない」


「あ、頭のいい子……?」


 ちとせ特有のゆるい表現なのか、本当にただの『頭のいい子』なのか。いまいち判断しかねていると、ちとせはやにわに席を立った。


 すぐ出かけるのかと腰を浮かしかけるが、ちとせはのんびりとした仕草で兜人のカップにおかわりのミルクティーを注ぎ始めた。


「まだまだたっぷりあるから、遠慮しないでね」


「……あの、今すぐ行きたいんですが」


「あ、駄目だよ。労基局執行官たるもの、定時まではちゃあんとお仕事しなくちゃ。というわけで、ここでお茶をしながら相談者が来るのを待ちましょう」


 え、という兜人の呟きを聞き流し、ちとせはほくほく顔でスコーンを頬張った。


「うーん、やっぱりアプリコットジャムもいけるぅ!」


 どうやらお茶会はまだまだ続くらしかった。





 定時まで残り一時間。カーテンから透ける日は赤みを帯びて、西に傾いていた。


 あれから訪問者は現れていない。


 兜人は黙々と法律書を読みふけっていた。占環島労働基準法を記載した分厚い書物を、一ページ、また一ページとめくっていく。


「兜人くん」


 また、一ページ。


「兜人くーん」


 またまた、一ページ。まったく、どうしてこう法律書は字が細かいのやら。


「かーぶーと、くんっ」


 そしてさらに一ページ……


「……宗谷くん」


「なんですか、恵庭先輩」


 ようやく兜人が目を上げれば、ちとせは空っぽになったハイティースタンドの向こうから、恨みがましくこちらを見つめてきた。おそらく睨んでいるのだろうが、人の良さそうな垂れ目がちの瞳ではいまいち迫力がない。


「まぁ、いっか。ね、それ難しいでしょ? おすすめの本があってね、この『サルでも分かる簡単——」


「いえ、大体分かりました」


 話を遮られ、ちとせはきょとんと目を瞬いた。兜人は読み込む前に一度ざっと目を通し、まずは実務に必要そうな項目を覚え込んだ。今は巻末の例題に取り組んで、自分の得た知識が正しいかどうか検証していたところだった。


「へええ、頭がいいんだねえ」


「警察や入管局でも、大抵一日あれば覚えられましたよ」


 事実ありのままを言ってから、兜人はつと黙り込んだ。


 同じことを言った時の諸先輩方とやらの、苦い表情を思い出す。


 皆が兜人の失敗を待ち構え、それに応じるようにこの『能力』は暴発するのだった。


 しかし、


「優秀なんだねえ〜! もしかして学校でも優等生なのっ?」


 ミルクティー色の目がきらきらとした光を伴って、こちらの顔を覗き込む。兜人はやや鼻白み、答えるつもりのないことまで言ってしまう。


「まぁ……外の学校の試験では一番でした。でも兄二人はもっと——」


「お兄さん?」


 あやうく舌打ちをしそうになった。真っ直ぐなちとせの視線を受け止めることができずに、兜人はとっさに俯く。


 その時だった。ドアの外から、りん、と呼び鈴の音が鳴った。


「あ、はーい、どうぞ!」


 ちとせの意識がそちらに向いたのと同時に、兜人もまたドアの方を肩越しに振り向いた。助かった、そんな本音を心の内に秘めつつ。


「すみませーん、失礼します」


 開いたドアの向こうにいたのは、二人の少女だった。どちらも高校生だろう。ドアを開けたのは手前にいた少女で、労基局の身分証タグを首から提げている。名前は安平やすひらあい、総務部の人員らしい。


「相談者の方、お連れしました。……ちとせちゃん、お願いしちゃっていいかな?」


「了解よ、愛ちゃん。さぁ、どうぞどうぞ」


 ぺこぺこと何度もお辞儀をしながら、愛が部屋を辞す。終始申し訳なさそうな顔だったが、そういう性分なのかもしれない。

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