第18話

 保育園から労基局に戻った頃には、すでに日が傾き始めていた。昨日来た時と同じく、第五相談窓口、通称・お茶会に西日が差し込んでいる。相変わらず少女趣味な猫足の椅子に兜人が腰掛けると、ちとせは早速キッチンへと向かった。


「疲れたでしょ? 何にする? ダージリン? アッサム? アールグレイ?」


「いえ、お構いなく」


 多分、紅茶の種類のことなのだろうと思いつつ、先輩に立たせてばかりも悪いので遠慮したが、ちとせはきらきらと目を輝かせて兜人の答えを待っている。


「遠慮することないんだよ、好きでやってるんだから。さぁさぁ、今日は何が飲みたい気分?」


「……ええと、じゃあ、おまかせで」


「おまかせね! うーん、腕が鳴るわ。ちょっと疲れたから、柑橘系のアールグレイがいいかなぁ」


 結局、押し負けた形となった兜人は、やがて運ばれてきた紅茶とお茶菓子——何の因果かクッキーだ——をありがたくいただくこととなった。


「うーん、やっぱりテスレナのアールグレイは香りがいいわぁ……」


 ちとせは紅茶の湯気に鼻をくぐらせながら、うっとりと呟いている。一口飲むと、確かに鼻に抜ける香りに柑橘系の匂いを感じた。クッキーには檸檬の皮が入っていて、紅茶との相性は抜群だ。


 だが兜人にとって重要なのは、そんな午後の茶会のことよりも仕事の話である。


「あの園長、話し合いに応じるでしょうか」


 法律違反という言葉を持ち出されて多少狼狽えていたものの、すぐに鉄の仮面を被り直して、上と協議する、と来たもんだ。あれは典型的な時間稼ぎ、もしくは断り文句ではなかろうか。


「そうだね。それも心配だけど、最悪、執行官権限を使えば使用者と労働者の仲裁の場を設けることはできるわ。ただそれよりも、前から少し気になることがあって」


 クッキーをかじりつつ、ちとせは「んー」と考え込んでいた。が、やがてぽんと手を打ち、残りのクッキーをぽいっと口に放り込んだ。それを紅茶とともにたっぷりのんびり味わってから、


「よし、やっぱり本人に直接確認するのがてっとり早いでしょう」


「本人?」


「うん。ところで宗谷くん、今日の晩、空いてる?」


 まったく話が読めないが、にこにこ顔のちとせに問いただすのも馬鹿馬鹿しくなる。


「はぁ……空いてますが」


「じゃあ、鍋パーティしよう!」


「——はい?」


 さらに訳の分からないことになり、さすがに聞き返す。ちとせは変わらずの上機嫌で続けた。


「ほら、ここのところ朝晩は少し寒くなってきたでしょう? お鍋するにはちょうどいいじゃない」


「お茶会……じゃないんですね」


「ううん、さすがに夕飯がマカロンとかマフィンとかだとお腹空くしね……。それになんかどこかのフランス王妃みたいになっちゃうわ」


「そうですか……」


「あ、そーだ! 蓮華ちゃんも誘っちゃおう。ちょっと電話してくるから待っててね」


 そう言い含めると、ちとせは浮き足立って部屋を出て行った。


 鍋したり、お茶したり——一体、何をやってるんだろう。


 そんな虚しさに囚われつつ、兜人はもう一口紅茶をすすった。





 就業時間を終え、兜人はちとせと共に一区内にあるスーパー・大正屋に向かった。大通りに面した大型ビルの一階がまるまるそのスーパーになっていて、島内の中心部である一区にしてはそこそこの店舗面積がある。濃緑を基調とした看板に筆記体のアルファベットで店名が書いてあるその下の自動ドアをくぐる。店内は落ち着いた雰囲気で、客層もどことなく上品な人達が多い。置いてある品は本島から取り寄せた高級食材で、スーパーにありがちな目立つ安売りポップもない。ここ大正屋は島内で生まれた高級スーパーチェーンなのだ。


「宗谷くんは何か食べたいものある? あっ、先輩のごちそうだから遠慮なく言ってね」


 カゴが入ったカートを押しながら、ちとせが言う。先だって入管局を解雇された後、給金という給金をもらっていなかったので正直助かる。と、同時に、大正屋を使い慣れたちとせの様子から察するに労働基準執行官の給料はそれなりに良いようだ、と期待する。


「特にありません。好き嫌いもありませんし、出されたものを食べますよ」


「わぁ、だからこんなに背も高くなったんだね。いい子いい子」


「ちょ、やめてください」


 無理矢理背伸びして頭を撫でられそうになるのを、すんでのところで避ける。ちとせは相変わらず微笑んで、鍋の材料であろう白ネギに手を伸ばしている。子供扱いされているのではないかと思い、兜人は口を真一文字に結んだ。


「ふふ、ごめんね。私、一人っ子だったから、兄弟に憧れちゃうの。宗谷くん、後輩だから弟がいたらこんな感じかなーって。そういえば、宗谷くんはお兄ちゃんがいるんだっけ?」


 白菜、春菊、豆腐——までは良かったが、ペコロス、ビーツ、バナナにパパイヤ、スターフルーツと、おおよそ鍋の材料とは思えない商品までをもカゴに放り込みながら、ちとせが問う。重たくなってきたであろうカートを見て、兜人はさりげなく手を伸ばした。


「……持ちます」


「あっ、ありがとう」


 生鮮食品のコーナーにさしかかる。島だけあって魚介類が豊富だ。問いかけたものの、ちとせは兜人の答えを待つでもなく、魚の切り身を吟味している。


 その時間に耐えきれなかったのは果たして兜人の方だった。


「兄が二人います。どっちも優秀で、優しい兄でした」


「……過去形のところは、聞いたら良くないところ、なのかな?」


 いつになくシリアスな口調でちとせが言うのに、兜人は小さくかぶりを振った。


「いえ、別に。元気にしてますよ。神奈川で、父親と同じ消防士をしてます。ただ……現場にはもう行かないでしょう」


 困らせてしまっているだろうかとちとせを振り返るが、彼女はあくまでも真剣な顔つきで兜人を見つめていた。薄い、ミルクティー色の瞳が真摯な光を帯びている。兜人はその眼差しに促されるようにして続けた。


「大火傷を負ったんです、俺の——能力が発現した時に」


 無意識のうちにコートの上から腕をさする。とっくに塞がった傷がぴりぴりと引きつっているような気がした。


「暴走する俺の能力をなんとか止めようとして……。無茶ですよね、一般人オーディナリィ異能力アンダーがどうこうできるはずない。でも——」


 でもあの人達は、消防士だった。腕を自らの炎に焼かれ、泣き叫ぶ弟を見て手をこまねいていられるほど、臆病ではなかった。


 彼らが臆病であったなら、その人生の大半を失わずに済んだのに。


発火能力パイロキネシスは外に放出される能力です。結果、自分よりも兄たちの方が火傷の具合が酷かった……。仕事どころか日常生活が送れるようになれるのかどうか、分かりません」


「お兄さんたちはどうしてるの……?」


 遠慮がちにちとせが尋ねてくる。兜人の脳裏には先日送られてきた封書が過ぎった。


「手紙では、元気にしていると。今はリハビリに励んでいるそうです。消防の訓練よりも楽だから、心配するなと——」


 ちとせは黙って、切り身を一パック手にした。彼女から聞かれずとも、その先は言葉が溢れて止まらなかった。


「父も母も兄たちも……誰も、俺を責めないんです。誰も、俺を——」


「そう、なんだね」


 カートの二、三歩先を行っていたちとせはふと肩越しに振り返った。


「きっと、ご家族みんな、宗谷くんのことが大切なのね」


 その優しい口調に兜人はたまらなくなって俯いた。


 そう、きっといいことなのだろう。家族から罵られ、蔑まれるよりは。


 でも、だとしたらどうしてなのだろう。


 このいてもたってもいられない感覚は。歩むべき方向が分からない、この足の向けるべき先を見つけられないようなこのもどかしさは。もうずっとだ。あの日からずっと。この島に来た時も、次々と仕事をクビになっていった時も。


 そしてちとせに見守られている今も、ずっと同じだった。


 そこへ、ちとせの携帯端末が震えた。メッセージが来たらしく、ちとせは画面を見つめ、にっこりと微笑んだ。


「蓮華ちゃん、お仕事終わったって。昨日から徹夜したらしいから、精の付くものを食べさせてあげましょう!」


 ちとせがとことこと先を行く。兜人はほっと安堵の息をつき、その背中を追いかけた。


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