030 黎明のエンゲージメント(2)

 昌真が指定した時間は早朝だった。


 早朝というよりも黎明――まだ新聞配達の自転車も走っていない午前四時に、ジャージを着て河川敷のジョギングコースで待ち合わせということにしたのだ。理由は簡単で、そんなTPOの男女にスキャンダルを疑う者はいないからである。


 夜明け前の薄暗い中に、二人は半月ぶりに顔を合わせた。……話したいことは山ほどあったはずなのに、言葉が出なかった。あやかの方も無言で、おはようの挨拶も交わさないまま二人はしばらく見つめ合った。


 やがて、どちらからともなく歩き始めた二人は、ようやくうっすらと陽が射しはじめた川沿いの道を、とぼとぼという言葉そのままの歩調でゆっくりと歩いた。


「……来てくれてありがと」


 あやかがようやく切り出したのは、ちょうど地平から顔を覗かせた太陽が街を照らし始めた頃だった。


 淡い光の中にすべての風景が幻想的に浮かび上がるこの時間帯をマジックアワーと言うのだという。この時間に写真を撮ると、素人でも魔法のように美しい写真が撮れてしまうからそう呼ばれるのだと。


「ライブ観たよ」


「え?」


「昌真の学園祭のライブ。観た」


「観に来てたのか」


「うん、こっそりね」


 ……あやか本人に聴かれていたのか。さすがに気恥ずかしい思いが昌真の胸に湧き起こり、けれどももうひとつの思いがそれを打ち消した。


 あやかに聴いてもらえたなら、何も言うことはない。


 ただあの歌をあやかが聴いていてくれたのだとしたら、その歌で俺が伝えようとした想いは――


「でも、聴いててくれたならなんで……」


「あたしね! 昌真のこと好きになっちゃった!」


 突然の告白に昌真は驚いて隣を見た。


 生まれたての朝日を受け、いっぱいの笑顔で迎えるあやか――その笑顔を、きらきらと輝きながら大粒の涙がこぼれ落ちてゆく。


「あたしバカだけど、ちゃんと昌真の言いたいことわかったよ。あたしも我慢しなきゃって思った。でも……でも、こんなの無理だよ!」


「……」


「だから……だから昌真お願い! ちゃんとあたしのこと振って! あたしとは付き合えないって昌真の口から聞かせて! そしたら……そしたらもう二度と会いたいなんて言って昌真を困らせないから! そしたらあたしちゃんと昌真のこと諦めるから!」


 あとからあとからこぼれ落ちる涙。……そんなあやかを前に、昌真はこれから自分が彼女に伝えるべきことを頭の中で確認した。


 ……ここで自分が言うべきことは決まっている。あの歌で伝えようとしたことをもう一度はっきりと言葉にするだけ。そう思って昌真は口を開いた――


 だが、できなかった。言うべき言葉……言わなければならない言葉が、昌真の口からは出てこなかった。


 いつの間にか自分の唇が震えていることに昌真は気づいた。その言葉を口にしなければならない。だが痛いほどそれがわかっていても、昌真はどうしてもその言葉を口にできない。口に出したくない――


「……嫌だよ。俺もあやかのこと好きだから」


 自分ではない誰かがそう言うのを、何も考えられなくなった頭で昌真は聞いていた。


「だったらあたしもうロスジェネ辞める! せっかく昌真が助けてくれたのに最低だけどこんな気持ちで続けらんないし! ねえそしたら昌真、あたしと付き合ってくれる!? あたしのこと昌真の彼女にしてくれる!? お願い昌真、あたしを彼女にして! 昌真がいればあたしほかに何もいらないから!」


 泣きじゃくるあやかを見つめながら、昌真は自分があやかにしてしまった残酷な仕打ちに気づいた。


 ……あのライブで自分はホムンクルスの少女としてフラスコを割った。そう思っていた。けれども、それは違っていた。


 フラスコは割れてなどいない。なぜなら少女おれはこれからもずっと博士あやか――アイドルとしての亞鵺伽を見つめ続けることができる。俺があやかに向ける想いは形を変え、俺の中に生き続ける。


 だが、あやかの目に俺の姿は映らない。本当に想いを断ち切らなければならないのはあやかだけだったのだ。その想いを諦めようとして……諦めきれなくて。どうすることもできずにあやかが苦しんできたのだということを、昌真は理解した。


 潔く自分が身を退くことであやかの道を拓いた――そんなフレームに収まった自分に酔って、一人苦しんでいる彼女のことを何も考えていなかった。


 それを今、昌真は理解した……歯噛みするような想いと共に、はっきりと理解した。


「彼女に……してくれないの?」


 涙はあとからあとからあやかの頬をこぼれ落ちる。その涙を見つめながら、昌真は今こそ自分が全身全霊をもって考えなければならない時だと悟った。


 ……ここで彼女にすると言うのは簡単だ。あやかはロスジェネを辞め、二人は恋人として付き合い始める。だが、おそらくその方法ではあやかは救えない。それであやかの恋心は救えるかも知れない。けれども、きっと心のどこか別の部分が死んでしまう。


 それが指し示すのは絶望的なひとつの結論――付き合っても付き合わなくてもあやかを救うことはできないということだ。つまり、この問題は「解なし」ということになる。


 だが、本当にそうか? 本当に正しい解はどこにもないのか? それが正解でなくてもいい、最適解でありさえすれば――


「……」


 そこで昌真は、この問題について自分の中ではすでに解が出ていることに気づいた。


 ……たしかにそれは正解ではない。最適解でもないのかも知れない。だが今なら……あやかと二人でなら、俺たちはきっとその解を最適解に限りなく近いものにまで引き上げることができる――


「あやかは今、すごく胸が苦しいんだよな?」


「……え? うん。どうしてわかるの?」


「俺も同じだから」


「……」


「俺ともう会えないって思うと胸が苦しくてえられない。そんな気持ちのままアイドルを続けることなんかできない。そうだよね?」


「うん。そう」


 昌真がこれからあやかに告げようとしていること。それはある意味で途方もない話だった。だからその話を切り出すために、昌真には大きな覚悟が必要だった。


 ……これまで救いの手を差し伸べてくれた人たちを裏切り、世界を敵にまわすかも知れない危険な賭け。


 ――だが、この方法であればあやかを――亞鵺伽も含めて救うことができる。逆にこの方法でなければこの人を救うことはできない。


 そう思って昌真はあやかを見た。そして、覚悟を決めた。


「わかった。俺、あやかと付き合うよ」


「本当に? ……だったらあたし――」


「けど、あやかはロスジェネを続けるんだ」


「え……」


「俺たちは恋人になる。あやかはロスジェネを続ける。それでいこう」


「でも! ロスジェネは恋愛禁止なんだよ!? 昌真もそれ知ってるでしょ!?」


「大丈夫。何の問題もない」


 そう言って昌真は昂然とあやかを見つめた。だが眼差しはその向こう側――あやかを取り巻いているおどろおどろしい世界に向けられていた。


 恋愛したら夢を諦めなければいけないルール? ふざけるな! 誰かがそんなルールを決めたのだとしたら、それはルールの方が間違っている。


 俺は――俺たちはここで負けるわけにはいかない。そんな馬鹿げたルールを引っ提げて世界が俺たちを潰そうとするなら、俺たちは真っ向からその世界と戦うまでだ!


「あやかは、俺と付き合ってなにがしたい?」


「え……」


「俺とキスしたりセックスしたり、そういうことがしたい?」


「そりゃ……したいよ」


 突然の質問にあやかは恥ずかしそうに俯いた。だが昌真はあくまで冷静に、医者が患者に症状を訊ねるような事務的な口調で質問を重ねた。


「今すぐに?」


「今すぐに……じゃなくていいけど」


「だったら俺と同じだな。いつかあやかとそういうことがしたい。けど、今じゃなくていい」


「……」


「今、俺がほしいのはあやかの本当の気持ち。あやかが俺のことを好きだと思ってくれているその気持ち。それだけでいい。それがもらえたから、俺は他に何もいらない」


「……」


 昌真の言葉に、あやかは魂が抜けたようにぼうっとした顔になった。


 そこで初めて、昌真は表情をゆるめた。あのときあやかが好きと言ってくれたほわんとした表情で、混じりけのないありのままの心をあやかに差し出した。


「俺、いつも一生懸命に頑張るあやかが好きだ。あやかがどこかで頑張ってるってわかればそれだけでいい……そうやってあやかと向き合っていくつもりだった。……けど、ダメだったみたいだ。やっぱり俺もあやかを諦められない。だって、俺あやかのこと好きだから」


「……昌真」


「だから、俺とあやかの気持ちは同じ。気持ち確かめ合ったから、俺はこれで充分。あやかはそうじゃない?」


「……そうかも」


「まだ苦しい?」


「……」


「あやかの胸は、まだ苦しくてえられない?」


「苦しく……ない?」


 あやかは自分の胸に手をあて、そこを見つめながらゆっくりと撫でた。そして弾かれたように頭をあげ、信じられないものを見る目を昌真に向けた。


「苦しくない! あんなに苦しかったのに、あたしの胸、もう苦しくない!」


「うん。そうだろ」


「なんで!? なんで苦しくなくなったの!? 昌真あたしになにしたの!?」


「聞いてただろ。好きって言っただけだよ」


「……」


「俺が本当の気持ちを言えば、あやかが苦しくなくなるってこと、わかってたから」


「……すごい。昌真ってホント頭いい。これならあたし頑張れる! ロスジェネも続けられる! やったぁ!」


 無邪気にはしゃぐあやかを眺めながら、昌真は決意を新たにした。


 いいだろう、やってやる。この笑顔を守るためなら俺は何だってやってやる。


 だが、そのためにはルールが必要だ。誰かが決めたルールの代わりに自分たちの手で作り出す新しいルール。あやかの笑顔を守るために、俺たちはその新しいルールを自らに課さなければならない。


「けど、俺がさっき言ったことは守らないとダメだぞ」


「さっき言ったこと?」


「俺たちは恋人になる。けど、キスとかはなし。手を繋ぐのもなし。こうやって会うのもやめよう」


「えー!? 会うのもダメなの……?」


「ロスジェネ続けたいんだったら、それくらい我慢しないと」


「……そっか。そうだよね」


「メールと電話だけ。これまでと一緒。それなら大丈夫。誰にも文句は言わせない」


「でも……なんかよくわかんなくなっちゃった」


「なにが?」


「キスもしないし、手も繋がない。会わないでメールと電話だけって……そんなんであたしたち、付き合ってるって言うのかな……」


「恋愛の定義か。……うん、問題ない。俺の定義じゃ、ちゃんと恋愛として成立してる」


「どうして?」


「俺があやかのことを好きで、あやかが俺のこと好きだから。それだけじゃ恋愛にならない?」


 昌真の言葉にあやかの顔がぱっと赤くなる。だが、昌真は構わずに続ける。


「ただ世間一般の定義からするとどうなんだろうな。あやかの言う通り、そんなの恋愛じゃないって言うやつの方が多いかも知れない」


「え? でも、だったら――」


「だから、これは俺たちの逆襲なんだよ」


「逆襲?」


「そう。キスしたりセックスしたりすることだけが恋愛だと思ってる薄っぺらな世界に対する俺たちの逆襲」


 昌真の言葉に、あやかは表情を引き締めた。「逆襲」ともう一度口の中で呟いて、さっきまでとは違う挑むような目を昌真に向けてくる。


 ――共犯者の目だ、と昌真は思った。初めて会ったあの日、あやかが提示する高岡への復讐計画に、俺はしぶしぶ相づちを打つだけだった。だが、今は違う。


 今回は俺の主導だ。俺が全力で考えたこの世界への逆襲計画――それを今、あやかに提示した。そしてあやかは俺と共にその悪事に手を染めることに賛同しようとしている。


 それならば、もう何も怖いものなどない。


「世界にぶつけてやろう、俺たちのやり方を。俺があやかのことを好きで、あやかも俺のこと好きで、それでもダメになっちゃったら俺たちの負け」


「うん」


「けどそれで俺たちがずっと二人でいられたなら、俺たちにとってそれは立派な恋愛だったってことになる。そうだろ?」


「うん、そうだね!」


「俺、あやかのこと自分と同じだと思ってる」


「……」


「俺があやかで、あやかが俺。だからあやかがどこにいても、会わなくたって大丈夫。だって俺たち、いつも一緒だから」


「……それってさ、逆にすごいえっちくない?」


「ああ……まあ、そうかもな」


 いたずらっぽく訊ねてくるあやかに不覚にもドキッとしながら、やりこめられたというように昌真は苦笑した。そんな昌真を見てあやかはクスクスと笑い、それから背筋を真っ直ぐに伸ばして昌真を見た。


 ――吹っ切れた顔だった。これでいい、と昌真は思った。


 そこであやかはすっと歩くのを早め、昌真の前に回り込んでくるっと向き直った。


「それならさ、いつか昌真にあたしの大事な処女あげるね!」


 そう言ってあやかは少し恥ずかしそうに笑った。


 ……まだ涙の残る目でその台詞は反則だろ。昌真はそう思い、血に溶けて全身の隅々まで運ばれた何かが内側から身体のそこかしこをくすぐるような感覚を覚えながら、ふと自分がここで口にすべき台詞――いや、口にしなければならない台詞を思ってギクリとした。


「……俺も言わないといけないの?」


「もっちろん!」


「……だったらそんときは、俺の大事な童貞と交換だな」


「うん!」


 そんなやりとりのあと、二人は笑顔で手を振り合った。


 もと来た道をお互い逆の方向に歩き始めて――そこで昌真は表情を変えた。


 真剣な表情だった。『薄っぺらな世界に対する俺たちの逆襲』自分が口に出したその言葉が、ぐるぐると昌真の頭をまわり続けていた。


 昌真があやかに呑ませたそのミッションは、言うまでもなくロストジェネレーションという組織のルールから逸脱する行為だった。誰の目にも明らかな裏切り行為だった。


 昌真はそれをあやかに告げなかった。告げればあやかは戦えなくなる、それがわかったから。


 ――昌真は改めて自分に言い聞かせる。俺たちは世界を相手に喧嘩を売った。けれどもその世界で戦っていくのはあいつだ。だからせめて罪の意識は俺が背負う。


 今回ばかりは負けられない。俺は――俺たちはたとえ何があっても絶対に負けることはできない。


「……見てろよ」


 呟いて、昌真は走り出した。


 太陽はもうすっかり顔を出し、堤防沿いの小道をあかあかと照らしていた。


 ――生まれて初めて、俺に彼女ができた。だがどうやら彼女ができるということは、ただ嬉しかったり楽しかったりするだけではないようだ。


 激しい闘争心が昌真の中に渦巻いていた。あいつの笑顔を守るためなら、俺は何でもする。どんな敵とでも戦う。そして絶対に勝ってみせる!


 大声で叫びたい気分だった。だがそうする代わりに昌真は走った。


 まだ他に誰も走っていないジョギングロードを、汗だくになりながら昌真は全力で駆け抜けた。

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