第35話
痩けた頬に吊り上がった鋭い目つき。長身痩躯の壮年の男——北条はスーツが雨に濡れるのも厭わず、ポケットに手を突っ込んだまま、一つ一つ足音を確かめるようにこちらへ近づいてきた。
「やぁ、誰かと思えば、恵庭教授のお嬢さんに佐倉嬢じゃないか。こんなところで会うなんて奇遇だね?」
長台詞を吐くとところどころが妙に甲高く響き、聞く者の聴覚を逆なでするような喋り方だった。
切れ長の目はまずちとせを捉えた。それから兜人をまるで見えない幽霊が如く素通りし、その鋭い眼光を佐倉に送った。
「特に——そこの、うちの社員。一体、何をしているのかなぁ? 君には侵入者の足止めを命じておいたはずだが?」
佐倉が複雑な表情を浮かべたのは一瞬だけだった。彼女は意志の強そうな眉をきっとつり上げ、真正面から北条を見つめ返した。
「——北条部長。もうやめるべきです、こんなことは」
「なんだと?」
「子供達を解放してくださいと言っているんです」
「世迷い言を」
北条の瞳の奥に憤怒の光がぎらついた。かつての上司に対して言い切った佐倉を加勢するように、ちとせもまた一歩前へ進み出る。
「こちらは労働基準監督局、労働基準執行官・恵庭ちとせです。占環島労働基準法違反としてあなたに法を執行させていただきます」
「ハッ! 私が労基法の何に違反したと言うのかね?」
ちとせの言葉を継ぐべく、兜人は口を開いた。
「占環島労働基準法、第五条には『使用者は、暴行、監禁、脅迫、その他精神又は体の自由を不当に拘束する手段によって、労働者の意思に反して労働を強制してはならない』とあります。あなたは佐倉さんやその部下を『同じ穴の狢だ』と脅迫して、労働を強制した」
「その通り。私たちには佐倉栞さんの訴えに応じて、あなたを逮捕する権利があります」
すると今度は北条の怒りがちとせに向けられる。それは佐倉を睨み付けた何倍もの憎悪に満ち満ちていた。
「ほざけ、恵庭の娘。盗人猛々しいとはこのことだ」
ポケットから出された手は強く握られていた。掌に爪が食い込み、血が滲むほどに。
「盗人……何のことですか?」
「知らないか、そうだな、知らないよな。なら教えてやる。お前の父親は私の研究を盗んだのだ。あれだけ反対していた私の研究を、瀕死の娘を助ける、ただそれだけのために利用しやがった。そして研究データの一切合切を持ち出して、姿を消した!」
北条は天を仰ぎ、吠えた。しかし怒りは収まらないようで、ちとせに向かって言葉を叩きつけるように続ける。
「業界の裏では『SXRI』の原型(オリジナル)は恵庭大介が開発されたとされ、私の功績は闇に葬り去られた。教授の失踪によって恵庭研究室は解散、私は何の実績もない研究助手として、そして行方不明になったいわくつきの教授の助手として、放浪の身となった。『SXRI』の研究を続けようにも施設も費用もなかった私は、アマテラスの一社員に身をやつした。だがそこで知ったのだ。異能力を治す薬を開発しているプロジェクトの存在をな」
蛇のような目が一瞬、佐倉をぎろりと睨む。
「それは奇しくも恵庭教授が研究していたテーマだった。使える、と俺は思った。俺は上にかけあってプロジェクトを乗っ取り、もっと——もっと稼げる仕事にしてやったまでだ!」
興奮していくにつれ、北条の言葉遣いがどんどん乱暴になっていく。それはあたかも大会社の管理職という化けの皮が剥がれていく様に似ていた。
兜人はちとせを振り返ることはしなかった。当時の事実を聞かされても尚、彼女の両足はしっかりと甲板を踏みしめていたからだ。
「たとえ、過去がどうだったとしても。今、あなたのやっていることに変わりはありません。
——そして私がやるべきことも!」
ちとせが力強く宣言すると同時に、ずらりと光球が並ぶ。
瀕死のちとせの希望の光となった、七つの光が。
相手は一般人(オーディナリィ)だ、異能力者(アンダー)にかかれば捕縛することはたやすい。
しかし、北条の笑みは崩れなかった。
「くくく……ふふふ——」
それどころか心底可笑しくてたまらないとばかりに体を折る。その異様にちとせはもちろん、兜人も佐倉も油断なく北条を見据えていた。
「私が部下どもに研究を任せきりにしていたとでも? あれほど焦がれていた研究を?」
背後で佐倉がはっと息を呑んだ。
「まさか——『SXRI』の原型(オリジナル)が再現された……?」
『SXRI』の原型(オリジナル)。
それは一般人(オーディナリィ)を異能力者(アンダー)に変えるという——
「そう。そして私は異能力者(アンダー)になった」
北条が背広を脱ぎ捨て、ワイシャツの袖を捲る。血管が浮き出た握り拳の先に、見えないゆらぎのようなものを纏って。
それは一種異様の異能力(アンダー)だった。
一見すると佐倉が使う酸素能力(オキシキネシス)に似ている。ほとんど何も見えないところも、ただそれだけでは大した意味もなさないところも。だが北条の自信に満ち満ちた表情を見て、兜人の直感が油断ならないと激しく告げていた。
「——ふん!」
北条が拳をこちらに向かって振った。空拳である。しかし、
「うあっ!」
一拍遅れて悲鳴を上げたのは佐倉だった。まるで見えない何かに押されたように吹き飛び、船の柵にしたたか背中を打ち付けて、昏倒してしまう。
「佐倉さん!」
ちとせが叫ぶが応答はない。だが北条がこちらを狙っている以上、兜人もちとせも佐倉に駆け寄ることすらままならない。
「……見えない、質量……?」
思いついたことを呟いた兜人に、北条は晴れやかな笑みで拍手を送った。
「そう、ご明察! 私に目覚めた能力は決して視認できない『質量』なのだよ。これを私は
まるで自分の研究成果を披露するように北条はべらべらと喋った。いや、事実そうなのだろう。長年温めていた卵を孵すように自慢らしいことに違いはないのだから。
「——ならば」
ちとせが光球を七つ、目の前に並べる。光に照らされたその表情にいつもの柔らかな色は微塵もなく、その双眸は相手を厳しく見据えていた。
「その闇、私の光で晴らしてみせます」
「くっ……くくく、かかってこい、恵庭の娘!」
言うや否や、北条は断続的に拳をちとせに向かって振り下ろした。ちとせはその質量の攻撃のほとんどを光球で防ぎ、時には転びそうになりながらも、北条に立ち向かっていく。
ちとせが北条の側面に回る。しかし北条は拳を止め、何故か脱いだ背広を拾い上げた。
その中から黒光りするものがちらりと見えた。
「ちとせ先輩、拳銃です!」
兜人の叫びにすんでのところで反応したちとせは自身の姿を隠すように光球を三つ、縦に並べた。ぱん、ぱん、ぱん、と乾いた破裂音が鳴り響く。
「異能力だけでは心許ないのでね!」
銃弾は光球が完璧に防ぎきった。しかし拳銃まであるとなると、北条の攻略がますます困難になってしまう。
どちらかだけでも無力化できれば……!
兜人はそう歯噛みしながら、対峙するちとせと北条を見守ることしかできない。北条もちとせの存在を知っていたからには、新しく彼女の部下になった兜人のことも調べているのだろう。
異能力を自身で制御できない、どこからも厄介払いされた、半人前以下の異能力者。だから真っ先に兜人を狙わず、佐倉を狙った。逆恨みしているちとせを思う存分嬲ることができるように。
入管局や警察署でお払い箱になったとき以来の悔しさが、歯がゆさが、兜人の胸の内に広がった。エアガンがもう一つでもあれば。そうすれば、ちとせへ加勢ができるのに。
いや、あるではないか。
目の前に、自分の使える武器がもう一つ。
兜人は無事な左手を確認する。さっきの戦いは北条も物陰から見ていたはずだ。
——これなら。
「北条!」
注意をこちらに逸らす。兜人はさっと左手を上げ、人差し指を伸ばした。
「ハッ、できそこないの
襲い来る不可視の攻撃を横に転がって躱す。同時に兜人は立ち上がり、低い体勢から地を蹴った。兜人は左手の指を北条に向けたまま、ちょうど陸上短距離のように甲板を駆け抜ける。北条に一瞬の迷いが生まれた。発火能力(パイロキネシス)がいつ打ち込まれるか分からない不安、そして彼我の距離を一気に縮められたことによる焦りが、北条に隙を作った。
北条が選んだのは拳銃だった。兜人に打ち込むこと三発、しかしそれは二人の間に割り込んだちとせの光球が完全に防ぎきる。
「……結局、お前はその程度なんだ」
光球の影から躍り出た兜人は口の中で小さく呟く。
否定して、葛藤して、妥協して、受容して。
初めて己を信じることが出来る。
「っ、はぁ!」
兜人はそのまま北条の懐に入り込むと、裂帛の気合いと共に顎に向けて掌底を放った。まともにくらえば気絶は免れないが、北条は間一髪で体を反らす。掌底は北条の肩に打ち込まれる。
「うっ……!」
その衝撃に取り落としたのは拳銃だった。兜人はそれを素早く拾い上げると、そのまま駆け抜けるようにして北条と距離を取る。
「ハッ、そいつの弾はもう空だ!」
嘲笑と共に
そっちこそ見ていなかったのかと言いたい。兜人がたどり着いた
「——
銃口から生まれた火球が北条めがけて発射される。それはちょうど二人の中心で異能力同士のぶつかり合いとなった。
「——行って!」
北条を挟んで反対側にいたちとせの叫びに呼応するように、光球が火球と北条を挟み撃ちにする。北条はもう片方の手でも
「く、うううっ……!」
「はああっ……!」
兜人とちとせの叫びが重なる。北条もまた額に青筋を浮かべ、血管という血管を浮かび上がらせ、二つの異能力を防ぎきっている。
「兜人くん!」
はっとして兜人は対面のちとせを見やった。よくみると光球が一つ彼女の頭上に浮いている。
不思議とは思うが————その薄い色素の大きな瞳を見た瞬間、それだけで兜人は彼女が何を言いたいかを察した。
兜人は左手の人差し指を再び前に差し向け、手で銃をかたちどる。もう一つ生まれた火球は今まで見たどれよりも熱を持ち、しかし指は熱くなく、形も力も安定していた。
光球と火球、二つの光が高々と頭上に舞う。
北条がはっとして空を仰ぎ見た。
「しまった、まさか落としてくるつもりか……!」
その声に戦慄が走る。だがちとせは淡々とそれを否定した。
「そんなことしません。私たちは労働基準執行官ですから。粛々と————占環島労基法を執行するのみ!」
兜人とちとせ、そのどちらもが目を閉じ、すうっと大きく息を吸う。
そして、同時に叫んだ。
『——
光が、降り注ぐ。
閉じた視界を真っ赤に染めるような光が辺りを包み込む。
そうして光が消えるのを待つことしばし。
兜人が静かに目を開くと、まともに光を見たのだろう、北条が目を押さえて甲板に転がっていた。
「ぐっ、あああ……! 見えない、何も、目が……!」
兜人はその手が
「北条正次さん」
一丁前に腕組みしたちとせが言う。
「占環島労働基準法違反としてあなたを逮捕します。余罪は——」
遠くからファンファン、とサイレンの音が聞こえてきた。ちとせは護岸の方を見ながら、ほうっと息をつく。
「やっと蓮華ちゃんが警察を動かしてくれたみたいだね」
「ええ、良かったです」
脱いだコートを縄代わりに、北条の身柄を拘束しつつ、兜人も頷く。北条はもう逃げ場がないのだと知りながらも、負け惜しみを口にした。
「私が……私が、これで終わると思うなよ……!」
そこへ、ふええん、と小さな泣き声が聞こえてきた。それが呼び水であったかのように、複数の泣き声が重なり始める。すぐ傍にあったコンテナからだ。兜人と顔を見合わせたちとせが、コンテナの扉を開ける。
がらんどうのコンテナ、その隅にうずくまるようにして小さな人影が三つあった。突然入ってきた光に怯えて、さらにわんわんと泣きじゃくる。兜人は彼らを安心させるように言った。
「鈴ちゃんや薫先生から話を聞いて助けにきたんだ」
友人と保育士の名前が出るや否や、一気に動揺が収まる。「えっ、りんちゃん?」「ほんと?」と口々に言う園児達をちとせが目一杯腕を広げて迎え入れる。
「こちらは労基局、労働基準執行官・恵庭ちとせです。……みんな、よく頑張りましたね」
優しいお姉さんの代表格であるちとせの言葉は大きかった。園児達は皆、わああん、と大声を上げてちとせに駆け寄った。
そのうちの一人である女の子が涙をぽろぽろ流しながら、兜人をちらりと見やる。
「お、おにい、ちゃんも、ありがとおおお」
ずびずびと鼻をすする姿がなんとも言えず可愛らしく、兜人とちとせは顔を見合わせ、どちらからともなく微笑み合った。
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