014 顕現のファムファタル(1)

 ――十五分後。昌真はほの暗いホテルの一室で壁を照らす間接照明を眺めながら佐倉がシャワーを浴び終わるのを待っていた。


 ベッドのへりに腰掛け、膝の上に指を組んでわずかにうなだれる自分は、おそらく埴輪ハニワのような顔をしているに違いないと昌真は思った。


 喫茶店を出た昌真は茫然自失のまま佐倉に連れられ、気がついたときにはこの部屋にいたのである。


 店を出てすぐ、疲れちゃったから少し休んでいってもいい? と聞かれたのは覚えている。だがそれにどう答えたかまでははっきりと覚えていない。おおかた「ああ」とか「うん」とかそんな感じの生返事を返したのだろう。


 ……で、繰り返しになるが、気がついたときにはこの部屋にいたのである。


 要するに今思えばホテルへの同行の意思を確認していたものとみえる件の台詞から、部屋に入るなり先にシャワー浴びちゃうねと言って佐倉が浴室に姿を消すまでの記憶が甚だ曖昧なのである。


 何よりも謎なのはビルを出た覚えがないことだ。


 どこをどう通ったのだろう。地下道のような人気のない通路を抜け、自動ドアらしきものをくぐったのは何となく覚えている。あれがエントランスだったのだろうか。そうだとしても受付も何もないまま部屋に通される形式のラブホテルなどというものが果たして存在するのだろうか。


 ……わからない。そもそもラブホテルになど入ったことがない童貞の俺にそんなことがわかるはずもない。


「……いや、あるか」


 そこまで考えて、つい一ヶ月ほど前にも自分が似たような状況に陥っていたことを思い出した。あのときもどこぞのアイドルにラブホテルの一室に連れ込まれ、酷く面倒なことになっていたのだった。


 アイドルの間で高岡似の男をラブホに連れ込むことが密かなトレンドになっている、ということなのだろうか。そうでなければこの頻度はちょっと説明がつかない。


 いずれにしろここ数ヶ月の間に童貞のままアイドルとラブホに入った回数の世界ランキングなどといったものがあればおそらく俺が一位だろう――などと愚にもつかないことばかりが頭に浮かんでくるのは、本当に考えなければいけないことから逃げている何よりの証拠である。


 俺が本当に考えなければいけないのは、浴室からかすかに洩れ聞こえるシャワーの音が止まり、バスタオルを身体に巻いた――あるいは生まれたままの姿の佐倉マキが目の前に現れたとき、果たしてどう振る舞えばいいかということだ。


「……まさか上手くいくとはなあ」


 あやかが立てた作戦が完遂という結果に終わろうなどと、いったい誰に予想できたことだろう。


 もっとも厳密にはまだ完遂しておらず、俺たちがラブホから出るところをマスコミに押さえられて初めてミッションコンプリートとなる。前回の反省を踏まえ、最初からマスコミに情報を流しておくようなことはしていない。一緒にラブホに入り、一緒に出ることが確定した時点であやかに連絡を入れる手筈になっていたのだ。


 ……だがはっきり言ってそれどころではない。


 作戦には大きな見落としがあった。昨日、あやかと作戦を詰めている段階でしきりに気にかかっていたことの正体はこれだった。


 あやかはどうか知らないが、少なくとも昌真はどのみち作戦が失敗すると決めてかかっていた。だから作戦が場合のことはまったくと言っていいほど何も考えておらず、その途上において否応なくこの事態――ラブホの一室における佐倉との対決がもたらされることを予想だにしなかったのである。


「……ってか、どうすりゃいいんだよこれ」


 そう言って昌真は両手で頭を掻きむしった。手っ取り早いのはこのまま逃げることだ。このホテルがどんなシステムになっているかわからないが、監禁されているわけでもないのだからどうにか出ることはできるはずだ。


 幸い、フロントにつながっているであろう電話らしきものが壁にかかっている。受話器をとって適当な事情をでっち上げ、幾らになるかわからないが料金を支払ってここをあとにする。とりあえずそれで問題は片付く。佐倉には申し訳ないが、事態がこれ以上複雑になるのを避けることができ、俺の童貞も守られる――


「できるわけねえだろ……んなこと」


 だが、さすがにそれはできない。据え膳食わぬは男の恥だとかそういったこと以前に、人としてできない。そんなことをするくらいならこうなるに至った事情を洗いざらいぶちまけて平身低頭して謝り倒す方がまだマシだ。


 そもそもなぜ逃げなければならないのだろう? まずはそのあたりを整理しなければならない。そう思って昌真は真剣に考え始めた。


 俺がここから逃げたい理由……それはとりもなおさず俺が、ほどなくして浴室から出てきた佐倉との性交渉――というかぶっちゃけセックスを受け容れるかどうかという問題に他ならない。これについて、エスだのイドだのといった根源的欲求はいざ知らず、ルネ=デカルトが説くところの『我』すなわち思念の主体である俺自身はそうした行為に強い拒否感を覚えている。


 だがその一方で、俺を構成する要素の一部はあたかもシビリアンコントロールに逆らう軍部のごとく早々と臨戦態勢を調え、今や遅しと開戦の火蓋が切られるのを待っている。つまりは恨んでも恨んでもからだうらはら山が燃えるというやつである。いや、山は燃えないかも知れないが、なぜまた唐突にこんなフレーズが頭に響くのか。


 オーケー認めよう、俺は混乱している。


「……というか、なんで嫌なんだ?」


 時間がない。これから始まろうとする行為のどこに俺が拒否感をもっているのか、そのあたりを早急に詰める必要がある。


 論題はひとつ。童貞など可及的速やかに捨てたいと願っていた俺がこの期に及んでうだうだする理由について。


 まず相手の適格性。これは問題ない。容姿云々は度外視するとしても初めての女として佐倉マキは適当――いや、望外の相手と言っていい。世間に噂される通り、ビッチであることは疑いない。会って半日も経たない男を流れるようにこんな場所へいざなう手並みからして筋金入りだ。おそらくこうして気に入った男を片っ端から食い散らしてきた捕食者プレデターなのだろう。


 だが、それのどこが悪いのか? 少子高齢化を迎えんとする我が国において性知識に乏しい青少年を正しい方向に教導せしめるは喫緊の課題、国家第一の急務と言うべきだ。昭和初期までは村落の儀式としてシステム化していたその役目を彼女のようなビッチが担ってくれるというのであればそれはむしろ賞賛されて然るべきことだ。


 小括すれば俺は初めての相手がビッチであること自体については何ら抵抗を感じない。


 それに佐倉について言えば、その人間性がある。喫茶店という公共の場でキレるなどという醜態を晒してしまった俺をやわらかく受け止めてくれた人間・佐倉マキに対するリスペクトの念は今も胸の中にある。


 正直、あれで俺は落ちた。恋愛ではないかも知れないが、佐倉マキという人間に参ってしまったのである。だから初めての相手が佐倉では嫌だ、などということはまったくない。佐倉で童貞を捨てられるのであれば男としてこれに勝る光栄はないと言っても過言ではないのだ。


 では倫理についてはどうか。これはセーフでもあり、アウトでもある。


 佐倉に決まった恋人がいるかどうかは不明だが、とりあえず結婚はしていない。俺はもちろん結婚しておらず、恋人はおろか意中の相手さえいない。一瞬、脳天気な顔がチラついたが、あいつとはそういった関係ではなく、今後そうなる可能性もゼロ。よって配偶者ないし恋人への裏切りの有無の観点からはセーフもセーフ、大セーフと言っていい。


 だが一方で、俺が高岡と偽って佐倉と寝ようとしていること。これは確実にアウトだ。佐倉は相手が高岡涼馬だからセックスしたいのであって、一介の高校生であればきっと歯牙にもかけない。ここで俺が高岡として佐倉と結ばれたとして、いずれ真相を知ったとき佐倉がどんな顔をするか想像もできない。いずれにしてもその点については倫理的にアウトだ。アウトもアウト、大アウトである。


 ……けれどもそれが俺の中で一番引っかかっていることなのかといえば、実のところそうでもない。それはまあ佐倉には悪いと思うが、そもそも俺を高岡と間違えたのは彼女の方なのだし、半ば強引にこんなところへ連れ込んだのも彼女だ。引っ込みがつかなくなり止む無く流れに乗った俺にばかり罪があるとは言えない。


 それに佐倉が真性のビッチであるという前提に立てば、そのあたりは瑣末な問題に過ぎないということになる。お前は今日までに食べたパンの枚数を覚えているのか? というやつだ。……いや、厳密に対比するのであれば枚数ではなく銘柄、あるいは価格や材料を含めたパンの総合的な評価ということに――どうでもいい。そんなことはどうでもいいのだ。


 つまるところ俺が、佐倉の身体を通り過ぎていった数知れない男の一人に加わるのであれば、それは彼女にとってゾウがアリを踏み潰したも同然であろうという理屈である。いずれはバレるにしても佐倉であれば無名の男子とヤッてしまったことそれ自体をそこまで気に病むことはないものと思われる。だとすればあとはバレ方だが、そこは俺のハンドリングでどうにでもなる。


 結論を言えば、俺が高岡を騙って佐倉と寝ることについて、さほど深刻な問題があるとは思えない。少なくともそれで佐倉が傷つく可能性は低いものと思われる。彼女にとってはあくまでも日常の一部。童貞を捧げることになる俺とは違うのだ。


「……となると、やっぱそこなのか」


 結局、俺が佐倉とのセックスを忌避する感情の犯人探しは一回りしてふりだしに戻る。可能性的には一番低いと候補から除外していたのだが、どうやら俺はこのシチュエーションで童貞を失うことそれ自体に受け入れ難いなにかを感じているようだ。


 だが、なにかとは何か?


 童貞などいつでもドブに捨てたい――その思いに変わりはない。佐倉であれば相手にとって不足なし――これも確認した通りだ。ならば帰納的に考えて、この心理的抵抗はもっぱら俺自身に起因するものということになる。


 そして俺自身の中にその要素を探るのであれば、やはり俺が高岡に扮していることにその理由を求めざるを得ない。高岡のフリをしていることで俺が童貞を捨てたくない理由があるとすればそれは――


「……わかった」


 呻くように口の中で呟いた。……謎はすべて解けた。


 俺がここで童貞を捨てたくない理由――それは矜恃だ。吹けば飛ぶような男に残された一片の矜持。


 ドブに捨てるのはいい。だがせめてそれをドブに捨てたい。高岡涼馬のニセ物としてではなく、片桐昌真として童貞を捨てたいのだ。


 くだらないこだわりには違いない。けれども俺は心の奥底に残されたこの一片の矜持にかけて、俺のことを高岡だと思っている女相手にむざむざと童貞を捨てるわけにはいかない――


「……!」


 かちゃり、と小さな音がして、昌真は反射的に目をやった。一糸まとわぬ佐倉マキが濡れた髪をタオルで拭きながら浴室から出てくるのが見えた。


 切りのいいところで思考を停止した頭で昌真はぼんやりとその妖精のような肢体を眺めた。佐倉はこちらを見ないまま屈みこんで冷蔵庫の扉を開け、天気について尋ねるようにのんびりした声で言った。


「で、キミってだぁれ?」


 ある意味での死刑宣告――だがそれは昌真の耳にあたかも菩薩の福音のように響いた。


「す……すみませんでしたッ!」


 かくして昌真はベッドから身を躍らせ、よもや自分の人生ですることがあろうとは夢にも思わなかった伝説のジャンピング土下座を敢行することになる――

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