013 決行のエントラップメント(5)
そこで昌真は我に返った。
……そうだ。佐倉がいくら魅力的でも彼女の目に映っているのは高岡涼馬のガワだ。この俺――片桐昌真を見ているわけではない。甘いリップも眼差しも、トップアーティストである高岡をモノにするための手練手管であり、俺が一介の高校生であるとわかれば彼女は見向きもしない。
それに……そうだ。あやかの言う通りだ。俺たちはこの女を騙し、高岡への復讐のための駒として利用しようとしているのだ。その計画線上においてこの女を落とすべく俺は今ここにいる。それなのに俺がこの女に落とされてどうする!
そんな叱咤激励の言葉を自分に投げかけ、この場面でクラッときてしまったことを悟らせずに上手く立て直す切り返しの言葉をほとんど必死になって探した。
「……そんなんでこの俺が落とせると思ったら大間違いだぜ、お嬢さん」
だが昌真の口から出てきたのはそんなどうしようもない台詞だった。昌真としてはプレイボーイを気取ってせいぜいクールにキメようと試みたのだが、明らかに声がこわばっていたし、肘をテーブルに立てて口元にあてた指先も震えていた。
ボクシングに喩えるなら効いて倒れてどうにか立ち上がったものの生まれたての仔馬のように脚がガクガクしている状態で「そんなんでこの俺が倒せると思ったら大間違いだぜ、チャンピオン」などと嘯いているようなものだ。
そんな昌真に佐倉は少し照れ臭そうな笑顔のまま「あら、そう?」と言って小さく舌を出して見せた。……くっそう、可愛い。ここで佐倉のペースに呑まれるわけにはいかない。ほとんど蛮勇を奮いおこすような思いで、昌真は佐倉マキに向き直った。
――なお、ここで昌真がとるべきだった正しい対応は、佐倉の誘い水に乗ってラブラブモードの会話に切り替えることであったと考えられる。
なんとなれば、佐倉に劣らず高岡も浮いた噂に事欠かないモテ男なのだからして、この程度のアプローチなど余裕で受け止めて然るべきなのだ。だがもちろん昌真にそんな離れ業ができようはずもなく、その発想さえ出てこなかった。
代わりに昌真がとった対応といえば、それまで通りガチの音楽論をくどくどと並べ立てつつ、今さらながら本日の着地点を模索し始めるといういかにも場当たり的なものだった。
高岡涼馬でないことがバレるのは論外だとしても、ここまで盛り上がってしまったのでは昌真が思い描いていた既定路線『やっぱり上手くいかなかったね、チャンチャン』で終わらせるわけにはいかない。不承不承ながら今回は裏方に徹してくれているあやかのためにも目に見える形での成果――次に繋がる何かがほしい。
そうなるとゴールはひとつしかない。高岡涼馬として佐倉マキと連絡先を交換する――これだ。それが果たされれば今度は俺から直接誘えるし、作戦の幅は一気に広がる。失敗すると決めてかかっていたことを思えば上々の結果……というよりも率直に
ゴールがそこと決まった以上、とっとと連絡先を聞いてお開きにすればよさそうなものだが、持ち前の優等生気質というか、昌真の生真面目な性格がそうすることを良しとしなかった。佐倉がわかりやすいモーションをかけ始めた直後に「もう帰ろう」では彼女に失礼であろうという考えがきてしまったのである。
せめてもうしばらくこれまで通り会話を続けてから頃合いを見計らって店を出、「せっかくだから」みたいな流れで連絡先を交換――そんな初めて合コンに参加する
件の不意打ち以降、佐倉はもう
それが高岡に向けられた言葉であることは重々承知していても、佐倉の滑舌が悪いせいかあるいは別に理由があってのことか、昌真には彼女が口にする『りょ』が『しょ』に聞こえてしまいドギマギする心をどうすることもできない。
すぐにでもこの場を離れなければどうにかなってしまいそうだという気持ちと、いつまでもこうして彼女と同じ時間を過ごしていたいという気持ち、更にはまかり間違って高岡でないことがバレたら全て終わりだという気持ちが綯い交ぜになって一種異様な精神状態にあった。
――だからだろうか。あくまで音楽論に引き戻そうとするベクトルと色づいた会話へ誘導しようとするベクトルのせめぎ合いが頂点に達したところで佐倉から投げかけられたその質問に、昌真の胸はこの日一番のざわめきをみせた。
「そういえばずっと聞きたかったんだけど、涼馬クンの曲ってドラムないの多いよね。それってどうして?」
佐倉にしてみれば他意のない、言葉通りの質問だったのだろう。だが昌真はその質問に過敏に反応した。高岡の――と言うより昌真自身の音楽の根幹。熱いこだわりを持ち続けてきたそこに佐倉が土足で踏み込んできた――そんな気がしたのである。
「ドラムがなくて何がいけないの?」
「え? ……ううん、違うの。別にいけないとかじゃなくて、ただどうしてかなあって」
つい強い調子で返した昌真に佐倉は驚いた顔をし、それから少し慌てたように身振り手振りを交えながら弁明の言葉を口にした。
そんな佐倉の様子に昌真はわずかに持ち直し、キツい言い方をしてしまったことを反省した。……思えば佐倉が聞いてきたことは高岡ファンであれば誰もが胸に
「完成されたベースがいればドラムはいらないんだよ」
バンドになぜドラムがいないのか問われたとき、昌真が決まって口にしてきた常套句である。だがその言葉を口にしたとき、またしても昌真の胸は大きくざわめいた。
そのとき昌真の脳裏に浮かんだのはコータローの顔だった。なぜそんなものが思い浮かんでくるのか――考え始める頭を無理矢理切り替え、いかつい男の顔を振り払うようにつとめて無機的に昌真は言葉を継いだ。
「リズムパートとしてじゃなくて、ベースラインをメロディアスに聴かせたいと思ったら、ドラムはやっぱり邪魔になる。もちろんドラムのついた曲のあり方を否定するものじゃないけど」
「ふうん。でもさ、それって涼馬クンの本音と少し違うでしょ」
「どうしてそう思うの?」
「だって、涼馬クンの曲のベースラインでそこまで心に来たのないし」
平然とそう言い放つ佐倉に昌真は言葉を失った。……たしかにそうなのだ。高岡の曲のうちドラムを用いないものは全体の半数近くに及ぶが、肝心のベースラインはというとまさに佐倉の言葉通り、そこまで心に来るものはない。
もちろん、上手いは上手い。プロフェッショナルである一流のベーシストが演奏しているわけだから技巧面については文句のつけようがない。だが、コータローの演奏のようにベースが歌っている曲はひとつもない。感情を排して淡々とリズムを刻んでいる――良くも悪くもそれだけなのだ。
ただそれについては昌真自身も今の今までそう確信できていたわけではない。むしろ自分一人がそう思いこんでいるだけなのではないかと、そんな風にさえ考えていた。けれどもたった今佐倉の口からまろび出た言葉により、一転してそれは確信へと変わった。
高岡の曲にはドラムを使わずベースだけでリズムを組み立てたものが多い――これは事実だ。
だがそうした曲におけるベースラインは技術面では優れているものの特に琴線にふれるようなものではない――おそらくこれも事実なのだろう。
けれどもそうなると、高岡がドラムを使わない音づくりをしているのはベースラインを聞かせたいからだ、というストーリーは成り立たない。ぶっちゃけ高岡がなぜドラムを省いているのか、その理由が昌真にはわからない――
「……っ!」
そこで昌真は、自分が今まさにオチかけていることに気づいた。ここへきて初めて、高岡の音楽に関することで自信を持って答えられない質問に突き当たってしまったのだ。
高岡涼馬の曲にドラムを使わないものが多いのはなぜか。これまでは自分と同じ理由でそうしているものと信じて疑わなかった。だがそうではないとわかったとき、昌真はもうそれについて『高岡涼馬として』考えることができなくなった。
高岡の演技が破綻して化けの皮が剥がれる――だがまさにそうなる寸前、ここでオチるわけにはいかないと昌真は我に返った。
「……まあ理想を言えば、ってところかな。聴かせるベースライン刻んでくれる人いないか探してんだけど、なかなかね」
「えー、そんなの涼馬クンが声かければいくらでも手挙げる人いるんじゃない?」
「そんな上手くいかないって。ベースなんて星の数ほどいるけど、俺が巡り会えるのなんてそのうちほんの一握りだし」
そう言って早くこの話を切り上げようと次の話題を探す昌真の頭に、またしても一人の男の顔が思い浮かんでくる。……なぜまたこいつの顔が思い浮かぶのか、そんなことは考えるまでもない。
星の数ほどいるベースの中から、俺は理想のベース――コータローに巡り会った。けれども俺はそれを手放した……手放さざるを得なかった。その事実が昌真をたまらない気持ちにさせた。
そんな昌真の思いを知ってか知らずか、佐倉は何でもないことを言うような調子で「そっか。でも安心した」と言った。
「安心?」
「私、涼馬クンの曲だと、やっぱりちゃんとドラムがついてる曲の方が好きだから。涼馬クンも納得してないんなら、私の印象間違ってなかったんだ、って」
佐倉にしてみればフォローのつもりだったに違いない。けれどもその一言に、昌真の内側では激しい負の感情が沸き起こった。自分の信条を否定されたことへの反発、高岡の曲を否定されたことへの憤り、あるいはその両方を併せ呑む対象の定まらない怒りのようなものか。
「涼馬クンの曲って、ドラムがうるさくなくて、繊細にリズム刻んでる曲が多いじゃない。さっきの『イミテーション』とか。私そういうのが好き」
あたかも自分が高岡の第一の理解者とでも言わんばかりにそう語る佐倉に、黒い情動はいやが上にも高まった。
――おまえは高岡の曲の何を聴いている? おまえが高岡の何を知っている! 感情的になるなと自分に言い聞かせても迸る感情は一向に
「ドラムついてない涼馬クンの曲も好きだけど、なんかぼんやりした感じがする。でもそれって仕方ないよね。だってほら、やっぱりベースって縁の下の力持ちだと思うし――」
「違う! それはアンタが本物のベースを知らねえだけだ!」
席を蹴立てて立ち上がり、テーブルに身を乗出して叫ぶ昌真に、佐倉は目を丸くして硬直した。そんな佐倉に構わず、昌真はなおも叩きつけるように続けた。
「縁の下の力持ち? ベースはそんなもんだって固定観念に囚われてるからどいつもこいつもろくな曲が作れねえんだよ! 本物のベースがどんな風に歌うか聴いたことあんのか? ボーカルとベースラインが上手くハモったときどんな化学反応起こすか知ってんのか? ああそうだよ、理想からはほど遠いよ! けど俺だったらなあ! あいつがいて、俺があいつと一緒だったら――」
そこでようやく昌真は我に返った。同時に『終わった』と思い、背筋が凍りつくのを覚えた。
……高岡涼馬のフェイクであることも忘れ、自分自身の音楽のこだわりをまくし立てるなど愚の骨頂だ。俺は高岡涼馬ではないと自ら宣言しているようなものだ。やんぬるかな。
だがとにもかくにも大声を出してしまったことを佐倉に詫びよう。そう思って恐る恐る視線を向けた。
けれども佐倉は怒るでも怯えるでもなく、優しく慈しむような笑顔で静かに言った。
「涼馬クンって、本当に音楽が好きなんだね」
これで、昌真は負けた。完敗だった。
俺にはこの人を騙すことはできない――放心の中でそう思い、返事を返すこともできないまま目の前の見事な女を見つめた。
「あ、もうこんな時間。悪目立ちしちゃったし、もう出よっか」
少し困ったような笑顔でそう言う佐倉に、昌真はただ機械のように頷くしかなかった。
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