第2話

 東京都占環島は本州から、南南西・千キロメートルの太平洋上に位置する人工島である。元々は観光資源として開発された島だが、三十年前突如発生した異能力者を封じ込めるための、海に浮かぶ牢獄となっている。面積は約二百キロ平方メートル。伊豆大島のほぼ倍で、島の外周を走っている海岸道路があり、車で一周するのに約二時間程度かかる。


 占環第一高校を出ると、すぐさま島のメインストリートと対面することになる。広い歩道のすぐ傍に、片道二車線の道路が敷かれていて、車がひっきりなしに通行していた。


 季節は秋から冬に差し掛かっているが、降り注ぐ日差しは温かかった。占環島は亜熱帯海洋性気候で、真冬でも気温が十度を下回ることはない。兜人は夏の名残がある陽光をはねつける、占環島内の各企業のビル群を見上げ、その眩しさに目を細めた。


 この中に自分を雇う企業があるだろうか、と考え、すぐさま内心で首を横に振る。民間企業の面接は生徒会長に止められた。曰く「時間の無駄よ」ときた。分かってはいるが、面と向かって言われると腹立たしい。


 だからこそこうして、公共機関の仕事を斡旋してもらっているわけだが。


 ここで立ち止まっていても仕方ない。兜人はようやっとつま先を島の北に向け、歩を進め始めた。すれ違う人々は半袖シャツやノースリーブといったラフな格好だが、兜人は第一高校の夏服に自前の黒いロングコートを着込んでいた。しかも両手には黒革の手袋までしている。怪訝そうに振り返る人もいくらかいたが、何も思春期特有の独特なファッションというわけではない。必要に駆られてこうしているまでなので、兜人は構わずコートのポケットから一枚の紙切れを取り出す。


 芽室自ら書き込んだ労基局までの地図だ。占環島地下鉄環状線で一駅先の、行政機関が集まる区域にあるらしい。警察署もそこだったので、兜人自身は行き慣れている。歩きたい気分でもあったので、地下鉄には乗らず、徒歩で向かった。


 人々の往来とビル群をかき分けるように進むこと、しばし。


 やがて見えてきたのは、馬鹿でかい噴水だ。


 ヨーロッパの神話に出てくるような豪奢な杯から、水が吹き出ている。島の陽光を受けてキラキラと輝く水しぶきを浴びるようにして、噴水を囲むロータリーには大通りを凌ぐ車の往来があった。


 ここは占環島中央広場だ。占環島はこの噴水——『自由と自立の泉』を中心に、放射線状に広がる街になっている。一番近いのはパリの凱旋門広場とその街の構造らしい。パリなんて行ったこともないが、島の新参者には最初にそう説明がなされるし、兜人もそう聞いていた。


 兜人は島の南北に伸びている州浜すはま大通りを抜け、ロータリーの下にある地下道をくぐり、北東へ向かう千島ちしま大通りに入る。


 行政区画的には一区と呼ばれる一等地だ。中央広場にほど近いここには、占環島の行政機能が集結している。


 この中に労基局はあるわけだが——いかんせん、同じような建物が多いので、探しづらい。兜人は大通りを外れ、うろうろと建物の間を縫うように歩き続けた。芽室が書いたメモも大雑把というかなんというか、細かい道を省略しすぎている。迷えば迷うほど隅っこに書いてある落書きに腹が立ってきた。芽室自身をデフォルメしたようなキャラクターが『頑張って』とウインクしている。いらんものを描いている暇があったら、正確な地図を寄越せと言いたい。


「ああ、くそ……」


 歩き疲れて足が棒のようになってくる。立ち止まり、苛々をぶつけるように前髪をかき混ぜていた、その時だった。


「——ああ〜! 待ってくださぁい!」


 音量の割にはのんびりした制止の声だった。思わず振り向いた先には、行政機関の一つと思われる立派な建物があり、その出入口から男女が一人ずつ飛び出してきた。


「書類を返してくださいぃ〜」


「うるせえ、こんなモンは無効だ!」


 先に駆け出したのは男の方だった。二十歳は超えていると思われる男で、白黒の太いストライプ柄のスーツにピンク色のネクタイ——と少し派手目の格好をしている。オールバックにした髪型のせいか、額にびっしりと掻いた汗がなおのこと強調されていた。


 対して、男を追いかけるようにして出てきたのは兜人と同じくらいの年齢の少女であった。亜熱帯の占環島にいながら色白の肌、垂れ目がちの大きな瞳、髪は腰の長さでゆったりと波打っている。その出で立ちは兜人と同じ、第一高校の夏服姿であった。


「無効じゃないです、無効にされちゃ困ります。せっかく私が徹夜で……あ、ああ〜!」


 少女が素っ頓狂な、だがどこか緊張感に欠ける声を上げた。


 さもありなん、二人がその行方を巡り合っていると思われる書類を、やにわに男がくしゃくしゃと丸め、口の中に放り込んだからだ。


「ほんはほんは、ほほほははは、ほほんは!」


「こんなもんは食べちまえばいいんだ!? な、なんてことをぉ!」


 分かるのか、今の言葉。兜人がぽかんとして事の成り行きを見守っていると、もう一人建物から出てくる人影があった。


「ああ、僕の、未払いの給料……」


 こちらもスーツ姿の男だ。ただし地味で安そうなスーツはよれよれ、顔も青白く、痩せ細っていて、どことなくうだつが上がらない風体をしている。


「ははははは!」


 派手なスーツの男は今にも書類を喉奥へ押しやろうとしている。


 兜人はとっさに身構えた。


 なんとなく話は読めた。どちらを止めるべきなのかも。


 だが、手袋の中の掌が熱を帯びると同時に、ぎくりと肩が強張る。


 目に浮かぶのは、警察署の焼け焦げた壁や入管局の溶けた門。


 そして、それから——


「——ん、もー! 怒りましたっ!」


 兜人の思考に割って入ったのは、少女の怒鳴り声だった。


 いや、怒鳴り声というにはやはりいささか迫力に欠けるが、とにもかくにも少女は懐から取り出した携帯端末に身分証を映し出して、男にびしいっと突きつけた。


「こちらは占環島労働基準監督局所属、労働基準執行官・恵庭ちとせです。占環島労働基準法第一条第十項に基づき、法を執行させていただきますっ」


 恵庭ちとせ。そう名乗った少女が叫んだ口上に、兜人は目を見開いた。


 ちとせは太めの眉をきゅうっとつり上げ、両腕を高く伸ばした。次の瞬間、彼女の周りに光る球体が生まれる。一、二、三、四——合計七つの球体は彼女を守るように取り囲んだ。


 書類を飲み込む寸前だった男はその光景を目の当たりにして、思わずげほっと丸まった唾液まみれの紙を地面に吐き出した。


「な、なんだぁ、その妙な異能力アンダーは!?」


 男の疑問も当然であった。兜人もできれば尋ねたい。光る球体を繰り出す異能力など——聞いたことがない。


「妙とは失敬ですね、これは歴とした異能力アンダーですっ。その名も……」


 ちとせが右腕を振りかぶる。


「——星光能力者イルミネーターですっ!」


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