第17話

 私立たいよう保育園は地下鉄大島線で二駅先、島内で三区と呼ばれる場所にあった。第一高校からはちょうど西の方角にあたる。私立の学校、幼稚園、保育園などが集まる、いわゆる学園地区だ。


 ゆるやかな坂の上にあるという保育園を目指し、兜人とちとせは連れ立って歩いていた。


「保育園かぁ〜、懐かしいなぁ」


「先輩は、保育園だったんですか」


 だんだら坂とでもいうのだろうか、こういうのは。黙々と足を動かすのも暇なので、兜人はちとせに尋ねた。


「うん、両親とも働いていたから。宗谷くんは?」


「自分は幼稚園からでした。母が専業主婦だったので」


「そうなんだぁ。ふー……地味にきついなぁ、坂道」


「そうですか?」


「……宗谷くん、見かけによらず体力あるんだねえ」


「見かけによらずってなんですか。眼鏡ですか」


「いや、その! ……はい、眼鏡ですね」


「体力、ありますよ。空手と柔道やってたんで」


 そうこうしているうちに、坂が終わり、右手からきゃいきゃいと子供がはしゃぎ回る甲高い声が聞こえてきた。


 淡い黄色を基調とした、様々な動物が描かれている塀に囲まれた敷地だった。二階建てのL字型の園舎と、すべり台やジャングルジムといった遊具が置かれている園庭が見える。時刻はちょうど十三時を回ったところだ。昼食を終えたらしき園児たちは、ところ狭しと園庭を駆け回っていた。


「わぁ……」


 ちとせは目を輝かせてその光景を眺めていた。さしもの兜人も楽しそうな幼い子供達を前にすると、心が安らぐような気がした。


「あっ、だれかいる!」


 ジャングルジムのてっぺんに昇っていた男の子の一人が、唐突に兜人とちとせを指さした。何か返すより早く、園児達が一斉に振り向く。


「わー、だれ? おねえちゃんたち、だれ?」


「あそびにきたの?」


「おままごとしよー!」


「ちがうよ、おいかけっこだよ」


「やーだー!」


 門越しではあるものの、何十人もの園児達に一気に詰め寄られると迫力がある。ちとせはどうにか事態を収拾しようと、両手の平を彼らに向ける。


「ま、待って、みんな落ち着いてぇ……あわわわ」


「——何してるんです!」


 そこへ、鶴の一声が飛んできた。園児達は「わぁ〜、えんちょうせんせいだぁ〜!」と叫んで、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。


 騒ぎを聞きつけて園舎から出てきたのは、妙齢の女性だった。細身で背が高く、吊り上がった目は鋭い眼光を放って、兜人とちとせを睨んでいる。一応、うさぎがプリントされたピンク色のエプロンを着てはいるが、おおよそ保育園の先生とは思えない。どちらかというとアニメに出てくる意地悪な家庭教師といった感じだ。


「あなたたちが労基局の方?」


 園長はつかつかとこちらに歩み寄り、挑戦的な口調で言う。まぁ、事情が事情だ。かつての従業員の解雇事由を調査しにきた労基局の執行官が、諸手を挙げて歓迎されるとは兜人でも思わない。


 ちとせも慣れっこなのか、ぺこりと一礼して、携帯端末に身分証を表示させた。


「こちらは労働基準監督局、第五相談窓口、労働基準執行官の恵庭ちとせです」


「同じく、宗谷兜人です」


 兜人も彼女にならい、身分証を提示する。園長は不躾な眼差しで二人の身分証を一瞥した後、ふん、と鼻をならした。


「こちらへどうぞ」


 門を抜けて、園舎に入る。当然だが、園舎の中はなにもかもが子供サイズだ。水飲み場も、靴棚も、扉の取っ手の位置も。パステルカラーの花のペイントが施された壁や、園児達が作ったと思しき不器用だが愛らしい折り紙の動物たちが戯れる窓——それらをきょろきょろと眺めて、ちとせはほくほくと呟く。


「可愛い〜、なにもかも可愛い〜。ねね、あれぶたさんかな?」


「猫じゃないですか、どう見ても」


「ええ? でもお鼻が少し大きいような……」


 園長はそのやりとりに一切取り合わず、職員室のそのまた奥にある、園長室兼応接室と思しき部屋に二人を案内した。黒革のソファにガラス製のローテーブル、なにやら小難しい本が並んでいる書架——なんだか、おとぎの国から一気に現実へと引き戻された気分になった。


 女性の保育士が慌ただしく持ってきたお茶を前に、兜人らはテーブルを挟んで園長と相対した。


「で、お話とはなんです? こちらとしてはお話しすることなど何もないのですが」


 出だしから手強い。兜人がちらりと目配せすると、ちとせは任せてと言わんばかりに一つ頷いた。

「お電話で大体のことはご説明させていただきましたが、改めて。——昨日、以前こちらにお勤めだった倉知薫さんから、労基局に訴えがありました。つまり、不当解雇であるとの……」


「冗談じゃありません」


 園長は小蠅でも払うかのように、手を振った。


「園児のおやつを盗む保育士なんて、言語道断です。あの子が正直に話したなら、あなた方も納得されるでしょう?」


 兜人は思わず頷きたくなる衝動に駆られた。園長の言い分には一点の曇りもない。


 だがちとせは食い下がった。


「確かに、あんまりよくないことだとは思います……。でも食べちゃった分は弁済して、一度は決着がついた話なんですよね? それを半年も経って解雇されたのはどうしてですか?」


「そんなこと、こちらの勝手でしょう。盗みをするような保育士は常々解雇したいと思っていたんです」


 園長の言い分に、ちとせが言い返す。


「失礼ですけど……人員にそんな余裕があるようには見えませんでしたが」


「はぁ?」


「だってさっき園児達がお庭で遊んでる時も、保育士さんは一人も見てませんでしたし。さっきお茶を持ってきてくださった方も随分慌ただしくされてました」


「……な、内情も分からないのに、適当なことを言わないでくださる? 人員は足りてます。新たな人員が確保できたから、倉知さんには代わりに辞めて貰ったまでです」


 園長はつっけんどんに言い放った。ちとせがすっと目を眇める。


「その倉知さんの解雇ですが、法律に照らし合わせるといくつか問題点があります」


「なんですって?」


「まず、占環島労働基準法第二十条に『解雇の予告』が定められています。だよね、宗谷くん?」


 ちとせからのパスを受け、兜人は大きく頷いた。


「はい。『使用者は、労働者を解雇しようとする場合においては、少くとも三十日前にその予告をしなければならない。三十日前に予告をしない使用者は、三十日分以上の平均賃金を支払わなければならない』とあります。懲戒解雇においてもこの条件は適応されます。園長、あなたは一昨日、突然倉知薫さんを解雇されたそうですね。法律で定められている『三十日分以上の平均賃金』を支払っていない限り、これは法律違反になりますが……いかがですか」


 ぐっ、と園長が押し黙る。そこへちとせが畳みかけた。


「そもそも弁償してる時点で、おやつを盗んだ件は示談が成立していますよね。それにその後半年間継続雇用していることも合わせると、この件は園長が懲戒事由に当たらないと判断した、とみなされます。————労基局としては問題があると言わざるを得ません」


 ちとせはそう、はっきりと言い放った。


「そ、そんなこと……」


 園長は見るからに狼狽え、せわしなく視線を左右に彷徨わせた。大分、混乱しているようだった。


 エプロンのうさぎのプリントを握りしめ、園長は大きく息をついた。


 それだけで平静さを取り戻したのか、きっと再びこちらを睨み付ける。


「そちらの言い分は分かりました。私の一存では判断いたしかねます。少し、上と協議させてくださらないかしら?」


「上?」


 兜人はつと眉を上げた。確かにここは私立の保育園だった。彼女はどうやら経営者ではなく、いわゆる『雇われ園長』らしい。


 となると、経営母体の法人があるのだろう。


 そこがどこか尋ねようとした矢先、園長が飾ってある時計を見てわざとらしく声を上げた。


「ああ、もうこんな時間。申し訳ありませんが、次の予定がありまして。一両日中には私からご連絡差し上げますから、お待ちいただけます?」


 急かすようにソファから立ち上がった園長を見て、兜人はちとせと思わず顔を見合わせる。まぁ、経営母体の件は調べればすぐに分かるだろう。ちとせも同じ考えだったらしく、一つ頷いた。


「そうですか、分かりました。お忙しい中、ありがとうございました」


 深々と礼をするちとせに、兜人もならう。


 そこへ、園長室の扉がノックされた。


「園長先生、すみません。お客様です」


 おそらく保育士の一人だろう、くぐもった声が扉の向こうから園長を呼ぶ。


「ええ、どうぞ」


 現れたのは一組の男女だった。女性は第一高校の制服を着ていたが見たことはない。すっきりとしたショートボブに白い肌、背丈はちとせと同じぐらい小柄だ。男の方はスーツ姿で、四、五十代と思しき年齢から考えて『一般人オーディナリィ』だ。島内にはもちろんこうした人間が少数ではあるが存在する。

「まあまあ、遠いところをようこそおいでくださいました」


 兜人達に応対した時とは打って変わって、園長は途端に満面の笑みを作った。しかし招かれた二人は無表情のまま、ソファに座り込む。客人を案内した保育士が申し訳なさそうにしながらも、表情でこちらに『出て行って欲しい』と訴える。労基局の人間として弱い立場の従業員を多少なりとも困らせるわけにはいかない。兜人が素直に出て行こうとした、その時。


「あのっ!」


 ちとせが急に振り返った。その視線は園長と、そして新しい客人である男女を見ている。


「園長先生、最後に一つ。件のおやつのクッキーはこちらにありますか?」


 思わず、え? と兜人が聞き返しそうになった。園長も呆気に取られた様子で答える。


「いえ……。今日は蒸しパンなので」


「そうですか、ありがとうございました」


 兜人に続いてちとせが部屋を出た時点で、早々と扉が閉められる。ちとせは完全に扉が閉まるまで、じっと部屋の様子を窺っていた。園長の作ったような笑いだけが細々と聞こえてきていた。


「先輩、どうしたんですか?」


「あの男の人……どこかで見たような気がして」


 園舎を抜けて庭に出ると、すでに園児達はそれぞれの教室に帰るところだった。大勢の子供たちをたった二人の保育士が引率している。


「園長のあの態度を見る限り、あれが『上』の人たちでしょうか」


「確かに、そうかもしれないねぇ……」


「もしかしたら、経営母体の重役か何かで、ネットで見たことがあるとか」


 ちとせはしばし考えていたが、やがて軽く頭を振ると、兜人に言った。


「うーん、思い出せないや。ごめんね」


「はぁ」


 まぁ、ぽやぽやしているちとせのことだ。記憶力もぽやぽやしていても仕方ないだろう。


 そう気を取り直して、兜人はちとせと共にたいよう保育園を後にした。

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