第32話
周囲になにかしらの積み荷が並んでいる以外は何もないコンテナだった。中は薄暗かったが、裸電球のようなものが一つ天井からぶらさがっており、中央に立っている黒のレインコートを纏った少女の姿を仄かに浮かび上がらせていた。
「こちらは労働基準監督局、労働基準執行官・宗谷兜人だ。大人しく投降しろ」
「ふん——」
佐倉はゆっくりと振り向いた。その固い表情になけなしの嘲笑を浮かべて。
「労基局ですって? 笑わせないで。私が何に違反したというのよ?」
「……占環島労働基準法第六十条の四。『使用者は、労働者が学生の場合、学業時間を最低一日四時間は確保しなければならない。変則勤務制でない限りはこれを原則、午前八時〜午後十二時と定める』とある。君は第一高校の学生であり、アマテラスの正規社員だ。本来、ここにいてはならない」
「なら、自分はどうだっていうのよ」
レインコートのフードを上げて、佐倉は真正面から兜人を睨み付けてきた。佐倉の言には返答せず、兜人は尋ねた。
「子供たちはどこにいる?」
「……ここにいるわ。今は眠ってる」
「君はこんな仕事に納得しているのか」
すると、佐倉は初めて目を逸らした。
「ええ——しているわ。当たり前でしょう? 私の仕事なんだから……」
それはともすれば自分に言い聞かせているような口調だった。
「どんな仕事だって、完遂してみせる。それしか方法はないのよ」
「子供たちを犠牲にしてもか」
「——うるさい!」
佐倉が右手を振り上げた。と、同時にレインコートの裾がふわりと舞い上がる。
女性らしいたおやかな指、その先の空気が一瞬揺らめいたかと思うと、ビニール袋に入れられて四角く圧縮された積み荷がすぱん、と真っ二つに切れた。
「
佐倉は壮絶な表情を浮かべ、兜人に対峙した。ついさっき積み荷を襲った右手が今度は兜人の方に向けられる。
「今度は容赦しない。覚悟して」
刹那、鋭い破裂音が頬の辺りすれすれを通過していった。肩越しに振り返るとコンテナの壁に恐竜が爪でひっかいたような傷が残っている。圧縮した空気の衝撃波とでもいえばいいのだろうか、その威力は計り知れない。
兜人が怯んだ隙を狙ったかのように、佐倉はコンテナの後方に下がっていた。そこから何故かコンテナの隅に向かう。
先ほどの
逃げる気だと、とっさにそう思った。
「待て!」
反射的に兜人はエアガンを佐倉の背中に向けた。トリガーを引いた瞬間、かっと両手が熱くなる。エアガンの銃口が溶けて潰れていることは兜人自身が思い知っている。だからうまく能力が制御できない。
それでも、一発。一発だけなら——
兜人は奥歯を食いしばり、火球を生み出した。否、火球と言うよりはもはや火炎放射器の炎に近く、制御を失った炎が今にも弾け飛びそうだった。
まだ持ってくれ。まだ、まだ——
今だ。
「——
炎が扉めがけて飛んでいく。まるで蛇の舌のようにコンテナの壁を舐めながら。
瞬間、佐倉が右手を伸ばす。彼女の姿がゆらりと揺らめいた。
——自分がもう少し冷静なら、気づいただろう。
本当にここに子供たちがいるなら、佐倉が彼らを残して出て行くわけはないと。
そして——佐倉の本当の異能力に。
気づいた、だろう。
後方の小さな扉から佐倉がコンテナを後にした瞬間だった。
どぉん、と耳をつんざくような爆発音がし、兜人は気を失った。
宗谷兜人はあの最悪の日を再び、体験していた。
皮膚が焼け付くような熱、息もできないような熱、自分というちっぽけな体を蒸し焼きにする熱——自分が閉じ込められた死の炎の世界を。
いつのまにか兜人は炎の中、仰向けに転がっていた。目の前をぱらぱらと火の粉が舞っている。燃えているのはどうやら藁のようだった。コンテナの積み荷は飼料用の藁らしい。頼んでもないのによく燃える、と兜人は内心で毒づいた。
佐倉の異能力は空気ではなく酸素を操る、酸素操能力(オキシキネシス)だったらしい。
兜人が炎を放った瞬間、佐倉は周囲の酸素を圧縮し、そこから大燃焼を起こしてみせた。
そういうことだったのだろう。
兜人は自分の追跡の顛末を他人事のようにそう回想した。
コンテナを取り巻く火はどんどんとその勢いを増していく。
——もう、いいじゃないか。
そんな言葉が頭を過ぎった。
この身の内に秘められた炎は、この世界の炎は、もはやどうあっても自分を焼き尽くしたいらしい。なら、もうそうすればいい。観念して四肢を大の字に投げ出す。開き直ると、もはや皮膚の痛みも息苦しさもどこかに遠のいていった。
目を静かに閉じる。
さよならだ、と誰にともなく兜人は呟いた。
だが。
その声に応えるかのように、遠くで声がする。
「——くん」
誰かが。
「宗谷——くん——」
自分を。
「——兜人くん!」
呼んで、いる——
はっと意識を取り戻した兜人の目に飛び込んできたのは、七つの光球だった。
まるで炎から守るように、兜人を取り囲んでいる。煙に侵されていない外の新鮮な空気を感じたかと思うと、兜人は強い力に引き起こされた。
「兜人くん、兜人くん!」
必死に自分を呼んでいる声には嫌というほど聞き覚えがあった。恵庭ちとせの煤に汚れた顔が兜人を覗き込んでいる。ちとせは光球で兜人を護りながら、兜人の半身を起こし、その懐に自らの体を差し入れて、肩を貸す。炎が作り出す影の中、ちとせの体はいつかの夜のようにきらきらと全体が光輝いていた。
「……っ、う……」
必死の面持ちのちとせに抱えられ、兜人はコンテナの外に出された。
座り込んだ兜人の目の前で、ちとせが光球に何かを命じている。光球たちはバンバンと燃えている藁をはたいて消火活動にあたっているようだった。
降っている雨も手助けし、やがてコンテナの火が消えると、ちとせもまたその場にへたり込んだ。
肩で息をしている彼女の、その小さな背から目が離せない。
兜人はそんなことをしている場合ではないと思いつつ、声をかけずにはいられなかった。
「どうして助けたんですか」
ちとせは大きく息を吐き、そのまま動きを止めた。
「俺はあの日、死ぬはずだったんです。今日、今、死ぬはずだったんです」
ちとせは振り向かない。兜人はたまらず続けた。
「あんたには——いらないんでしょう! だから置いていった。そうじゃないんですか!」
ちとせは左手で右の腕をぎゅっと掴んだ。それからゆっくりと立ち上がり、こちらを振り向いた。
その顔に家族の表情が重なる。父が、母が、重傷を負った二人の兄が。
兜人のせいで深く傷ついたというのに、それでも強く笑ってみせる彼らの姿が。
「ああ、そうだ。あんたらは強いんでしょうよ。でもその強さに置いてかれた弱い人間はどうしたらいいっていうんだ。いらないんだったら……もういらないんだったら、俺は——どこにいればいいんですか」
きつく、きつく——歯噛みする。
「この島の、この世界の——一体、どこにいればいいっていうんですか……!」
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