第三章 ただここにいたいだけ

第23話

「もーほんと、なんなんだよぉ。労基とかちょっと、怖ぇんだけどぉー」


 受付で待たされること数分、三基あるエレベーターのうちの一つから出てきた晋平が、何故か抜き足差し足で近づいてくる。その不審者めいた足取りが大理石の床に映り込んでいた。


 高校の教室がゆうに三個は入りそうなほどだだっぴろいエントランスに、ID認証を求められるゲート、そしてその周辺には物々しい警備員が立っている。


 ここは——アマテラス製薬占環島本社、研究棟である。


 昨晩言ったとおり、兜人は今朝登校するなり、アマテラス製薬の研究員である栗山晋平にコンタクトを取った。詳細は話さず『研究棟を見学したい』との理由で。


 確かにここ占環島において、転職を目指す者にとって企業見学はその一環であり、ありふれた光景の一つだ。


 ただし、その見学者が労働基準監督局の執行官二人ともなれば話は別である。


 晋平は兜人の申し出にしつこく「なんで労基が来んだよぉ〜」と訳を問いただした。正式な査察であれば会社の問題だが、理由がどうであれ一社員が執行官を招き入よと言われれば、混乱するのは仕方ないだろう。


 兜人は今なお困り顔の晋平に内心で溜息をつく。制服の上から白衣を羽織っている姿は、なかなかどうして様になっている。いつもの頭悪そうな態度からのギャップがすごい。


「なぁ、なんで〜? 俺、なんか悪いことした?」


 心配ない、ただの見学だ、と何度言い含めてもこの調子である。会話までは聞こえないだろうが、困っている様子の晋平と兜人らを見る警備員の視線が痛い。兜人はちとせと顔を見合わせ、それからぽんと晋平の肩を叩いた。


「知らない方が身のためだ」


「……百倍怖くなったんですけど!」


「だ、大丈夫だよぉ。本当にただの見学。あなたに迷惑はかけないから」


 ちとせが取り持つことでなんとか収まった晋平は、しぶしぶといった様子でゲストパスを渡してきた。


 パスを使ってゲートを抜け、エレベーターを待つ。エレベーターはどれもフル稼働で晋平は「なっかなか来ねぇんだよ、いつも」とぼやいた。


 やっと降りてきたエレベーターに乗り込み、十三階を目指す。そこには食品研究部門があり、件のおやつに関わっている可能性があるとしたらそこだった。


「私ね、アマテラスの『ソイスティック』の大ファンなの。アプリコット味がアールグレイにぴったりのお菓子なのよ」


「あ、そんなら今度、新味発売するっていうから、サンプル持ってこようか?」


「ほんと? わぁい、嬉しい!」


 無邪気に喜ぶちとせに晋平の警戒心も段々和らいでるようだった。エレベーターが十三階に到着すると、三人は一斉に降りた。


 どこまでも続く廊下とドア。その光景はどことなく蓮華のいる占環島異能力研究機構に似ている。研究所というのはどこもこういった感じなのかもしれない。


「じゃ、俺は仕事に戻るけど、あんまり目立たないでくれよな」


「お前もこの階で働いてるのか?」


「え? あぁ、まーね。食品部門じゃねえけど、新しいプロジェクトだからここの余ってた一角を間借りしてんだよ。……って、ほんとくれぐれも大人しくしててよ! カブちゃん!」


「分かった分かった」


 ぞんざいな返事に一抹の不安を隠せないまま、しかし晋平は観念したように踵を返した。頭をがさがさと掻き「つうか、うちのボスはどこに行ったんだよ、あぁもう」などとぼやきながら。


「なんか、忙しそうだね。宗谷くんのお友達」


「友達じゃありません」


「そうなの? 仲よさそうに見えるけど?」


 にこにこと尋ねてくるちとせに、兜人は苦虫噛みつぶしたような表情を返した。どう見られようと晋平と友人になった覚えなどない。転校初日からつきまとわれているだけである。


「そんなことより、急ぎましょう。あんまりうろついていると怪しまれます」


「うん、そうだね」


 二人は廊下をどんどん進んだ。ドアが並んでいた廊下を曲がると、開けた場所に出た。開けていると感じたのはそこがガラス張りで、中の様子がよく見える部屋だったからだ。


 デスクが整然と並んだ広大な部屋で、事務員と思しき人々が情報端末で操作を繰り返している。隅では制服姿の女性社員が大きな段ボール箱を軽々と持ち上げていた。否、よく見るとその段ボールは女性の掌の上で浮いている。念動力だ。


 なんとはなしにそれを見ていると、女性が声を上げた。


「あっ」


 蓋の開いていた段ボールから、何かが一つこぼれ落ちる。それは袋に包まれた焼き菓子——クッキーだった。


「すみませーん!」


 それを見つけた瞬間、動いたのはちとせだった。躊躇うことなくそのフロアに入り込み、隅で作業していた女性に声をかけたのだ。


「ちょ、先輩……!」


 慌てて追いかける兜人をよそに、ちとせはさっと落ちたクッキーを拾い上げた。


「落としましたよ」


「あ、ありがとう、ございます……」


 事務員の女性はあたふたとそれを受け取った。丸い眼鏡にそばかすの残る頬、おさげの髪型と相まって大分幼く見える。が、就労しているということは少なくとも十五歳、高校生以上なのだろう。首から提げた名札には相内、とあった。相内は突然現れたゲストパスを提げた人間を驚き半分、警戒半分で見つめている。


「これは御社の製品ですか?」


 しげしげと段ボールの中をのぞき込みながら、ちとせが言う。一つごとにパッケージされたクッキーの群れが見えた。


「あ、そうですが……」


 客であれば、無下にはできないと思ったのだろう。しどろもどろになりながら、相内が答える。


「どこかに下ろされていらっしゃるんですか?」


「あ……はい。弊社の傘下にある教育施設だけに、ですが。これはそのサンプルです」


 どうやらいきなり大当たりしたようだ。ちとせは未だ相内の手にあった、さきほど落ちた一つをひょいっとつまみ上げた。


「あっ……」


「なるほどなるほど。実は私どもも栄養補助食品を開発するベンチャーを営んでおりまして。なっ、宗谷くん」


「え、あ、はい」


 急に怪しげな社長口調になったちとせに面食らったが、わざとらしい合図を受けて、なんとか調子を合わせる。ちとせはごほん、などと咳払いをし、再びベンチャーの社長を気取り始めた。


「是非、こちらと共同開発させていただけないかと思いまして。いかがでしょう?」


「ええ、と、その……私、ただの事務員でして。そういったお話は——」


「あっ、ちなみにこちら弊社商品のサンプルです」


 と、ちとせが学校指定の鞄から取り出したのは、一昨日蓮華に振る舞った、丸い形のクッキーだった。ラッピングも一緒である。何か知らないが、この人、いつもお菓子を持ち歩いているらしい。


「あの……」


「遠慮なくどうぞ。今、どうぞ。忌憚なきご意見を伺いたい」


「は、はぁ、では」


 もしかしなくても押しが弱いとみえる相内はその場でクッキー——確か、ブールドネージュとか言ったか——をぱくりと一口食べた。


 それを見て、ちとせがにこりと微笑む。


「では、私どもの方もいただきます」


 と言って、クッキーのサンプルの一つをさっと鞄に入れてしまう。あっあっ、と相内が言っているうちにちとせは深く礼をした。


「よろしくご検討ください。では失礼しまぁす!」


 最後の方はいつもののんびり口調に戻ってしまっていたが、とにもかくにも兜人はちとせと共に、逃げるようにその場を後にした。ガラス越しに見た相内はクッキーに口を塞がれたまま、ぽかんと突っ立っていた。

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