023 懸命のラストステージ(2)
「……君、こんなところでどうしたの?」
驚いて顔を向けると、気遣わしげにこちらを見るおじさんと目が合った。年の頃は四十……あるいは五十がらみといったところか。頭にバンダナを巻き、誰かわからないがメンバーのプリントTシャツを着てリュックを背負っている。だいぶ気合いの入ったその風体からすると、どうやら会場のスタッフではなさそうだ。
「……ちょっと道に迷っちゃって」
「あ、そうなの? たしかにねえ。こっちまで入ってくるとわかんないからねえ、この建物」
うんうんと頷きながらそう言っておじさんは昌真に近づいてくる。悪い人ではなさそうだが、いったいなぜ俺に声をかけてきたのだろう……そう思って少し身構える昌真に、おじさんは壮年らしいニカッとした笑みを浮かべて言った。
「初めてでしょ」
「え?」
「ロスジェネのライブ観に来るの。初めて?」
「あ……はい。初めてです」
「ようこそ!」
そう言って差し出されたおじさんの手を、昌真は思わず握った。どうして俺はこの人と握手などしているのだろう……だがそんな昌真の胸の内などお構いなしに、ほとんど昌真の手を引くようにしておじさんは歩き始めた。
「そういうことなら準備しないと! ほら、最初って大事だから!」
「あ……ちょっと」
――そうして昌真はおじさんに連れられ、ライブを観るために必要なアイテムとやらを買い求めさせられるハメになった。
限定グッズの販売が一区切りついたのか、建物の中の喧噪はさっきよりだいぶ落ち着いており、おじさんに引き回されて歩く分にはもうそれほどのストレスではなかった。「どうしても必要!」と言われて買うことになったグッズもペンライトとうちわくらいで、経済的負担があったわけではない。むしろこのおじさんはなぜ俺のような見ず知らずの男を相手にこんな親身になって世話を焼いてくれるのかと、そっちの方が昌真には気になった。
やがてロスジェネシアターガイダンスが一段落すると、おじさんはベンチに座るよう昌真に勧め、ジュースさえ奢ってくれた。これにはさすがに昌真も恐縮した。
「……どうしてこんな親切にしてくれるんですか?」
「ん? だって君、ライブ初めてなんだろ? 良い思い出にして欲しいから」
そんなおじさんの回答に、昌真はますます恐縮してしまう。この人は本当にアイドルが――いや、ロストジェネレーションというグループが好きなんだと、そう思って。
「ねえ君、誰推し?」
「いや……誰推しってわけじゃなくて」
「まだ、推しメンはいない」
「……はい、そうです」
そう言ってすぐ、昌真は自分の発言を後悔する。そんなもの、あやかの名を挙げておけばいいではないか。だがそう思って俯く昌真をどうとったのか、おじさんはうんうんと頷いて口元に笑みを浮かべた。
「ひょっとして、まだ恥ずかしいのかな?」
「え?」
「初めてアイドルのライブに来て、恥ずかしくて落ち着かない。そうなんじゃない?」
「……ええ、まあ」
葛藤しているのは別の理由だが、恥ずかしいは恥ずかしい。こんな場所にいるのを知り合いに見られでもしたらと思うと気が気でないのはたしかだ。おじさんはまた訳知り顔で何度か頷くと、昌真に優しい眼差しを向けて言った。
「僕も最初はそうだった。ドルオタだって周りに知られるのが嫌でね。おっきなマスクをしてきたり、ハードゲイみたいなサングラスかけてきたり」
「……」
「いい年して恥ずかしいって思いが消えたわけじゃない。けど、好きになっちゃったんだからしょうがないよね」
そう言っておじさんはニカッと笑った。少年のように純粋なその笑顔に、昌真は思わず目をそらした。何となく、自分にはその笑顔を受け止める資格がない気がした。
ロスジェネのファンになったつもりはないし、今後そうなる気もない。ロスジェネのライブに来ることも、おそらく二度とない。親切にしてくれたこのおじさんにも迷惑をかけただけで終わりだ。
……ただどうせ迷惑をかけて終わるなら、もうひとつだけおじさんに教えてもらいたいことがある。
「すみません、ひとつ教えてほしいんですけど」
「ん? 何だい?」
「場所がわからなくて。その、六番出口ってどこですか?」
昌真のその質問に、それまでにこやかだったおじさんは表情を曇らせた。
「ひょっとして出待ち? あまり感心しないなそういうの、僕」
「いや、ライブが終わったあと友達と待ち合わせで……」
「あんな所で待ち合わせるの?」
予想外に鋭いおじさんの追及に、昌真は沈黙した。
……そうか、と今さらのように昌真は悟った。出待ちについて、ロスジェネシアターでは『他のお客様に迷惑となる出待ち行為は控えてください』という文言で自粛を呼びかけている。つまり、良識あるファンにとって出待ちはタブーだったのだ。おじさんの厚意に甘えて不愉快な質問をしてしまった……そう思って後悔する昌真の耳に、どこか素っ気ない調子のおじさんの声が届いた。
「さっき、君がいたところだよ」
「え?」
「僕が君に声をかけたところ。あそこの前にあったのが六番出口」
「……」
「出待ちするなとは言わないけど、マナーは大切にね。推しの子に嫌な思いさせちゃったら本末転倒でしょ」
おじさんはそう言って苦笑いで昌真を見た。仕方のない子だな、とその目が言っている気がして、昌真は泣きたくなった。
出待ちどころではない。当のアイドルの一人と一緒に事にあたるとはいえ、自分たちがやろうとしている行為はこのおじさんのように善良なファンに対する裏切りに他ならない。
……あやかと落ち合えたとしても復讐などもうやめよう。立案者の佐倉には悪いが、俺はもうアイドルにもアイドルを愛する人たちにも、高岡への復讐などというくだらないことのために迷惑をかけたくない……。
「で、誰なの?」
「……」
「さっきいないって言ってたけど本当は誰かいるんでしょ、推しメン」
「……あやかです」
「え? 亞鵺伽推しなの? 珍しいね! あ……ごめん、失礼なこと言っちゃった」
「いえ、いいんです。人気ないのわかってるし」
「どうして亞鵺伽推しなの?」
「いつも一生懸命だから」
「……」
「不器用で、テレビとかじゃ愛想ない顔しか見せられないけど、本当はあんなんじゃないんです。あいつはきっと、もっとずっと輝ける。だから俺……」
そこで昌真は、はっと我に返った。調子に乗っていらないことまで喋ってしまった。だがおじさんは感心したようにうんうんと頷いたあと、またさっきのように晴れやかな笑みを見せて言った。
「見ている人は見ているんだね。僕もそう思うよ。僕はレンちゃん推しなんだけど、亞鵺伽がもっと輝けるってのには同意だな」
「……」
「さて、そろそろ時間だ。僕はこのへんで失礼させてもらおうかな」
そう言っておじさんはベンチから立ち上がった。演奏会場であるホールへ向かおうとするおじさんの背中に、昌真は思わず声をかけた。
「その……色々ありがとうございました!」
「いいっていいって。……あれ? 何だろ。そう言えば君の顔どっかで……」
「……いや、人違いじゃないですか?」
「そっか、じゃあ、良い初ライブを!」
もう一度ニカッと笑って、おじさんは去っていった。昌真はもう一度ベンチに座り直し、左目の目尻に貼りつけていたつけぼくろに爪を立てて剥がした。
◇ ◇ ◇
――非常口のランプだけが点る漆黒のホールに昌真は息をつめ、その時を待っていた。
ざわついていた観客たちも開演五分前を告げるブザーが鳴り、照明が落ちたあたりから徐々に静かになり、今は静寂の中に緞帳が上がるのを待っている。ライブ開演前のこの張り詰めた空気は、アイドルでも他のアーティストでも変わらないといったところか。
あやかが用意してくれた席はステージのほぼ中央、前から二番目の列というまさに特等席だった。昌真としては最後まで席について観ているつもりだったのだが、この席でそんなことをしていては後ろで観ているファンに申し訳が立たない。ノリ方もペンライトの振り方もわからないし、曲のどこでかけ声をかければいいかもわからない。だがせめて他の人たちに合わせて席を立ち、周りの真似をしてファンらしく振る舞うことくらいはしよう――
そんな決意を固める昌真の鼓膜を、突如として巻き起こったファンの声援が震わせた。軽快な8ビートの旋律――昌真でさえ知っているロスジェネの代表曲『O.K.コラルでつかまえて』のイントロに合わせ、緞帳が上がり始めたのだ。
――だが、緞帳が上がりきる前に歓声とは少し調子の違う「おおっ!」というどよめきが周囲から起こった。
そのどよめきとほぼ同時に、昌真は我知らず立ち上がっていた。
整然とステージに並ぶロスジェネのメンバー達――そのセンターにマイクを持って立っていたのは、あやかだったのだ。
『みんなー! こんにちはー!』
あやかのマイクから声が飛ぶ。だが会場の反応はまばらで、盛り上がる様子はない。……それもそのはずだ。あやかの声は完全に掠れており、ほとんど声になるかならないかといったか細いものだったからだ。
マイクで拾っているからどうにか聞き取れる声になっている――事情を知る昌真だけでなく、誰の耳にもそのことは明らかだった。どう反応していいかわからない……そんな周囲の声が聞こえてくるようだ。そんな声なき声に応えるように、またあやかの声がホールに響いた。
『夏の全国ツアー最終日! ここまで全力で走ってきたよー! 色んなところで歌ってきましたー! 歌いすぎて声出なくなっちゃったー!』
またしても会場の反応はない。録音に合わせて口パクで踊るだけのアイドルのライブに『歌いすぎて声出なくなっちゃった』も何もない。笑えばいいのか、それとも……会場のファンが困惑に包まれていることは異分子である昌真にもわかった。
照明の不具合かそういった演出なのか、あやかの表情は昌真の席からははっきりとは見えない。全国ツアーの最終日にセンターでオープニングマイク――これがどんな意味を持つのか、アイドルを知らない昌真にもわかる。
「亞鵺伽ー、今日はどうしたー」と、声援ともヤジともつかない声が飛んだ。あやかの名を呼ぶ幾つかの声がそれに続く。これはまずいんじゃないか……期せずして会場とひとつになった昌真の心の声を、あやかの絶叫が掻き消した。
『あたしはッ!』
闇をつんざくようなあやかの声に、鋭いハウリングの音が続いた。
『あたしは今日! ここに来てくれた人を元気にしたい!』
必死の絶叫に静まり返るホール。だがその中にあって、あやかの声は昌真の胸に深々と突き刺さった。あやかは今、暗闇の中にいる俺にこのマイクでうったえている――そう思って、ドクンと心臓が跳ねた。
『自分が元気じゃなくても! 誰かを元気にできるんだって証明したい!』
「亞鵺伽ー」という声があがった。最初ひとつだったその声はやがて会場のそこかしこから次々にかかり、何本もの糸がひとつに集まるようにあやかに向け飛んでいった。
『声が出なくても! 歌が歌えなくてもライブできる! そんなあたしたちって何なんだろってずっと考えてた! あたしたちって本当にアイドルなのかなってずっとずっと考えてた!』
最初は小さかった歓声。だが最早、あやかを呼ぶ声は大きなうねりとなって、会場全体をどこかへ運んでゆこうとしている。「あやか」と、昌真は小さく呟いた。そうしてすぐ、周りの人達がそうしているように、声を限りにその人の名前を叫んでいた。
「あやかあッ! あやか頑張れえッ!」
『でも! 今日ここでわかる気がする! アイドルって何なのか! その答え、出せそうな気がする! 今日ここに来てくれた人を元気にできそうな気がする! みんな見てて! あたし……あたしたち最後まで全力で頑張るから!』
最後の絶叫――そしてあやかは手にしていたマイクを大きく振りかぶり、会場に向かって投げた。マイクは空中で音を立てて爆ぜ、紙吹雪となってファンの上に降り注いだ。
同時に照明が転換した。あやか一人を浮かび上がらせていたライトがぱっとステージ全体に展開し、咲き乱れる幾つもの
『――! ――!』
だが演奏が始まっても、昌真の耳に曲の内容は入ってこなかった。
ステージに舞い踊るアイドルたちの姿も、一人のそれを除いてまったく目に入らなかった。
――ただあやかの姿だけがあった。ぼんやりした光をまとって浮かぶあやかの笑顔だけがあった。
こちらまで楽しくなってくるような満面の笑顔。
片目をつむって見せる挑発的な笑顔。
憂いを帯びたどこか寂しげな笑顔。
いつも俺と他愛もない話をするときに見せていた屈託のない無邪気な笑顔――
(――この笑顔だ)
どの笑顔も、昌真が見たいと願っていた笑顔だった。テレビカメラの前で、あるいはこのホールに詰めかけているような大勢のファンの前で、その顔に咲かせて欲しいと心から願っていた笑顔だった。
その笑顔を見つめながら、昌真はあやかの体調のことを忘れた。昨日の夜あやかと衝突したことも、高岡への復讐のことも、自分があやかと特別な関係にあることさえ、すべて忘れた。
ライブが続いている間、昌真の中には一人のアイドルだけがいた。
ずっと前から知っている――だがおそらく、今日ここに生まれたばかりのアイドル――藤原亞鵺伽だけが、昌真の意識に何かをうったえかけてくるものの全てで、周りのファンたちと同じように声を張り上げ、ペンライトを振ってその姿に見入った。
あっという間に全ての曲が終わって、鳴り止まない三度目のアンコールの拍手の中、最高潮に達したファンの合間を縫って昌真は会場を飛び出した。
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