第29話
——そこへ、大きめのノックが割り入った。はっとして眠りの淵から目を覚ますと、がたいのいい中年男性がドアから顔を覗かせていた。不機嫌を顔に張り付かせたようなその男は兜人に歩み寄るなり、低い声で唸るように言った。
「港湾地区の事務局長をしております、柳瀬と言います。して、労基局さんが何用で?」
正確な年齢は分からないが、見たところ三十代をゆうに超えているように見えた。おそらくは
兜人は改めて身分証を提示した後、こちらの要求を告げた。
「匿名の訴えの元、この港湾地区全域を検めさせていただきます」
「全域? 全部の埠頭をですか?」
「ええ」
「困りますね……。うちの港には何百という海運会社や貿易会社が入ってますし、中には顧客への守秘義務もありますし——」
「——ご存知かとは思いますが」
渋る事務局長の言葉を遮るように、兜人は言った。
「労働基準執行官には法の強制執行権限があります。ご了承いただけますね?」
事務局長は渋面に渋面を塗り重ね、黙りこくった。
結局、押し切る形で了承を得た兜人はさっそくこのA突堤から調査に乗り出すことにした。
探し回る。聞き回る。今日、何か不審な積荷が持ち込まれたことはないか。港湾地区には似つかわしくない園児たちを見かけたことはないか。警備員に、港湾職員に、船員に、事務員に、聞いて聞いて聞いて回った。霧煙る埠頭を、背の高い建物とコンテナ船の間を、歩いて歩いて歩き通した。
——が、何も手がかりは得られない。
兜人はB突堤にある貿易会社から出てきた瞬間、思わず溜息をついた。まだ調査は半分も進んでいないとは、今は考えたくもなかった。
貿易会社の社屋の裏側に出ると、そこはすぐ海に面していた。とはいえ、海面は断続的に雨粒に叩かれていて、そのせいで霧がさらに濃く海を覆っている。海と空の境界線が曖昧な眼前の光景を、兜人はしばしぼんやりと見つめていた。
周囲は驚くほど静かだった。目の前は海とうっすら見えるテトラポットの防波堤、そして左手には大きなコンテナ船が一隻着いていた。船体には英語で『エバーブルー』と書かれている。確か、香港の船会社だったか。そんな詮無いことをつらつらと思っていると、
「——手を引け」
背後から、声がした。
気配は感じていた。それもA突堤を調査していた時から——自分を付け狙う影がちらついていた。
だからこそ、ここでしばし立ち止まってみようと思い立ったのだ。
思惑通り、しびれを切らして接触してきた影に、兜人は油断なく周囲に視線を走らせた。姿は見えない、だが声ははっきりと聞こえる。相当、近くにいる。
「手を引けとは、何からだ?」
あえてわかりきったことを尋ねてみる。すると、貿易会社の社屋の物陰から、フルフェイスヘルメットを被った男が一人、現れた。その奥にはさらに、三、四人の人影が見て取れる。
間違いない。数日前、占環島異能力研究機構(SURO)の帰りに兜人とちとせを襲ってきた連中だ。
そして、確信する。
自分の予想が正しかったことを。
この港湾地区に、何かが隠されていることを。
兜人は背後に向き直り、男達と対峙した。
「こちらは労働基準監督局、労働基準執行官の宗谷兜人だ。お前たちは何者だ?」
もちろん、応えは返ってこない。兜人は迷わず核心を突いた。
「——アマテラスの手の者か?」
再度の問いかけに答えはない。しかし男の幾人かが動揺している。それを制したのはリーダーと思しき前に出ていた男ではなく、その背後に控えている男の内の一人だった。
十数秒、睨み合う。埒が明かない。兜人はさらに畳みかけた。
「子供達はどこにいる?」
瞬間、今度こそ全員に動揺が走った。が、またしてもあの冷静な男が皆を制する。
言葉を発したのはリーダー格の男だった。
「そこまで掴まれていては、仕方ない。ここで死んでもらう」
正気か、と言いかけてやめた。
リーダー格の男が兜人めがけて突進してくる。大きく腕を引き、拳を握っている。その手には耐火素材と思しき黒いグローブをはめており、周囲に人の頭大の炎を纏っていた。炎拳、とでも表現すればいいのだろうか。とにもかくにもこいつはあの夜、海辺の防風林に火をつけた輩だろう。
こんなものをまともにくらえば大火傷だ。同じ発火能力者(パイロマニア)としてその恐ろしさは十分知っている。兜人は拳をぎりぎりのところで避けると、伸ばされた腕を逆に取り、足を払って男の胴体に体を潜り込ませた。
そのまま一本背負いの要領で男を投げる。
ばしゃん、と高い水柱が上がる。海に放り込まれた男はあっさり波に呑まれた。周囲は水に囲まれているうえに、溺れないのが精一杯で、
早速一人を無力化したところで、今度は残りの全員に眼前を囲まれる。
兜人は迷わずホルスターからエアガンを引き抜くと、真ん中にいた男に向けて撃った。
ぱぁん、と破裂音がして、男の額に弾が命中する。
「ぎゃあ!」
のけぞり倒れた男は恐慌状態に陥っている。仲間達にもその動揺が伝播する。
おそらく、実弾で撃たれたのだと思ったのだろう。
だがこれはエアガンに元々装填されていたBB弾だ。労働基準執行官に拳銃携帯は許可されていない。
「ここに子供達がいるんだな!?」
混乱に乗じる形で兜人は尋ねるが、さすがに答える馬鹿はいなかった。
代わりにキャップを目深に被った一人の男が、BB弾を拾い上げ、こちらに向けて指で弾いた。それがほぼ兜人が撃った時と同じ初速で飛んでくる。運良く、狙いが逸れていたらしく、BB弾は兜人を通り過ぎて海面を叩いたのみだった。
「
兜人は男に向けてBB弾を撃つが、そのことごとくが男の眼前で止まり、下のコンクリートに落とされる。他の男たちにも威嚇のために撃ったものの、
BB弾を使い切ったのを見計らって、兜人は空のエアガンのトリガーを引き絞った。
瞬間、打ち止めであるはずのエアガンの銃口に火の球が生まれる。
まるで見えない風船に閉じ込められたような火の渦が、轟々と唸りを上げ、とぐろを巻く。
「なんだ、あれは……!」
どんどん膨らんでいく火球に男達がどよめく。
兜人は自身が制御できる限界ぎりぎりまで大きくした火球を睨み付けた。
「——
引き金から指を離す。と、同時に火球は地に落ち、アスファルトを舐めるように走り出した。その速度たるやすさまじく、男達が避ける暇もなく、その輪に向かって激突する。
「うわあ!」
「っ、ああ!」
どぉん、とすさまじい爆発音がした。巻き起こる煙を海風がゆったりとさらっていく。見えてきた光景もまたすさまじいものだった。貿易会社の社屋の壁が一部破損し、男三人が方々に散って倒れている。一応、彼らの間隙を狙ったので、直撃は避けられただろう。地面に伏している男たちはどうやら気を失っているようだった。
自分でも少しやりすぎたか、と後悔していたところで、まだ健在である男が一人いるのに気づく。
それはやはりヘルメットで顔を隠している奴だった。手には何故か空のペットボトルを持っている。その理由はすぐに知れた。
水だ。
水が意思を持ったように防壁を形作り、男を火球から守っていたのだ。
「
兜人の脳裏に、あの海辺の公園付近で襲われた夜が甦る。
防風林に飛び移った火を消し止めたのは、ありえないほど高く上がった海から来た波だった。
そういえばあの晩より一人、敵の数が多い気がする。
この男はあの晩、海辺で待機していたに違いない。手を上げた仲間の合図に呼応するように、海水を操ったのだ。
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