第33話

 ちとせは唇をきつく噛みしめている。


 その表情は酷く悲しげに歪められていた。


「違う、の。そうじゃない。ごめんね、兜人くん。ごめんなさい」


 唇を強く噛みしめ、ちとせはそう繰り返した。


「蓮華ちゃんにも言われていたのにね、一人で何でも解決しようとするのは悪い癖だって。それに兜人くんは自分のことをきちんと話してくれたのに。私は……私には、どうしてもその勇気がなかった。どうしても怖かったの」


 ちとせは意を決したように続けた。


「兜人くん。私もね……死にかけたことがあるの。ううん、一度、死んだの」


 怪訝に眉を顰める兜人を見て、ちとせは淡く微笑みかけた。


「不運な交通事故だった。搬送された先は父が在籍していた大学病院で、父自らが執刀に当たってくれた。けどもう……手の施しようがなかったみたい。父は私を助けようとして、一縷の望みをかけた。それが————父の研究過程で生まれた偶然の産物『SXRI』の原型だったの」


 蓮華の研究室で見た資料が頭を過ぎる。やはり試験者の『恵庭大介』はちとせの肉親だったのか。


「父の生み出した原型(オリジナル)の薬は『SXRI』よりも強力で完成されていた。当時、一般人オーディナリィだった私がいきなり進行度7の異能力者になってしまうほど」

 兜人は言葉を失った。


 ちとせが手術前は——一般人オーディナリィだっただと?


「けれど、父はその後、行方不明になってしまった。原型の薬のデータと共に。私は占環島へ送られることになり、労基局で働くことになった。自分の仕事や生活に精一杯で父のことを調べることすらできなかったけれど——ようやく、この間気づいたの。北条が父の研究室にいた助手だったということに」


 確かにちとせは最初に北条に出会った時『どこかで見覚えがある』と言っていた。


「昨日、アマテラスで言われたの。『お父上はご健在ですか』——って」


 瞬間、ちとせは全てを理解したに違いない。


 そして単身、北条と対峙しようとした——


「ごめんなさい。私、誰も巻き込みたくはなかった。父のように、させたくなかった。最悪なことになるなら、私だけって、そう——」


 重い、沈黙が降りた。


「私は強くなんかない。臆病で、卑怯者だった。弱い——弱い人間だった」


 二人の間を降りしきる雨だけが埋めている。


「あのね。私、かすかにだけど記憶があるの。手術中、必死に私を助けてくれようとしているお父さんの声。それと——」


 コンテナの中から七つの光球が出てくる。それはちとせを守るように彼女を取り囲んだ。


「瀕死の私を照らしてくれた、希望の光を——手術台の上にあった七つの照明を。そして私は異能力によって、欠損した体の機能を補うことによって今も生きながらえている」


 ちとせはところどころ光を湛えている自分の体にそっと触れた。


「だからね、兜人くん。私のわがままかもしれないけど——あなたも死なないで。生きていて。異能力は私たちを殺すものじゃない、生かすもの。私たちの内に秘めた願いなんだよ」


 ふっ、と——


 兜人は肩の力が抜けるのを感じた。


 あぁ、そうか、と内心で納得する。


 きっと強い人間なんかいないのだ。


 けど、みんな、強くあろうとする。


 死なない限り、生きている限り、守りたいもののために——


 自分は弱い。けれど、そうありたい。


 現実にも、真実にも、この力にも決して負けたくはない。


 そう、思った。


「……単身、敵の中に突っ込もうとしていたあなたが言いますか、それを」


「うっ……。ご、ごめんなさい」


「俺はともかく、滝杖先輩も信用できないんですか?」


「ち、違うよ! 二人のことを信用していないわけじゃなくて……その」


 おろおろしているちとせが珍しく見えて、兜人は思わず笑みを浮かべた。


「滝杖先輩が言ってました。俺たち……どうやら、似た者同士のようですね」


「……そうかもね」


 ちとせが困ったように微笑む。兜人は煤けた制服を手で払いながら、立ち上がった。


「まぁ、いいです。俺も先輩もどっちみちここまで来ちゃったわけですから。——解決しましょう、ちとせ先輩。労働基準執行官の名にかけて」


 ちとせはきょとんと目を瞬かせていたが、やがていつもの笑顔を浮かべた。


「うん、そうだね。私たち——第五相談窓口で」



 燃えたコンテナから少し距離を取るなり、ちとせは光球を自分の眼前に集め始めた。


「——行って!」


 言うなり、光球はそれぞれが違う方向に散開していく。曇り空を照らす七つの光、その光景を眺めながら、兜人はちとせに尋ねた。


「何をするんですか?」


「あの子たちは私と感覚を繋ぐことができるの。限定的だけど『千里眼』のような使い方ができるってこと」


 その後、ちとせは目を閉じて光球の操作に集中していた。兜人としても声をかけずに見守ることしばし、ちとせが静かに瞼を開いた。

「——いた。女性……? あっ、かまいたちみたいな攻撃を受けてる」


「佐倉栞。薬の開発のプロジェクトリーダーで、進行度5以上の酸素操能力オキシキネシスの使い手です」


酸素操能力オキシキネシスか、なるほど。だからコンテナが燃えたのね……。近くにいる、急ごう!」


 ちとせが駆け出すと同時に、光球の内、三つが彼女に合流した。一つは引き続き佐倉の補足、そして残りの三つは北条の捜索にでもあてているのだろう。


 コンテナとコンテナの間を抜け、ちとせの背中を追いかけることしばし。


 船と同じ『エバーブルー』の名を冠したコンテナのそばに佐倉がいた。


「この……しつこい!」


 酸素の衝撃波で光球を撃退しようとしているが、振りきることができないでいるらしい。


 そこへちとせが割って入った。


「佐倉栞さん! こちらは労基局、労働基準執行官の恵庭ちとせです! おとなしく投降してくださーい!」


 こんな場面でも間延びしたようなちとせの声に、思わず吹き出してしまう。

「えっ、なんで笑うの兜人くん!?」とちとせが顔を真っ赤にして慌てた。


「なんなのよ、あんたらは。たかだか労基のくせに!」


 佐倉の眦がきっと吊り上がる。そこには一欠片、光るものが見えたような気がした。


「私の何が分かるっていうのよ!」

 ——きっと、孤独だったのだ、と兜人は思った。


 晋平のような仲間が周囲にいたのに彼らに頼ることもできず、自分が間違った道を選んでいるのが分かっていながら、ただ茨の道を突き進むしかなかった。


 けれど、そんなのは間違っている。


 そんな働き方は、生き方は。


 だから——


「こちらは同じく労働基準執行官の宗谷兜人だ。執行官の名にかけて……君の労働環境を正してみせる!」


 そして兜人は佐倉に向かって駆け出した。


 ちとせの脇を通り様、「フォローよろしくお願いします」と呟いて。


 一気に距離を詰めた兜人に対し、佐倉は泡を食ったように酸素の塊を作り、兜人に向けて発射した。先ほどのように火で爆発させる気か、そもそも発火能力パイロキネシスへの牽制のために放ったか。


 しかし兜人は発火能力パイロキネシスを使うつもりは毛頭なかった。ただの酸素の塊を跳び箱の要領で飛び越えると、佐倉へ肉薄する。


 佐倉は後方に飛び退った。兜人が発火能力パイロキネシスを使ってこないことが分かるや否や、今度は衝撃波への攻撃に切り替える。佐倉が立て続けに二度腕を振った。角度の違う衝撃波がクロスして兜人に襲いかかる。


 だが兜人は避けようとはしなかった。代わりにそれを防いだのはちとせの光球だった。光球は兜人の前に躍り出ると自ら盾となり、衝撃波を打ち消した。


「なっ……!」


 佐倉が驚きの声を上げる。傷一つついていない光球はしかし、お役御免とばかりに上空へ飛んでいく。


 もう兜人と佐倉の間を遮るものはない。


 兜人は無防備にこちらへ伸ばされていた佐倉の腕を取った。佐倉は反射的に腕を引く。その動きを利用して逆に押し、佐倉が後方にバランスを崩したところで今度は強く引き戻す。こうなれば相手の体の平衡はこちらが握ったも同然だった。女性相手とはいえ強力な異能力の持ち主には変わりない。兜人は素早く佐倉の背後に回り、掴んだ腕を彼女の背中側に回すと、体重をかけて一気に甲板の床へ押し倒した。


「うっ、あ……!」


 佐倉は呻きを上げて、地に伏せた。


 無力化されてもなお、佐倉はこちらを睨み上げていた。


 瞬間、目にぴりっとした刺激を感じた。まるで佐倉の眼光に貫かれたかのように。


 佐倉はじっと兜人を見上げている。


 そこへちとせが言った。


「もう、やめてください。佐倉さん」


 ちとせは厳しい目を佐倉に向けている。兜人は僅かな違和感を覚えた。睨み付けてはいるものの、佐倉はもはや抵抗はしていない。


 しかし、


「佐倉さん、今、オゾンを発生させていますよね?」

 オゾン? 兜人は思わず空を見上げた。あの成層圏を覆っているというオゾン層のことか?


 いや——と、兜人は考え直す。


 そうだ、オゾンは酸素原子三つからなる物質だ。


「オゾンは人体にとって有害です。自分もろとも……なんて考え、もうやめてください」


 佐倉は何も返さない。生臭いような刺激臭が鼻先を掠めるが、しかし兜人もまた動かない。ちとせはさらに畳みかけた。


「もっと……もっと、自分を大切にして!」


 はっとして佐倉は目を見開いた。その表情は悔しさに激しく歪められていた。


「何が分かるのよ。何が……何が、何が!」


 自由になる手で甲板をだんだんと叩く。たとえ、それが何の意味もないことだったとしても、佐倉は拳に血が滲むまで床を叩き続けた。


「私が好き好んで異能力の進行度を上げる薬を開発したとでも? 子供達を実験台にしたとでも!?  部下達も巻き込んで? そんなわけないじゃない! そんなわけ……!」


 振り下ろされた拳が、力なく甲板に置かれる。佐倉は顔を伏せて、ぎゅっと肩を縮こまらせていた。


「あんたたちみたいなのには分かりっこない。自由にやって、自由に働いて、なんの、なんの不自由もなくて……」


 そういう佐倉の語尾は濡れている。


「私は、そうなれなかった。気がついたら、北条に『同じ穴の狢だ』って脅迫されて、がんじがらめになって、私もみんなも動けなくなってた」


 佐倉は吐き捨てるように言った。


「もう、私は、終わりなのよ——」


 ちとせが静かに「兜人くん」と呼びかけてきた。佐倉を拘束している兜人の手を見て、ゆるゆると首を左右に振る。兜人は佐倉の腕をほどき、体をどかして、佐倉を起き上がらせた。彼女は決して泣いているところを見られまいと、唇を噛んで、深く俯いていた。


 ちとせは佐倉と目線の高さを合わせるように、しゃがみ込んだ。


「終わりなんてこと、ありませんよ」


 空虚な慰めに聞こえたのだろう。佐倉は相変わらずの負けん気でちとせを睨め付ける。


 その鋭い眼光を例のふんわりとした笑顔で受け止めながら、ちとせは続けた。


「私、死にかけたんです。というか、一度死んだことがあります」


「は……?」


「そこの兜人くんもそうです。それに『あぁ、もう終わりだ』なんてこともたくさんありました。ええ、恥の多い人生を送ってきました。最近で言うと、寝ぼけてパジャマのズボンを脱いだまま外へでちゃったり」


「はぁ……?」


 佐倉が何事かとあんぐり口を開ける。あの時の衝撃を思い出し、兜人は思わず口を挟んだ。


「で、そのまま自分の前に出てきたんでしたっけ。あれは正真正銘の痴女でしたね」


「ち、違うよ、ほんとに寝ぼけて気づいてなかっただけなの! ……それから、お鍋の具材にフルーツとか殻を割ってない卵をそのまま入れちゃったり。他にもお気に入りのカップを立て続けに三つ割ったり、紅茶を煮出したまま丸三日忘れてたり……そりゃあもういろんなことがありました」


 ここで何故か胸を張るちとせである。佐倉は一体何を言われているのだろう、という顔をして、しかしちとせの話を大人しく聞いている。


「でも、そんな私でも生きてます。それはきっと周りの人が私を支えてくれるおかげなんです。少し、それを忘れちゃってた時もありました。けど、やっぱり、そうなんです」


 ちとせが佐倉の手を取る。ちとせの手はまだ煤による汚れが残っていたし、佐倉の手は自暴自棄に甲板へ打ち付けていたから血が滲んでいる。


「だから、頼ってください」


 それでも二人は手を取り合っていた。


「相談してください。私たちは労働基準監督局、第五相談窓口です」


 佐倉の顔がくしゃりと歪む。


 大人っぽい横顔がそのときだけは何故か、見つけてもらった迷子のように感じた。


「……嫌、だったの」


 ほろり、と佐倉の頬を涙が伝う。


「本当はみんなを助けたかった。こんな島に閉じ込められている異能力者がみんな一般人に戻れたら、そんな夢のような薬を開発できたらどんなにいいだろうって思って頑張ったの。なのにどうしてこんなことになっちゃったの? どうして私は最初に嫌って言えなかったの? どうして私を信じてくれていた部下を裏切るようなことをしたの? 嫌だった。全部、嫌だった。こんな、こんな私は、もう嫌だ——!」


 佐倉の魂の叫びがコンテナの間に木霊する。ちとせは彼女に向かって大きく頷いてみせた。


「あなたは間違ってません。間違ってるのは、あなたの職場の方です」


「今からじゃ、もう遅い……」


「そんなことはありません、絶対に」


「……本当に? こんな私でも、やり直せるの?」


「はい。だから行きましょう」


 ちとせは佐倉を助け起こし、兜人に向かって言った。


「行くよ、兜人くん」


「はい、先輩」


 兜人もまたちとせに頷いてみせた。


「——今より、労働基準執行官による、占環島労働基準法の執行を開始します」

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