010 決行のエントラップメント(2)

 バンドメンバーであったにもかかわらず、正直、昌真はこの女子が苦手である。いつもなら踵を返すところだが、今回は事情が異なる。さらに運が悪いことに、こちらを一瞥したレナと目が合ってしまった。


 あの最後のミーティングから一ヶ月余り、レナとは一言も口を聞いていない。あのとき逃げるように喫茶店を出てしまったこともある、ここで逃げるのは良くない。そう自分に言い聞かせて昌真は一歩を踏み出し、少し間をあけてレナの隣に並ぶと、目についた世界史の参考書を手に取り、適当に広げたところから読み始めた。


「――ここで会うん初めてやんなあ」


 しばらくしてレナから声がかかった。ちらりと隣に目を遣る――レナはこちらを見ず、本に目を落としている。何と答えたらいいかわからず黙っていると、反応を促すようにまた隣から声がかかった。


「ここあんまいひんの? 一番揃っとるとこやのに」


 またしても昌真は答えられない。よく来る方だと答えるのは簡単だが、そうなるとなぜこれまで鉢合わせしなかったのか、という話になる。実際は昌真の方で回れ右をしていたからなのだが、さすがにそれを口にするのは憚られる。


 だがそんな昌真の考えなどお見通しといったように、レナは本に目を落としたまま何でもないことのように言った。


「ひょっとして、うちのこと避けとったん?」


 胸にグサリとくる一言だった。だがこの質問には答えなければならない。昌真は内心に溜息をつきながら、頭の中に答えを探した。


「……避けてたのかもな」


「なんで避けとったん?」


「直接話してくれないし、どんな風に接したらいいかわからなくて」


「そか……そらそやな。かんにんな」


「別に責めてない」


「せやけど、ほんならうちもおんなじやって。ショーマとの距離どないしたらいいかわかれへんかってん」


「え?」


 昌真は思わず隣を見た。だがレナは昌真に目を向けることなく、参考書のページをめくりながら淡々と続けた。


「ショーマは西中のスーパースターやったからな。学年で一番勉強できはって、ほんでギターなんかもやってはって。うちも年頃の娘やし、そないええ男に一緒にバンドやれ言われてどないしよ思ってまって」


「……いきなり褒め殺しとか何なの」


「褒め殺しちゃうて。ほんまにどないしよ思って、ショーマに面と向かって絡めなくなってん」


「……そっか。まあいいよ、過ぎたことだし」


 言いながら昌真は、今さらながら自分がレナと普通に話していることに気づいた。面と向かってではなく、お互い本に目を落としながら独り言を言い合うようなぎこちない形で、ではあるが。


 このくらいならオーケーという適度な距離感が掴めない――どうやらお互い似たようなことを考えていたようだ。けれどもたった今、それについての答えは出た。


 書店の本棚に並んで目も合わさずぽつりぽつりと言葉を交わすほどの距離――それが現時点における二人の適度な距離と考えていいのだろう。


「なあ、ショーマ」


「ん?」


「英語でなんかお薦めの参考書ない?」


「……」


「英語伸び悩んでんねん。ショーマの使つことるやつでええのあったら教えてくれへん?」


「……嫌だよ。何で俺がそんな敵に塩送るような真似」


 思わず強い言葉が口をついて出た。


 実のところ、昌真がレナとのぎくしゃくした関係を問題視しながらも解決のために踏み出せなかった理由はもうひとつある。それは昌真とレナが名門薫ヶ丘高校第二学年における成績トップを争うライバル同士だということだ。


 事実、前回の実力テストで昌真とレナはワンツーだった。僅差で昌真が上回ったが、首の皮一枚の勝利で、危機感を募らせていたのである。


 レベルが高い学校に通っているというくくりで自分を測ってほしくないだの、勉強しているのはいい大学に行くためではないだのと御託を並べながら、一皮剥けば昌真はそんな感じなのである。


 だいたいにおいて進学校でトップを張る連中などというものの大半は重度の負けず嫌いだが、昌真もその例にもれない。


 特にゆえあってこの女、レナにだけは負けたくないのだ。


 英語では昌真に分がある。だが数学ではたびたび遅れをとっている。この上レナに英語を強化されでもしたら次のテストでは自分の牙城を脅かされかねない。……そんな思いから口をついて出た一言だった。だが口に出してすぐ、強く言い過ぎたという思いが脳裏をよぎった。


 隣に目を遣った。だがレナは気を悪くした様子もなく、くつくつと小さく笑って言った。


「なんや嬉しいわあ。まだうちのことライバル思っててくれはったんやね」


「……」


 その言葉通り、昌真とレナは中学の頃からライバル同士だった。


 レナが転校してきた当時、昌真は年相応に深刻な中二病を発症していた。周知の通り中二病にも様々な型があるわけだが、昌真が患っていたのは表向き勉強なんかどうでもいいギターが命などとスカした風を装いながら内心では自分が一番でなければ気が済まないという自意識全開のいわゆる『優等生こじらせ型』であり、ぶっちゃけ未だに完治していないのだが病状はやはり中二の頃の方がずっと重かった。


 忘れもしない中二の三学期の期末テスト。そこで昌真は入学以来守り通してきた学年トップの座をレナに奪われた。


 昌真が勉強がらみで涙を流したのは後にも先にもこのときだけである。


 この敗北があってから昌真は人知れず勉強時間を倍に増やし、卒業まで一度も首位をあけ渡さなかった。だがレナに対するライバル意識は中学を卒業し、高校に入学してからもずっと昌真の中で維持継続されているのである。


「バンドなくなってもうて新しい居場所探しとったんやけど、ようやっと見つけたきいするわ」


「……」


「なんや代わり映えせんようやけど、ショーマのライバルいうんがうちの居場所でええわ」


 こちらを見ず、参考書のページに目を落としたままどこか楽しげにレナは言った。だがその言葉に昌真ははっと打たれたようになり、思わずレナから目を逸らした。


「……バンドのことは悪かったな。俺ら二人で決めちまって」


「ほんまやで、うちかてバンドの一員やったのに。あんなん話し合いでもなんでもないわ。一方的な通告やんか」


「だからごめん。……つか、レナって結構ずけずけ言うタイプだったんだな」


「ショーマには本音ぶちまけてもうたからな。もう怖いもんなんかあらへん」


 本音をぶちまける? ああ、あのときのことか……と、バンドを解散した日のミーティングを思って、昌真は少ししんみりした。


『うちはずっとショーマの音が好きやった』


 そんな風に言ってくれたレナの言葉を遮り、逃げるように店をあとにした。……あれは良くなかった。たとえいたたまれなくなってもあんな態度をとるべきではなかった。


 そう思い、もう一度ちゃんと謝ろうと口を開きかけた。だがそれよりもレナからの質問の方が早かった。


「ショーマは、大学どこ行くん?」


「……何でそんなこと聞くんだよ」


「ライバルとしては把握しておきたいやん」


「決めてないけど、まあ一番難しいとこ行くんじゃないの?」


「そんな無感動に東大行きたい言う人はじめてやわ」


「行きたいわけじゃない。行くんじゃないの、って言っただけだ」


「どこが違うんかうちにはわかれへんな」


「実際、まだ何も考えてないよ。一応、文系選択したけど、学部どこ進むかも決めてないし」


「そんなん最後でええやろ。どっちもできひんかったら一番難しいとこ入られへんわけやし」


「……そうだな」


 その通りだった。レナの言う「一番難しいところ」では、文系学部の二次試験に数学があり、理系学部の二次試験に国語がある。だから文理ともに満遍なくできないと入れないのだ。


 その点、昌真はどちらもできる。だがどこぞのラブホテルで誰かに大見得を切ってみせたように、昌真は東大に行くために勉強してきたわけではない。「行ける」と「行きたい」とは本質的にその意味が異なる。昌真はただ、自分に手の届かない大学があるのが嫌なのであり、仮にその大学を受験したとして不合格となるのが許せないだけなのだ。


「東大かあ。うち入れるんかな」


「レナも東大志望なの?」


「ちゃう。せやけどショーマが行くいうんなら考えよ思って。ほしたらまた大学で一緒にバンド組めるやんか」


「……」


「コータローは別んとこ行くんやろけども、ベース探してまたバンド組んだらええやん。ほしたらうちまたキーボードやらせてもらうわ」


「……悪いけど、大学行っても俺はもうギターやらないと思う」


 ――音楽をやめる。あの日あやかに口を滑らせたのを数えなければ、それを誰かに話すのはこれが初めてである。自分の中ではもう決定事項となっていることをただ口にしただけ――そのはずだった。


 だがその言葉を口にしたとき、昌真の声は震えた。それこそ女子に告白する男子の声が緊張のあまりそうなるように震えたのである。……なんだよ、クソ。心の中でそんな悪態をつく昌真の耳に、少し間を置いてレナの声が届いた。


「……ショーマがやらへんのやったらうちかてバンドなんかしいひんわ」


「え?」


 自分と同じようにレナの声が震えていることに気づいて、昌真は反射的に隣を見た。


 こちらを見ていたレナの視線とぶつかり、彼女の方で目を逸らす。だが昌真にはなぜレナの声が震えているのか――と言うよりなぜそんなことを口にしたのかわからなかった。


 ……だが、少し考えてすぐに思い当たった。バンドが居場所だったと、あのときレナは言っていた。ただそれはあくまで俺とコータローがいるバンドが彼女の居場所だったということであり、それ以上でもそれ以下でもない。


 コータローも俺もいないバンドに自分の居場所などない――レナがそう言っているのだとわかって、胸がずきりと痛んだ。くだらない俺のこだわりが彼女の居場所を奪ってしまった。……その事実がかつてない重さをもって昌真に迫った。


「……いらんこと言うてもた。忘れてや」


 言葉が出ないでいる昌真をどう思ったのか、溜息まじりにレナはそう言った。『なんだよ、クソ』と、自分が心の中でついたばかりの悪態をその声の中に聞いた気がして、沈みかけていた気持ちが少し上向いた。


 昌真は思い直して本棚から一冊の参考書を手に取り、無言でそれをレナに差し出した。


「……なんやの、これ」


「使ってる?」


「使ってへん」


「長文読解問題の中で文法やイディオムの確認ができるマイナーだけど良い問題集。最近こればっかやってる」


「……ライバルにこんなん教えてええの?」


「ハンデにちょうどいいだろ」


「相変わらずいけずやね、ショーマは」


 ふっと息を吐いてそう言うと、レナは本を受け取った。いけず、というのはたしか意地悪とかそういった意味だったと思うが、さっきの自分の発言のどこがいけずだったのかわからない。


 ただ、レナの一言で俺の気持ちが上向いたように、レナの方も幾分か持ち直したようだ。お気に入りの参考書をライバルに教えただけのことはあった。


 ……そこに至って、昌真は急に自分たちのしていた会話が恥ずかしくなった。東大だの何だのと、まだ受けてもいない大学のことを俺たちはなにを大威張りで話しているのだろう。


「ま、さっきのはとらたぬだったな」


「……とらたぬ?」


「捕らぬ狸の皮算用」


「……なんやねん、そのけったいな略語」


「バンドやるやらないは、とりあえず一緒にその一番難しいとこ入ってから考えようか」


 レナの方でも自分たちが調子に乗っていたことに気づいたのだろう。昌真の言葉にレナは大きく目を見開き、それから慌てた様子で受け取ったばかりの参考書を開き、そこに目を落とした。


「……東大やしなあ。軽いノリでよっしゃわかった、とかよう言わんわ」


 しばらくの沈黙があって、参考書を眺めたまままだどこか居心地が悪そうな感じでレナは言った。それからちらりと昌真を見て、挑発するように口元に笑みを浮かべた。


「せやけど、ま、うちもそこ目指してみよかな。ショーマが一緒に行きたいいうことやったら断れへん」


「別に頼んでないからな?」


「いや、そういうニュアンスやったでさっきのは」


「どういうニュアンスだよ」


 言いながら昌真はふと思い出して腕時計を見た――三時五分。女子トイレに目を移す……いない。少なくともそこで誰かを待っている佐倉とおぼしき人影はない。


 来なかったのだろうか。あるいは来て早々に帰ってしまったのかも知れない。……だが今となってはどちらでもいい気がした。


 レナとの会話に気を取られて待ち合わせ場所の観察を怠っていたのは事実だが、その失態に慌てるでもなく平然としていることが、このミッションにかける自分の意気込みを物語っている。


 ……要は最初からやる気などなかったのだ。あやかには悪いが、これはもう佐倉が現れる現れない以前の問題だ。精神的な部分での準備不足、今回の敗因はそれに尽きる。そのことをあやかに正直に話して次に繋げよう。


 ――ただ今日の作戦の収穫は、本来の目的とはまったく別のところにあった。

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