第26話


 拳を固く握りしめる。


「恵庭先輩が、アマテラスと関係していたなんて——」


 蓮華は難しい顔をして口を閉ざしている。


 研究室の床を踏みしめているはずの足元がぐらぐらと揺れているような気がした。


 この感覚は好まざるものだが——酷く、懐かしい感じがする。


 そう遠くない過去、何度も何度も味わった辛酸が舌の上に甦る。


 向ける先のないつま先、行く先のない自分。


 俺は。俺、は——


「ともかく落ち着け。あやつみたいに茶が出せたらいいんじゃがの」


 苦々しく言った後、蓮華は軽く兜人の肩を叩いた。


「こうなったら直接、ちとせに聞くしかなかろう。うちはもう少しこの薬の成分と治験の内容について調べを進める。おぬしはちとせが行きそうなところを片っ端からあたってくれ」


「……はい」


 項垂れる兜人に蓮華は念押しするかのように言った。


「くれぐれも危険なことはするなよ。お主はどうも、ちとせと似たもの同士というところがあるからのう」


「似たもの同士……ですか」


「そうじゃ。なんでも自分一人で背負い込もうとする悪癖じゃ」


 そうなのだろうか、と兜人は思った。確かにちとせは出会った日の夜、自分だけで追跡者を片付けようとしていたが。


「兎にも角にもじゃ。警察が動くだけの証拠が揃えば、この件はあちらに引き渡す。いいな?」


 それにもかろうじて頷き、兜人は蓮華の研究室を後にした。


 とぼとぼと廊下を行く。どうしてこうも自分が意気消沈しているのかが分からない。


 ともかくちとせを探さなくては。兜人は階段の前で立ち止まり、背後の窓を振り返った。雨足はいよいよ強くなり、硝子には全てを洗い流すかのような水の層がへばりついている。


 傘、忘れたな。そんなことを考えていると——


 静かな廊下に着信音が響き渡った。兜人は弾かれたようにコートのポケットから端末を取り出す。


 しかし表示されている名前は、ちとせではなかった。


『——もしもし、カブト!?』


 裏返ったその声には聞き覚えがあった。倉知薫だ。


「はい、そうですが。どうかしたんですか」


『どうもこうもないよ! た、助けて!』


「え?」


『あ、あたし、タイホされちゃうかもしれない!』


 上擦りっぱなしのその叫びに、兜人もまた「はぁ!?」と声を荒げた。


「どういうことですか!?」


『せ、せ、説明してる暇は……。あのね、捕まっちゃう前にお願いしたいことがあって。どっかで会えないかな。ちとせに連絡しても繋がらなくて。ねえ、お願い、カブト!』


 そう畳みかけられ、兜人は思わずもう一度窓の外を見やった。


「今、どこにいるんですか?」


『と、とりあえず、地下鉄に向かってる……』


「じゃあ、千島線に乗ってください。俺は今、終着駅の付近にいるので——中間の『占環シータワー駅』で待ち合わせましょう。いいですか?」


『う、う、うん。分かったよ!』


 兜人は通話を切るなり、急いで階段を駆け下っていった。次から次へと起こる事態に頭が全く着いていかない中、脳の冷静な一部分だけが、外に出たらずぶ濡れ確定だな、とそんなことを危惧していた。





 占環シータワーは第六区にある島のシンボル的建造物だ。中央広場の噴水と島の内外を分け隔てる海岸線のちょうど真ん中の位置に立てられている。全長一一二メートルにもなるタワーは周囲に比肩する建物もないため、高さ一〇〇メートルにある展望台からの見晴らしはよく、島内としては珍しい観光スポットにもなっている。といっても来る者は島民だけであり、今はその偉容も霧に隠れててっぺんがほぼ見えない状態だが。


 兜人はせめてもの雨よけにと頭からコートを被り、地下鉄の出口からタワーまでの距離を足早に駆け抜けた。シータワーの敷地内に入ると、まずは屋根のあるところでコートについた雨粒を振り払い、袖を通し直してタワー内部に入った。タワーの一階にはエントランスにスーベニアショップ、そして軽食などが楽しめるカフェがあった。


 後から送ったメッセージで指定した待ち合わせ場所であるカフェの隅に、薫が小さくなって座っていた。パーカーのフードを目深に被っているあたりは、さすがは自称・容疑者である。兜人は近づいてくる店員を手で制し、つかつかと薫へ歩み寄っていった。


「あ、カブト……良かった!」


 フードの向こうから目を輝かせる薫に、兜人は深々と嘆息した。


「余計怪しいですよ、倉知さん——って」


 テーブルを挟んで向かいの席に座ろうとした兜人の目に、衝撃の光景が飛び込んできた。


 薫の隣に、小さな女の子がいる。


 五歳にも満たない幼子だった。長い髪を三つ編みにして、いちごのゴムで結わいている。来ている服は————兜人の遙か昔の記憶が確かならば————スモックと呼ばれる幼稚園や保育園の制服だった。胸には黄色い花の形をした名札をつけていて、大人の字で『りんちゃん』と書かれていた。


 りんは子供らしく丸みの残る頬を少しばかり上気させ、大きな瞳で兜人を見つめてくる。その真っ直ぐで純粋な視線にどうすることもできず、兜人はたじろいだまま席に着いた。


「あの、一体どういうことですか……?」


 薫はやや濡れた前髪を片手でいじりつつ、あーとかうーとか唸っている。きっと何から説明すればいいのか言いあぐねているのだろう。


 その隙を突くように、りんが身を乗り出した。


「ねえ、おにいちゃんがせんせえのかけおちあいて?」


「……はっ?」


「あのね、りんたち、逃げてきたの。きゃーって。で、おにいちゃんにあわなきゃってせんせえが。だから、これってあいのかけおちよね?」


「り、鈴ちゃん! 何言ってるの、違うよ!」

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