011 決行のエントラップメント(3)

「なんや、もう帰るん?」


「ああ」


「ほんで今日はまた高岡涼馬の格好してなにしてはんの」


 読んでいた参考書を棚に戻して立ち去ろうとするところへレナの声がかかった。……つけぼくろは反対側だが、さすがにレナの目はごまかせなかった。だが変装していると見抜かれたことに、昌真はなんとなくうれしさのようなものを感じた。


「レナが騙されてくれるんじゃないかと思って。『あ、高岡涼馬はん。なにしとるんどすか?』みたいに」


「アホちゃうか。うちそんな喋り方しいひんわ。だいたいうちがショーマのこと誰かと見間違えるわけあらへんやん」


「まあ、ちょっとした悪巧みっていうか、余興みたいなものかな」


「ふうん……まあええけど。ほなさいなら」


「ああ。またな」


 作戦は失敗に終わった。だが長年苦手だった人と分かり合えたという思いがけない成果が昌真の足取りを軽くした。バンドを解散して関わりがなくなってから分かり合えるというのも皮肉な話だが、ずっとあのままより何倍もいい。


 ……ただまあ、あやかには悪いことをしてしまった。単に今日のミッションが不発に終わっただけではない。朝に連絡を入れたとはいえドタキャンしたことに変わりはないのだから、次に佐倉を誘い出すハードルはぐっと高くなったと言わざるを得ない。


 そう、本当はあやかの言う通り今日キメなければいけなかったのだ。だが今更そんなことを言っても仕方がない。とりあえずあやかに謝って、今後のことはまたゼロベースで検討すべきだろう。さて、そうなるとあやかに何と言って謝るかだが……。


 ――昌真が声をかけられたのは、そんなことを考えながら一階でエレベーターを降り、ビルの出口に向かおうとするときのことだった。


「高岡涼馬……クン?」


 その言葉で昌真は我に返った。そしてその直後、深い後悔に襲われた。……そうだ、もう高岡のフリをしなくてもよかったのだ。ほくろは別にしてもニット帽を被り続ける必要はなかった。


 せっかくいい気分でいたところを現実に引き戻された気がして実に面白くない。いっそこの女の前でニット帽を取ってやろうか。そう思って女を見た。そこで、昌真は固まった。


「……」


 中学生だろうか、と思ってしまうほど小柄な女だった。だが彼女が少女ではなく、と呼ばれるべき存在であることは一目でわかった。頭には大ぶりのキャスケットを被り、顔には銀縁の丸眼鏡にマスク。パンツルックの服装は黒系で統一されたシックなコーデで――けれども何だろう、甘い香水の残り香のようなふんわりした色気がその女の周りに漂っている気がして、昌真は目が離せなかった。


 そんな昌真の前で、女はおもむろに眼鏡とマスクを取って見せた。


「え、佐倉マキ!?」


「うん、そう」


 まったくの素で驚きの声を上げる昌真に、佐倉マキはぱっと花が咲いたような笑みを浮かべた。うっわ可愛い――と思わず口に出しそうになったほどの、まさにトップアイドルの面目躍如たる笑顔だった。その笑顔に持っていかれそうになりながらも、昌真はどうにか気を取り直して佐倉マキに向き直った。


「はじめまして……で良かったっけ?」


「あ、ひどいなあ。年末の音楽祭で会ったよ?」


「ゴメン、そうだっけ。初めて会う人ばっかだからわかんなくて」


「ふうん、涼馬クンの中じゃ私はその程度なのか。つれないなあ、同い年の仲間なのに」


「え? 佐倉さんも二十歳?」


「マキでいいよ」


「じゃあ、マキちゃんも二十歳?」


「うん、こんな小さいけど二十歳」


 そう言われて昌真は改めて佐倉を見た。たしかに小さいことは小さい。だが一方で、その容姿は幼いという言葉からはほど遠い。いわゆる幼児体型とは真逆の長い手脚と均整のとれたプロポーションが、その小さな身体にどこか崩れた感じのするアンバランスな魅力を与えている。


 ……ただ、なんだろう。それだけではない気がする。そんな簡単な言葉ではこの女が醸し出しているものはとても言い表せない。


 純粋に身体つきのエロさで言えばさっきまで話し込んでいたレナに軍配が上がる。美人かそうでないかということならくだんのロスジェネ始まって以来の美少女の方が上だ。だが、そんなわかりやすいところではなしに、佐倉には何かがある。誘蛾灯に引き寄せられる蛾のようにファンの男を虜にする何かが……。


 そこまで考えて、昌真は我に返った。何をやっているんだ俺は……会ったばかりの女性ひとを無言で凝視するなんて失礼にもほどがある。だがそんな昌真の葛藤など気にもとめない様子で、佐倉はマスクを外したまま、どこかとぼけた感じのする丸眼鏡をかけ直した。


「涼馬クンてさ、顔隠さないんだね」


「え? ……ああ、好きじゃないんだよ、隠すの」


「すごく声かけられない?」


「慣れてるから」


 そう言って昌真は自嘲気味に笑った。実際、昌真も高岡に間違われて声をかけられることが多々あるので、言葉には実感がこもる。


 ……それにしても、そうか。考えてみれば芸能人がこんな場所で素顔を晒すことなど普通はないのだ。だとすればこの作戦における基本スタンス、自分からは佐倉に声をかけず待ちに徹するという方針はあながち間違いではなかったと言える。


 眼鏡とマスクで完全防備の彼女に「あれ、佐倉マキ?」も何もない。顔隠すのが嫌いだからといういかにも高岡が口にしそうな理由をひっさげ、自分が素顔を晒して臨む――それで正解だったのだ。


「そうだ。ねえ涼馬クン、これからヒマ?」


「え? ……ああ、今日はオフだけど」


「だったらお茶しない? 友達と会う予定だったんだけど、なんか来られなくなっちゃったみたいで予定空いちゃったんだよね」


 ――来た。そう思い、心臓がかつてない勢いで全身に血を送り始めるのを感じた。紛れもなくこれは『ケースD:喫茶店への同伴に成功し、盛り上がった挙げ句バレる』に直結する流れだ。


「もちろんいいよ。俺もマキちゃんともっと話したいし」


 だがなぜだろう、昌真の口はごく自然にそんな台詞を返していた。


「やった! じゃあ行こ!」


「うん――」


 動悸がおさまったわけではない。……と言うか、俗な言い方だがぶっちゃけドキドキが止まらない。俺は舐めていたのかも知れない、本物のアイドルというものを……などと、間接的なあやかへのディスを脳内に展開しながら、このままでは喫茶店で二人になったとき自分がどうなってしまうのかと昌真は気が気ではなかった。


 ――だが喫茶店に入ってすぐ、そんな昌真の心配はいい意味で裏切られることになる。


◇ ◇ ◇


「――え? あそこでいきなり出てくる『天井板の涙模様』ってそんな意味だったの?」


「そう。『天井のシミ数えてるうちに終わっちまうよ』っていう使い古された言い回しの心を汲んだ一節なんだな、これが」


「何それ。ほとんど下ネタじゃない。あーあ、幻滅。好きな曲だったのにな」


 店に入りテーブルにつくや店員が注文をとりに来るのを待たずに始まった高岡涼馬の曲にまつわる音楽談義は、開始後三十分が経とうとする今も一向に収まる気配を見せず、むしろ時を追うごとにヒートアップしている。


 きっかけとなったのは高岡の最新曲に関する佐倉の小さな質問で、それに昌真が明快な答えを返したことでこの流れが生まれた。もとより高岡の曲には一家言ある昌真である。それについて話している限りボロを出さずに済むという打算から流れに乗ったわけだが、話し始めてすぐにそんなことはどうでもよくなった。


 ……楽しいのである。高岡の音楽について佐倉と話すのが楽しくてしょうがないのである。


 テーブルの向かいに座ったときからにこにこと楽しそうな笑みを絶やさず、ときに感心に目を見開き、ときに大口をあけて笑う佐倉との会話の中に昌真は時を忘れ、当初の目的さえも忘れた。


 声をかけられたときからずっと気になり続けている佐倉の色香が昌真をそうさせた、というのもひとつにはあるのだろう。だが、それだけではない。それ以上に昌真を夢中にさせているのは、高岡の音楽に関する佐倉のだった。


「幻滅? それはいかにも短絡的な思考というものじゃないかね、佐倉君」


「でも下ネタでしょ? 感傷的でいい曲なのに」


感傷ペーソスを基調とするところへアクセントでエロスが入るから感傷が活きる。ファッションで言うところの差し色と考えてほしいね」


「あ、なるほど。……そっか。それがないとあの曲、ただ感傷的なだけの曲になっちゃうのか。言われてみればそうかも」


「だろ?」


 どうせ高岡の気を惹くためによく知りもしない曲の話題を持ち出したのだろう――そんな昌真の勘ぐりは話し始めて一分もしないうちに吹き飛んだ。


 そこで佐倉が口にしたのは、高岡がつい一ヶ月前にリリースしたばかりの最新曲のモチーフって何? という話題だったのである。一見、ありきたりな質問に思えるかも知れない。だがこの質問に昌真は息を呑んだ。


 高岡の曲にはモチーフがあるものも少なくないが、もちろんそうでない曲もある。最新曲に何らかのモチーフがあるということは昌真が知る限りどの音楽誌にも書かれていないし、表だっては誰も口にしていない。だが、昌真にはその曲がある有名な絵本をモチーフとするものだという確信があった。そこへ佐倉は、最新曲のモチーフって何? と切り込んできたのである。


 それはとりもなおさず、佐倉自身もその曲にモチーフが存在すると確信していたということだ。マキちゃんは何がモチーフだと思う? えー、教えてくれないの? そんな短いやりとりのあとに佐倉の口から告げられたのは件の絵本の名前だった。それで昌真は一気に佐倉マキとの会話にのめり込むことになったのである。


「秘すれば花なり、とも言うね。世阿弥の言葉だけど、俺はこの言葉はエロスにおいて最たる意味を持つものだと考えているんだ」


「そっか。なんかそんな気がしてきた。あとこれで謎がとけたかな」


「謎ってなによ?」


「ずっと思ってたんだ。あの曲聴くといつもお腹の奥がアツくなるのどうしてなんだろうって」


「……ノッてきたなロリビッチ」


 それから今現在に至るまで、二人は高岡の音楽についてのはなししかしていない。しかもそっと表面をなぞるようなではなく、ときとして口論になりかけるほどの熱い議論がそこにはあった。


 それで昌真の緊張は消えた。代わりに昌真の意識を埋め尽くしたのは、純度百パーセント混じりっけなしのだった。佐倉と話し始めるまで気づきもしなかったが、昌真はこうして誰かと高岡の曲について真剣な音楽論を交わすことに飢えていたのである。


 遠慮のない議論は二人の間にフランクな会話をもたらし、ことに佐倉の側からはロリビッチの名に恥じない大人向けのジョークまで飛び出すようになった。芸能人御用達の看板に偽りはなかったらしく、店の中にはそんな二人を見てスマホのレンズを向ける者はおらず、ひそひそと囁く声さえどこからもあがらない。


 けれども仮に誰かがゴシップ的な興味をもって昌真たちを観察していたとしても、いわゆるスキャンダルという形では記事にできないと判断したことだろう。傍目から見れば、それは完全に気心の知れた友達同士のノリだったからである。


 佐倉から矢継ぎ早に浴びせかけられる質問に対し、当然のことながら昌真は自分の考えを高岡涼馬の見解――つまりは曲を書いた本人による正しい見方として説明した。


 そのことについて昌真はなんら良心の呵責めいたものを感じなかったが、それは曲の正しい解釈というものは必ずしもその曲を書いた本人の意図とは一致しないのだという哲学による。


 どこぞの小説家が自分の作品を題材にした入試問題を解いて全然解けなかった、これは入試というものが根本的に間違っている証拠だなどとのたまっていたそうだが、これはナンセンスと言わざるを得ない。創作者の意図がどうあれ、百人いれば百通りの解釈がある。それはもう間違いない。そしてその百通りの解釈の平均値というべきものが『正しい解釈』なのであり、現代文学の問題でいえばそれこそが正解ということになる。


 そして昌真はその平均値としての解釈を導き出す自分のロジックに絶対の自信を持っていた。だから高岡がどう考えているか確認したわけではもちろんないが、佐倉のどんな質問にも動ずることなく、あたかもそれが高岡自身の見解であるように自信満々に答えることができたのである。


 それにしても……と、昌真は目の前に座る今日会ったばかりの女を改めて興味深く見つめた。


 会話の題材は高岡の音楽から一歩も動かなかったが、議論の内容は歌詞の解釈、旋律の方向性、楽器の使い方からPVに出演しているダンサーの振り付けに至るまで多岐にわたった。そのすべてについて、高岡フリークを自認する昌真と比肩するほどの理解と情報量をこのアイドルは持ち合わせているのである。


 その事実が、昌真にはうまく信じられなかった。少なくともロリビッチだの何だのと巷で噂されているイメージとはだいぶ違う。熱狂的な高岡ファンであることは間違いないが、そんな次元に留まるものでないことは明らかだ。おそらくこの人は昌真と同じように、ほとんど学問のノリで高岡の曲に向き合っている。そうでなければ昌真との間でこんな特殊能力者同士の空中戦じみた会話が繰り広げられるはずがない。


 まるで高岡の音楽を隅々まで見極めようとするように、佐倉の質問は普通の人なら気にも留めないようなマニアックなところにまで及んだ。


 たとえばタイトル。つまり曲名の意味について――

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