024 懸命のラストステージ(3)

 ――そこからは、もう何も考えられなかった。


 顔の汗を拭いながら通路を駆け抜け、建物を出ておじさんに教えてもらった場所――あやかと約束した六番出口の前に辿り着いた。


 ……と、目の前で扉が開いた。ステージの上で着ていたままのドレスに身を包んだ小さな影が、ほとんど倒れ込むようにして出てくるのが見えた。


「あやか!」


「……昌真、やっぱり来てくれたんだね」


 駆け寄ってその身体を抱き留めると、あやかは憔悴しきった顔で健気に笑って見せた。その笑顔に、ライブのあいだ昌真の中で時間を止めていた感情が一斉に動き出した。


「馬鹿ッ! どうしてあんな無茶――」


「ねえ昌真、元気出た?」


「そんなことより――」


「教えて! 元気出た? 昌真」


 昌真の言葉を遮って、必死の表情であやかはうったてえくる。その表情に、昌真は何も言えなくなった。少し間を置いて、心に思い浮かんだままを口にした。


「……出たよ。元気出た」


「良かったあ……」


 涙をにじませた笑顔であやかはそう言うと、自分の指でそっと目の下を拭った。


「なあ、あやか。それよりも身体の方は――」


「あたしね! 今日、初めてはじけられた!」


 またしても昌真の言葉を遮り、目を輝かせながら心底嬉しそうな表情であやかは言った。


「アイドルになって初めて、自分のまわりにあるものぜんぶ壊してはじけられた! それってぜんぶ昌真のおかげだよ! ありがとう昌真!」


「……俺が、何したって言うんだよ」


「あたし、わかったんだ。ファンの人を元気にしたいって思ってステージに立っても、漠然と思ってるだけじゃダメなんだって。元気にしたい人の顔をちゃんと思い浮かべて、その人を元気にしようと思って頑張らないとダメなんだって。あたし、昌真を元気にしたかった。昌真に元気になってもらいたかった。初めて会ったあの日からずっと。だから今日、昌真を元気にできて嬉しい! 本当に嬉しい!」


「……初めて会った日って。だって俺たちはあのとき――」


 あやかを抱える昌真の手にそっとあやかの指が触れた。その指からあやかの温もりが伝わってくる気がして、昌真は言いかけていた言葉を飲み込んだ。


「あのとき昌真、あたしのこと助けてくれたよね? 昌真のこと高岡と勘違いして、記者の人呼んでピンチになっちゃったあたしのこと。高岡に間違われて昌真だって嫌だったはずなのに、あたしのこと怒りもしないで、ホテルから抜け出す方法考えてくれて……。あのとき、あたしアイドルであることの意味、見失いかけてたんだ……。人を元気にしたくてアイドルになったのに、あたしなんか誰も元気にできないんじゃないかって。だからあたし、昌真のこと元気にしてあげようって決めたの! だって昌真ぜんぜん元気そうじゃなかったから。バンドやめちゃうって言ったとき、昌真すごく寂しそうな顔してたから」


「……」


「でも……あたしバカだからやり方間違えちゃった。昌真が一緒に高岡に復讐しようって言うから、それが本当に昌真のやりたいことだと思っちゃった。高岡涼馬に復讐できれば、それで昌真が元気になるって。……でも、違ったんだよね? 昌真はあたしに合わせてくれてただけで、本当は高岡への復讐なんてどうでも良かったんだよね? マキちゃんと三人で会った日、それわかっちゃった……。昌真やさしいから、あたしのバカな計画に文句も言わず付き合ってくれてたんだって。だから考えた。どうすれば昌真を元気にできるんだろうって。そしたら昌真がライブに来てくれることになって、あたしはやっぱりアイドルとして昌真を元気にしたいって思ったの!」


 掠れる声で健気に絞り出すあやかに、昌真は何も言えなかった。


 行きがかり上始めることになった高岡への復讐作戦……そんな馬鹿げたものにあやかはなぜそこまで真剣になれるのだろうとずっと疑問に思っていた。


 ……その疑問が、やっと解けた。ときに疎ましく感じさえしたあやかの一生懸命は、すべて俺を想ってのことだったのだ。


 それが嘘でも言い訳でもないことが、昌真にはわかった。……痛いほどそれがわかって、だから昌真は、じっと自分を見つめるあやかを前に、何も言うことができなかった。


「でも……そしたらわかったんだ。じゃダメなんだって。本当に元気にしたい人の顔考えながらじゃないと、誰も元気にできないんだって。一番大切なこと、昌真が教えてくれた。今日であたし、本当のアイドルになれた。昌真を元気にできたから、あたしは昌真のアイドルになれた。そうだよね?」


「オープニングでセンターやれるから……それで今日、俺にどうしても来いって言ったのか?」


「ううん、違うよ。今日のセンターはプロデューサーに直訴したんだ。どうしてもやらせて下さいって。死ぬ気でやるんだったらやらせてやる、って言われて、だからあたし死ぬ気でやったの! でも、あたしが今日どうしても昌真にライブを見せたかったのはそんな理由じゃないんだ。今日、昌真にどうしても来て欲しかったのは、今日が昌真の学園祭前の最後のライブだったから」


「俺の学園祭……薫陶祭のことか? それとライブに何の関係が……」


「あのね。今日、昌真がライブ観に来てくれて、あたしを見て元気になってくれたら、ずっと言おうと思ってたことがあるの」


 そう言ってあやかは昌真の腕から逃れ、ふらつきながら昌真の真向かいに立った。燃えるような瞳で昌真を見つめ、一息に言った。


「昌真バンドやりなよ!」


 予想もしなかったあやかの言葉に、昌真は絶句した。そんな昌真に畳み掛けるように、あやかはなおも続けた。


「学園祭まだでしょ? だったらまだ間に合うよ! 喧嘩しちゃったバンドの人たちにゴメンって謝って……そしたら学園祭でライブできるよ! 今度はあたしが昌真のライブ観に行くよ! あたし昌真が歌うの聴きたいよ! 昌真がギター弾くの聴きたいよ!」


「……できるわけないだろ、そんなの」


「できるよ! あたし、昌真がギター弾きたくてしょうがないのわかってたよ! 歌いたくて、曲作りたくてしょうがないのわかってたよ! きっと昌真のことだから高岡に間違われたくないってだけじゃなくて、何か事情があるんだよね? すっごくやりたいことやらないで、やりたいって気持ちに蓋までして……でも! それってきっと違うよ! やりたいことやらなきゃダメだよ!」


 消え入るようなか細い声――けれどもその声は昌真の胸を激しく揺さぶった。あやかの言葉は混じりけのない昌真へのエールだった。だが……だからこそ昌真はその言葉から逃れることができない。


「あのな、何の事情も知らないで――」


「何の事情も知らないよ! けど、昌真のことは知ってるから! 昌真が音楽やりたくて、でもやれなくて苦しんでるってこと知ってるから! 他の人が昌真のこと別の誰かと間違えてもあたしは絶対に間違えないから! あたし、昌真の歌が聴きたいから!」


 そう言って崩れ落ちそうになるあやかの身体を、昌真は再び抱き留めた。


 荒い息をつく両肩をぎこちなく支えながら昌真は――なぜだろう、自分の中でおりのようによどんでいた思いが急速に別のものに変わってゆくのを感じた。


 ……あやかの言う通りだ、と素直にそう思った。


 俺が曲を書いても高岡のそれをなぞるだけ、高岡がいるから俺はプロになれない――それがどうしたというのだ? 俺が俺の音楽をやりたいという気持ちと、何の関係があるというのだ?


 いつかプロになりたいと夢見ていた、そのことに間違いはない。だが俺はプロになるために音楽をやっていたんじゃない。


 やりたい音楽があったから、自分の音楽を聴いてもらいたかったからやっていた――そのことを、俺は忘れていた。


 たった一人聴いてくれる人がいればいい。あやかのためだけに歌うのだっていい。これまでとは違う気持ちで、俺はまた音楽に向き合える。薫陶祭にライブをやるのは無理でも、きっといつかは――


「その顔」


「え?」


「昌真のその顔が見たかったんだ」


「……どんな顔だよ」


「やさしくてほわんとした顔。張り詰めてる顔もかっこよくていいけど、やっぱり昌真はその顔でなくちゃ」


「ライブのときのあやかの顔も、すっごく良かったぞ」


「やっぱり?」


「ああ、最高だった。俺もずっと、あやかのあの顔が見たかった」


「昌真のおかげだよ」


「だったら、俺の方はあやかのおかげ」


「うん。あたしたち、けっこういいパートナー?」


「かもな」


 冗談めかして言ったあと、昌真はあやかを抱き留める手を離そうとして――離すことができなかった。


 腕の中のあやかと目が合った。汗まみれの疲れ切った顔で、あやかは昌真ににっこりと微笑みかけた。


 不意に、昌真の胸の奥に温かな感覚がおこった。その感覚は血流にのって全身の隅々まで運ばれてゆく。その感覚が――目に映る人の顔がぼんやりと光を帯びて見えるようなこの感情が何と呼ばれるものであるか、そのことに昌真は気づいた。


 反射的にあやかから目をそらそうとした。だが、そこであやかの手がそっと昌真の腕を掴んだ。心の奥底まで覗き込むようなふたつの眼差しが昌真をとらえた。


 うすく開かれたその唇は震えている。それを見つめる自分の唇も、きっと。


 二人の周りで、時間がその動きを止めた。


 もう何も考えられなくなった頭で、昌真は吸い寄せられるようにあやかの唇に自分のそれを近づけた――


「……っ!」


 突然の閃光に、昌真は我に返った。


 閃光は立て続けに昌真たちを襲い、忙しないシャッター音がそれに引き続く。呆然とする昌真たちの目に、望遠鏡のようなレンズのついた一眼レフを手に走り去る男の姿が映った。


「……ねえ、あれなに?」


 あやかの震える声に、昌真は応えられなかった。


 ――これは大変なことになる。放心の中に昌真はそう思った。

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