第25話

 細く開いた瞼に、薄らぼんやりとした朝日が届いた。兜人は布団の上で身じろぎをし、カーテンの隙間から差し込む光を見る。曇った空はどんよりと重く、気分のいい目覚めにはほど遠い。時折、ぱちぱちと窓硝子を叩く雨粒の音が聞こえた。


 のそのそと半身を起こし、目をこする。何度、瞬きをしても寝ぼけ眼は重たいままで、兜人は諦めて枕元に置いてあった眼鏡をかけた。


 クリアになった視界に、相変わらず殺風景な自室の様子が映る。その例外としてローテーブルを囲むように四つの座布団が置いてあった。ちとせと蓮華、薫を招いて鍋をしたその日の名残だ。確かあれは一昨日のことだったが、最近は色々ありすぎて遙か昔のことのように感じた。


 片付けようか片付けまいか悩み、結局はそのままにしておくことにした。兜人は生来綺麗好きということもないから、日常生活に支障がない範囲では目こぼしする。


 顔を洗って、歯を磨きながら、兜人は昨夜のことを回想した。


 製薬会社アマテラスを辞した兜人とちとせは、その足で占環島異能力研究機構へと出向き、蓮華にサンプルであるクッキーを渡した。一両日中には解析が終わるだろう、という答えだけをもらい、兜人とちとせはそれぞれ帰宅した。


 鏡に映る自分を見ていると、昨夜の帰路を思い出す。地下鉄の窓に映っていたちとせの顔はずっと思案げに固まっていた。


 と、そこに携帯電話の着信音が鳴り響いた。


 何故か反射的にちとせか、と思い、飛びつくように携帯を取る。が、相手はちとせではなかった。


「——滝杖先輩?」


『おう、そうじゃ。うちじゃ。起きておったか、感心感心。ま、うちは貫徹じゃがのう』


 枕元の時計を見ると、朝の六時を回ったところだった。確かにアラームの音も鳴っていなかった。いつも通り、眠りが浅くて、早く目が覚めてしまったらしい、


 いや、それよりも——


「もしかして、クッキーの解析が終わったんですか?」


『うむ。もうすこしちんたらやる予定だったんじゃが、予想以上に気になる代物での』


 兜人はもう一度、時計を見た。これなら学校が始まる前に一度、占環島異能力研究機構へ行くことも可能だろう。労基局の職員としても、まぁ、早朝残業をつければ問題はない。兜人は電話片手に、クローゼットから高校の制服を引っ張り出した。


「今から行きます。恵庭先輩にも連絡してるんですよね?」


『それがちとせとはまだ連絡が取れておらんのじゃ。あやつのことじゃから、まだ眠りこけておるのかもしれん。というか絶対そうじゃ』


 言い切る蓮華の口調とは裏腹に、兜人の胸の内にはざわざわとした予感がわだかまっていた。


 昨日、見せたあの硬い表情。


 そして、何者も寄せ付けようとしない、完璧な笑顔。


 いや、でも——まさか。


『寝ぼすけは待っておれん。ともかくおぬしだけでも来い』


「わかりました」


 通話を切り、急いで着替える。


 そして妙な胸騒ぎを振り切るように、兜人は家を出た。




 早朝であるためか、まだ乗客のまばらな地下鉄に揺られること二十分。生温い海風が歩道を抜け、兜人は占環島異能力研究機構(SURO)へと辿りついた。受付で滝杖蓮華の名を出せば、すでに話が通っていたのだろう、すんなりと中へ入ることができた。


 階段を四階分、そして無機質な長い廊下を進み、蓮華の研究室にたどり着く。一応ノックをすると、扉越しに「おーう」と軽い返事が返ってきた。


 研究室の中は相変わらず雑多以外の何物でもない。積み上がった本で出来た塔と塔の間から、愛らしい子供の顔がすっと覗いた。


「来たな、まぁ座れ」


「どこにですか」


 しっかり釘を刺しつつも、兜人は研究室の中へと足を踏み入れる。蓮華が雑な手つきで本をどかしたその下からひしゃげた丸椅子が出てきた。どうやら本の重みだけで曲がってしまったらしい。その耐久性をおおいに疑問視しつつ、兜人は勧められた席へと座った。


「恵庭先輩と連絡取れましたか?」


 開口一番、兜人はそう蓮華に尋ねた。実はここへ来る途中、兜人も何回かちとせの携帯電話にかけたのだが、一向に応答はなかったのだ。


 蓮華は唇を結び、ふるふると顔を横に振った。


「そうですか……」


 一応、メッセージアプリにも『滝杖先輩の解析が終わったようです。占環島異能力研究機構に向かいます』と残しておいたが、既読の印はまだついていなかった。


 思案顔の兜人の心残りを振り切るように、蓮華が一つ嘆息した。


「まぁ、いい。とりあえずおぬしにだけでも解析結果を見て貰おうかのう」


 言って、蓮華はパソコンを操作した。画面に出てきたのは、何かのグラフだった。文字と言えばほとんどが英語かつ専門用語らしく、何を表しているのかさっぱり分からない。蓮華は兜人の理解が及ばないことなど百も承知、といった様子で話を続けた。


「クッキーから高容量の薬物成分が検出された。詳しいことは省くが、いわゆる向精神薬の類いじゃ」


「向精神薬……」


「本島でも同じ事だが、この占環島でも『麻薬及び向精神薬取締法』において規制されている、中枢神経系——いわば脳に直接作用する劇物じゃ」


「なっ——!」


 そんなものが幼い子供に、しかも秘密裏に投与されていた? 絶句する兜人をよそに、蓮華はパソコンに別のウィンドウを表示させる。英語で書かれた論文のようだった。


「実際、向精神薬の副作用として、異能力者の精神病患者における進行度に影響を及ぼす、というデータが散見されている。どれも絶対数が少なくて確証には至っておらんがの」


「つまりアマテラスはそれを実証しようとしていた……?」


「というより、すでに実証しておるんじゃろう。だからこんな大規模な実験にでた。問題は」


 蓮華は言葉を句切り、一つ、固唾を飲み込んだ。


「子供の異能力の進行度を上げ、一体何を企んでおるのかということじゃ」


 すっと背筋が寒くなる感触をこらえるべく、兜人は眉根を寄せた。


 研究室に重苦しい空気が落ちる。蓮華はまた一つ嘆息すると、やれやれというように呟いた。


「……もう一つ、おぬしに見せておかねばならんものがある。まったくあやつがおらんで良かったのか悪かったのか」


 あやつ、というのは一人しかいない。もちろんちとせのことだ。


 兜人は俯いていた顔を上げ、急くように尋ねた。


「なんのことですか」


「これじゃ」


 蓮華はさらに別のウィンドウをモニターに表示させた。そこにはわけのわからない記号や数字の羅列がびっしりと映し出されている。


「な、なんですか、これ」


「同僚に頼んでな、アマテラスのサーバーに侵入してもらった。その暗号化されたデータよ」


「侵入って……ハッキング!?」


 犯罪ではないか、と言いそうになってやめる。強引な手法でクッキーをちょろまかした自分たちと大差ないかもしれない、と。


「悪意があるのはクラッキングというらしいがな、その同僚曰く。まぁ、そんなことはどうでもいいわい。何かこの薬の手がかりを……と思ったが、その副産物としてある実験記録が手に入った。これじゃ」


 蓮華がなにかしらの操作を行うと、意味のない暗号が解読されていく。


 その中に見知った名前を見つけ、兜人はまたも言葉を失う。



 二〇〇■年四月二日


 SXRI投与治験

 試験者:恵庭大介

 被験者:恵庭ちとせ



「これ以上のことは記載されておらん。恵庭大介というのはおそらくあやつの肉親か親戚じゃろうが……」


 黙りこくる兜人に、蓮華は淡々と告げる。


「SXRIというのはアマテラスの開発している向精神薬の呼称じゃ。少なくとも十数年前には治験が行われている。しかも……よりにもよって、あやつにな」


 蓮華の言葉がほとんど頭に入ってこない。兜人は絞り出すように言った。


「どういう、ことですか」


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