018 空蝉のサマーデイズ
――だが実際に夏休みが始まってみると、そこで昌真を待ち受けていたのは嵐のような日々ではなく、逆に凪いだ海のように穏やかな毎日だった。
佐倉たちとの会合の翌日は終業式で、その夜に昌真はあやかからロスジェネの全国ツアーのため夏休み中はこれまでのように毎日電話できないという主旨の連絡を受けた。
もちろん昌真としては異存などあるはずもない。最終日のライブを楽しみにしているというステレオタイプな言葉でその日の会話を締め電話を切ると、昌真はスマホを持ったまま両手を高々と天に衝き上げた。
全身の拘束を解かれたようなえもいわれぬ解放感があった。復讐計画の目処は立った。佐倉の件も問題なく片付いた。おまけにあやかの電話攻勢からも解放され、高校二年の夏休みが始まる!
いい夏になりそうだ――そう思ってその日は眠りに就いた。
◇ ◇ ◇
だがその夜に昌真が解放感だと思ったものの正体は、翌日、明らかになる。
夏休み初日の朝は慌ただしかった。吹奏楽部の練習のため登校するという千晴のため、料理当番の昌真は早起きして弁当を作った。二人分の朝食と自分のための昼食の準備もおこたらず進め、いつも通り夕食の下ごしらえも朝のうちに済ませた。
そして妹を送り出してしまうと、昌真には何もすることがなくなってしまった。
リビングのソファに座り、テレビをつけた。だがいくらも見ないうちに消して、今度はラジオをつけた。よく聴く地元のFMからは夏のはじめにぴったりの爽やかなナンバーが流れていたが、なんとなく聴く気がせず、テレビと同じようにすぐ電源を落とした。
夕飯の支度をしておこうと腰を浮かしかけ、すでにあらかた終えていることを思い出してまたソファに沈み込んだ。
……やることがない。本気でやることがないのだ。
いっそ勉強でもしようか――ふとそんなことを考えて、けれどもそれがひどくつまらない思いつきであることを思った。受験生でもあるまいし、なぜ夏休み初日の朝から勉強などしなければならないのか。……だがそうなると、本当に何もすることがなくなってしまう。
――去年の夏はただひたすらレスポールと共に曲を書き、腕を磨いた。千晴と同じように部活のために登校し、部室が使えない日も防音のきいたスタジオを借りてバンドの練習をした。
……今年はそれもない。相棒のレスポールはクロゼットの奥深くにしまい込んだままで、再会の日はいつ来るともわからない。
そうなるとあとは翻訳しかないが、こんな日の高いうちからヘミングウェイと向き合う気にはどうしてもなれない。仕事に疲れた社会人がウイスキーのグラスを傾けながらほっと一息つく時間――昌真にとって、趣味の翻訳とはあくまでもそういった類のものなのだ。
無聊に追い立てられるように家を出た昌真を、周囲から圧倒的な蝉の鳴き声が襲った。重々しいうねりに昌真は一瞬立ち竦み、けれどもそれを掻き分けるように炎天の中へと踏み出した。
「……もう夏だったんだな」
遅まきながらの感慨は、我が世の夏を謳歌する蝉たちの声に溶けた。
あてどなく街を歩いて、やがて昌真は子供の頃よく遊んだ近所の公園に辿り着いた。
公園では子供たちが噴水のそばで水着になって遊んでいた。噴水のまわりの地面から時間になると水が噴き出すようになっており、それがこの公園の売りなのだ。自分も何年か前まではああして遊んでいたっけ――噴水から少し離れたベンチに座り、きらきらと輝く水しぶきを浴びて笑い合う子供たちを眺めながら昌真は、この夏をどうやって過ごそうと考え始めた。
だがすぐに、自分がこの夏に何のビジョンも持てないことに気づいた。
……やりたいことがない。本気で何もないのだ。
そうして昌真はようやく、昨夜から自分が感じていたものが解放感などではなく虚無感、あるいは虚脱感と呼ばれるものだということを理解したのである。
「……そっか」
同時に絶望が来た。この夏をどうやって過ごせばいいかわからない――それが絶望の理由だった。
どこかへ遊びに行くような友達はいない。勉強も必要以上にするつもりはない。
大学に受かる受からないは生徒の自己責任というのがデフォである公立進学校の例にもれず、薫ヶ丘に夏休みの課題といったものは存在しない。だからといって長い夏休み中まったく勉強しないつもりでいるわけではないが、来年ならまだしも高二のこの夏を勉強に捧げようとは思わない。
……だが、そうなると本当にやることがない。一ヶ月余に及ぶ夏休みの期間にこれをやりたいということが何ひとつ思い浮かばないのだ。
「……だから夏になるとみんな付き合うのか」
夏とクリスマスにはカップルが急増する――巷間に流布されたあまりにも有名な風説である。だがクリスマスはわかるとしてもなぜ夏にカップルが増えるのか……今日までわからなかったそれを、昌真は今、実感として理解した。……他にやることがないからだ。
たしかに彼女がいれば違うのだろう。海に行くなり花火に行くなり、夏に二人でできる楽しいことはいくらでもある。
俺も彼女をつくるべきなのだろうか――これまであまり真剣に考えてこなかったそれが、はじめて切実な問題として昌真に突き付けられた。……まあ、つくろうと思って簡単につくれるものでもないのだろうが、少なくともそのための努力ないし行動を今からでも開始すべきなのではないか――
「……彼女か」
彼女というキーワードで真っ先に昌真の頭に思い浮かんでくるのは、何気にあやかの顔だった。
つい先日までは恋愛対象として見ていなかったのだが、件の会合での発言――昌真はあたしの王子様発言以降、さすがに少し意識する部分が出てきてしまった。
酔っ払いのたわごとと片づけることもできる。だがあやかはその手の話でテキトーなことを口にする女ではないように思う。
昌真も男女の機微に詳しい方ではないが、あそこまで言われて何も感じないほどの朴念仁というわけでもない。あやかサイドの希望によるところが大きかった毎日の長電話も考慮に入れて考えれば、彼女が昌真に対して何らかの好意を持っていることは間違いないとみていいだろう。
――けれども昌真があやかと付き合うことはない。その結論に変わりはなかった。
あやかが恋愛禁止を標榜するロストジェネレーションという組織に所属するアイドルである以上、ハッピーエンドはあり得ないからだ。
昌真の側でもあやかに好意めいたものを感じないわけではない。
結果はどうあれ何にでもひたむきに取り組む姿勢は好感が持てるし、年の割に無邪気な性格についてもだいぶ慣れてきた。容姿については特に好みというわけでもないが、隠れなき美少女であることは昌真も認めるところであり、アリかナシかで言ったらもちろん『アリ』なのである。
あやかと付き合ったらきっと楽しいだろうな、という思いはある。何の事情もなければ、どこかの花火に誘うくらいはしていたかも知れない。
――ただ、そのあたりについては最初から結論が出ている。
そもそも現時点で昌真の中にあるあやかへの想いはぼんやりした好感といったレベルに留まるものであり、あのときのあやかの言葉ではないが、恋愛の意味で好きだと言えるほどはっきりした気持ちがあるわけではない。ましてアイドル活動と天秤にかけて付き合ってくれと告白する気など昌真にはさらさらないのだ。
むしろ高岡への復讐計画に見通しが立ったこともあり、当初の予定通りそれを完遂してフェイドアウトというのがベストだと思っている。……つまり昌真の中では、あの告白まがいの発言を聞いた現時点においても、恋人候補としてのあやかはやはり『ナシ』なのだ。
そうなると恋人をつくって夏を楽しむという線は消える。何もしない分には夏休みは長すぎるが、候補の顔すら思い浮かばない恋人を一からつくりだすには短すぎる。
ちなみにあの会合に居合わせたもう一人のアイドルも何か言っていたような気がするが、昌真もあれをまともに受け取るほど脳味噌お花畑ではない。
「……フェスでも行こうかな」
去年、バンドのメンバーで行こうかという話が出て、だが結局三人の予定が合わず立ち消えになった夏フェス。今年はレナもコータローも誘えないが、単身それに乗り込むというのはどうだろう。
出演するアーティストを調べようとスマホをポケットから取り出して――だがブラウザを開く前にまたポケットに戻す。
……聴きたい音楽がない。昌真がすべてのCDを揃えているアーティストは高岡ばかりでなく洋楽を含め幾つもあるが、今はそのどれも聴きたいとは思えないのだ。
音楽を志す気持ちに蓋をしたことで、音楽そのものへの興味にもストッパがかかってしまったのかも知れない。いずれにしろこんな気持ちでフェスに参加して楽しめるとは思えない。……無聊を慰める方法を模索するにしても、音楽からは離れた方がいいのだろう。
そう思って仕切り直した。そうして音楽以外で自分が何かやりたいこと――そんなものはどこにも無いということに気づくまで、水着姿でさわぐ子供たちを眺めながら昌真は一時間以上もの時間を内省に費やさざるを得なかった。
「……」
昼食をとりに帰ったのだろうか。子供たちがいなくなってしまったあとも昌真はベンチから動けなかった。
もうもうとした蝉時雨があたりを包み込んでいた。自己の遺伝子を遺すための交尾という明確な目的をもって声を張り上げる虫たちに訳もない嫉妬を覚えながら、夏休みという長いスパンではなくとりあえず今日一日をどう過ごすべきか、まずはそこから考えてみようと昌真は大きく背伸びした。
◇ ◇ ◇
――結局、昌真はこの夏休みの大半を勉強に費やすことになる。
不得意というわけではないが、他の教科に比べると苦手意識のある数学。その中でもいまいち理解しきれていなかった感のある数列まわりを中心に、難関大学の試験問題を端から解いていくという受験生さながらの日々を過ごしたのである。
数学を選んだのはただ苦手だということばかりではない。難易度の高い入試問題――ことにレナと話していた一番難しい大学の入試をはじめとする最高難度の問題と向き合っていると、時間は瞬く間に過ぎてゆくのだ。解けるときは一瞬だが、解けないときは問題を解き始めてふと時計を見ると一時間経っていたなどということも珍しくない。教科ごとに時間割を決めて取り組むのであれば問題だが、効率的に時間を灰にするという目的からすれば理に適っている。
数学に倦むと、コンテンツ配信サービスでブックマークしておいた海外ドラマやドキュメンタリーの類を原語で観漁った。英語のコンテンツに英語字幕をつけられるのと十秒プレイバックが売りのサービスで、英語学習者の間ではリスニングのためのツールとして密かな人気を博している。字幕なしで聴き取れれば一番いいのだろうが、そこまでのレベルにはない昌真にとって一見ムダに思える英語字幕がありがたいのだ。
教科は他にもあるわけだが、突き詰めれば受験とはこの二教科――数学と英語だけである。あくまで時間潰しのためと位置づけながらも、具体的なターゲットとなる大学を見据えての対策が本格化する来年の夏に先駆け、その二科目の底上げに特化したカリキュラムを半ば無意識に選択するあたり、全国模試の成績上位者に安定して名を連ねる昌真ならではといったところだろうか。『夏を制する者は受験を制す』の格言通り、この一夏の学習によって昌真の学力は飛躍的な向上を遂げることになる。
だが昌真にとってこの夏は、充実とは程遠い灰色の一季節となった。
夏休みが始まった日にもたらされた虚脱感は、結局消えることなく最後まで昌真につきまとった。仕方なく始めた勉強も、その虚脱感を消すことはおろか、薄めることさえできなかった。それこそ穴の空いたバケツに水を注ぎ続けていたようなものだ。
高校二年の夏がこれほど虚しいものになるとは想像もしていなかった。何もない、凪いだ海のように穏やかな毎日――そう言えば聞こえはいいが、昌真にとってそれは凪いだ海というより巨大な空洞だった。
夏休みを通して、昌真は勉強の息抜きがてらあの公園にたびたび出向いた。そんなとき、生命の充実そのものである蝉の鳴き声を聞きながら、木の幹にしがみついている蝉の抜け殻をつまみ上げ、しげしげと眺めることがあった。
この抜け殻が、まさに今の自分だと思った。けれどもこの抜け殻が自分だとするなら、ここから抜け出して飛び立ったはずのもう一人の自分はどこで何をしているのだろう?
頻度こそ減りはしたものの、あやかからの電話がなくなったわけではなかった。
三日に一度はかけてきて、すぐ終わることもあるが、これまで通り長電話になることもあった。ライブ会場から写メを送ってくることもあれば、出先のホテルから寸暇を惜しんでかけてくることも少なくなかった。
お互いの感情はともかく、そのやりとりだけ見れば相変わらず恋人同士のそれであり、ツアーで疲れているだろうに無理に電話してこなくてもいいと何度か言いかけ――だが結局、昌真はそれを言い出すことができなかった。
何の希望も見出せないモノクロームの日々の中で、あやかとの時間だけがかろうじて色彩を留めている。そんな状況にあってあやかを突き放せるほど昌真は強くはなく、何より突き放す理由もなかったからだ。
会話のノリ自体は相変わらずで、ツアーに持参しているという夏休みの宿題でわからないところを訊いてくることもこれまでと変わらなかった。
ただひとつ変化があるとすれば、高岡への復讐についてなぜかあやかがめっきり消極的になったことだ。
そもそもあやかのライブを観に行くのはそのためなのだからと昌真が話を振っても食いついてこないし、露骨に話題を変えようとすることさえある。当日の演技――佐倉の提案した『無理矢理キスしようとしてバチーン』についても最低限の打ち合わせこそしたものの、あまり盛り上がらなかった。
昌真に制止する
その代わりにあやかがやたらと推してくるようになったのがロスジェネの話題だった。特に昌真が参戦を予定しているロスジェネシアターでのライブについてはウザいほどで、「そんなに何度も言わなくてもちゃんと行くから」という台詞を昌真はこれまでにおそらく十回以上は口にしている。
あそこでロスジェネの印象を訊かれて正直に答えてしまったのがいけなかったのだろうか、波状攻撃とも言うべきその猛プッシュは昌真をロスジェネのファンにしようとしているとしか思えない。
一方で、恋愛的なアプローチはこれまで通りゼロだった。
だがもちろん、昌真の側ではそれに不満などなかった。あの夜の発言などなかったかのようにこれまで通り馴れ馴れしい自然体で接してくるあやかが、逆に昌真にはありがたかったのである。
むしろ気になるのはあやかがあの会合の後半で見せた、何かを考え込んでいるようならしくない姿だった。そのときの姿が、高岡への復讐作戦に消極的な今のあやかの姿勢に繋がっている気がしてならなかった。だが、それについてあやかを問い質そうとは思わなかった。繰り返すようだが、昌真にとっても高岡への復讐などもうどうでもいいからだ。
そうなると、昌真の耳は自然とロスジェネの話題に傾くことになる。あやかが熱っぽく語るその話を、最初のうちはあやしい宗教団体の布教を受け容れるような気持ちで、だが最後の方になると興味深い要素を孕んだ未知の世界をかいま見るような思いで、昌真なりに熱心に拝聴した。
結果、あやかの思惑通りというべきか、昌真は割と真剣にロスジェネのライブを待ちわびる気持ちになってきた。
こんなにハードル上げちまって知らないぞ、という昌真に、そんなの簡単に跳び越えちゃうよ、とあやかは返した。
チケットを送りたいから住所を教えてというのでメールで教えると、三日後にあやかが差出人の封筒が届いた。封筒にはチケットと共に、あやかからの手紙が入っていた。意外と言っては失礼だが育ちの良さを感じさせる綺麗な字で『がんばるから楽しみにしててね あやか』とだけ書かれた手紙をしばらく眺めた後、昌真はチケットと共にその手紙を封筒に戻して、大切に机の中にしまった。
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