022 懸命のラストステージ(1)

「……ったく、どうなっても知らねえからな本当に」


 待ちに待ったライブ当日。けれども会場であるロスジェネシアターに向かう昌真の足取りは重かった。


 原因は昨夜の電話である。


 生放送で観たあやかの様子が気にかかり、何度メールを送っても大丈夫としか返してこないあやかに業を煮やした昌真は、はじめて自分からあやかに電話をかけた。最初のコールは着信して即切りで、二度目のコールにはいつまで経っても出なかった。少し時間を置いて三度目のコールで出たあやかの状態は、昌真の予想以上に酷い有様だった。


 まず、声が出ない。タチの悪い風邪を引いたとき特有の掠れ声で、だが何でもないというように空々しい元気ぶりをアピールしてくる。それだけでもライブ前のアイドルとしては充分に深刻だが、昌真と電話する短い時間にあやかは実に五十三回もの咳をした。あやかの状態を客観的に把握するために昌真はノートの端に『正』の字のメモをとりながら数えていたのだ。……完全に夏風邪である。


 体調が悪いならライブを休め、無理して出ることはないと説得する昌真に対し、最初のうち「大丈夫」しか言わなかったあやかもやがて馬脚を現し、そんな言い方しなくたっていいじゃん、どうせ口パクだし声出なくてもいいじゃん、最終日なんだから無理したっていいじゃん……と、ろくに出ない声でムキになって反論してくる。


 本当ならこんな電話であやかに喉を使わせるのも良くない――そう思いながらも昌真はあやかにライブへの出演を断念させようと躍起になった。


 あやかの身体を慮ったというのもあるが、それだけではない。巧妙な誘導尋問により、あやかが体調を押して出演にこだわるのは『昌真が観に来るから』だということをその口から引き出したのだ。女優だの何だのと言いながら、あやかはこうしたことで嘘をつくことができない。


 だが、それならば話は早い。今度また別のライブを観に行く、絶対に行くと約束する――そう言って説得する方針に切り替えた。それで丸く収まるはずだった。


 けれどもどういうわけかあやかは首を縦に振らない。明日のライブに来て、明日じゃないとダメなの……と、泣きそうな声で懇願してくる。そんなのいつだっていいじゃないか、なぜ明日でなければダメなんだ? そんな昌真の問いにあやかは口をつぐんだ。


 そこからはほぼ口論だった。あやかの体調を気遣っていたことも忘れ、昌真はただあやかをライブに出させないためにあらゆる説得を試みた。しまいには「あやかが出ようと出るまいと、俺は明日のライブには行かない」とまで言い切った。その最後通牒に、あやかはほとんど悲痛と言っていい声を出した。


『そんなのだよ! 絶対来て!』


「行かないって言ってんだろ」


『お願いだから来て! 昌真が来てくんなかったら……』


「俺が来なかったら? もう二度と口聞いてあげない?」


『いいから来て! 絶対来て! 約束だかんね! 絶対来てくんなきゃだかんね――』


 ――電話はそこで切れた。スマホをベッドに放り投げ、内臓をしぼり出すような深い溜息をつくと、昌真は机の中にしまってあったライブのチケットを取り出した。怒りに任せてそれを破り捨てようとし、だがすんでのところで思い留まってもう一度机の中にしまった――


「――で、結局は観に行く、と。相変わらずよええなあ、俺……」


 観に行こうか行くまいか家を出る直前まで悩んでいたが、最終的には折れた。


 あの剣幕ではあやかは這ってでもステージに上がるだろう。もともと昌真がライブを観に行かないなどと言い出したのはそのライブへの出演をあやかに諦めさせるためであり、あやかが出ているのに観に行かないのではただの嫌がらせ――と言うより、昌真が意地を張っただけということになる。


 そして昌真が来なかったとわかれば、あやかとの関係もそれっきりになるだろう。いわゆる喧嘩別れというやつだ。最悪、それでもいいと昌真は思ったが、ここまで一緒にやってきたのに終わりがそれではさすがに後味が悪い。……そんな諸々を考慮して、昌真は当初の予定通りライブへの参戦を決めたのである。


 ……だからと言って昌真の気持ちが晴れたわけではない。強情そのものだった昨夜のあやかを思うとこのまま踵を返したい気持ちは今もあるし、何だかんだでその強情に負けた自分を情けなくも感じる。さっさと高岡への復讐を果たしてあんなわけのわからない女とは手を切りたい、とそんなことを思いさえする。


 だがその一方で、純粋にあやかの身体を心配する気持ちもたしかにあって、自分が観に行くからなどという理由で無理をしてほしくないという思いもまた強い。なぜ別の日のライブではいけないのか、今日のライブに何があるというのか……それを知りたいと思う自分がどこにもいないと言えば嘘になる。


 頭の中はぐちゃぐちゃで、心にかかるモヤモヤは消えない。少なくともライブを楽しめるような心境ではない……そう思いながら会場に向かおうとする足を止めない自分を、昌真はたまらなく滑稽なものに感じた。


「……てか、そもそも俺が行くの何のためだよ」


 ――そうして昌真は、自分がいつの間にか本来の目的を見失っていたことに気づいた。


 今日、昌真がロスジェネシアターに赴くのはライブを楽しむためではない。それはあくまでおまけで、本番はそのライブがはねた後の茶番劇――佐倉マキ・プロデュースによる高岡への復讐作戦にある。


 実際、佐倉を騙そうとしたあの日と同じく昌真は本物の涙ぼくろを隠し、左目につけぼくろをしている。頭にニット帽こそかぶっていないがジーンズのポケットに突っ込んではきており、いつでも高岡涼馬に成りすますことが可能だ。


 ライブの開演は午後五時で、終わるのは七時かそのあたり。なんとも微妙なその上演時間はロスジェネのメンバーに未成年が多いことを考慮したものだということだが、現場を目撃した人たちにソーシャルメディアで広めてもらうという作戦の性質を考えると、まだ日があるうちにライブが終わってくれるのは都合がいい。


 ロスジェネシアターでの出待ちは表向きNGとされているが、それでもやるファンが後を絶たないので事実上黙認されているのだという。穴場として最近クローズアップされてきたのが六番出口。スタッフの通用口として使われていたが、そこから抜けてゆくメンバーがちらほらいるということで知る人ぞ知る出待ちのメッカとなりつつある。


 ただし、ライブを終えたロスジェネのメンバーがその出口から出てくるのはもっぱら九時以降で、日付が変わる頃になることも珍しくない。だから出待ちのファンが六番出口にたむろし始めるのは早くとも八時で、七時前後にはそんな裏事情など知らないライブ帰りのファンがまばらにいるかいないか――その時間を狙って一芝居打つというのが昌真たちの計画だった。


 出待ちなどするコアなファンの前で昌真があやかに迫るといった行為に出れば何が起きるかわからない。下手をすれば暴力事件になるし、出待ちの時間帯はそうならないようにスタッフも目を光らせているのだという。だが、ライブが終わってすぐなら監視の目もそれほどではない。本来、メンバーが出てくるはずのない時間になぜか顔を出した藤原亞鵺伽と、同じくなぜかその場にいる高岡涼馬との間で繰り広げられる『無理矢理キスしようとしてバチーン』を、あくまで偶然が生み出した観衆であるライトなファンに目撃していただき、ウェブの海に放ってもらう――それが作戦の概要だった。


 そのためにあやかはライブが終わってすぐ、急用ができたと言って六番出口から出てくる手筈になっている。昌真も終演後すぐその場所に向かい、あまりにも人がいなさ過ぎたら高岡涼馬として注目を集めて人を呼び寄せておき、六番出口からあやかが出てくるのを待つ――


「……どうでもいい。ほんどうでもいいわそんなの」


 思わずそんな独り言を吐き捨てて、昌真はまたひとつ溜息をついた。


 ……はっきり言って今さらだ。あんな風にあやかと衝突しておいて、高岡への復讐も何もない。息のあった演技などできるわけがないし、その場で昨夜の口論が再燃するおそれさえある。


 ……そう、一時的に冷戦状態となっているだけで、目下、昌真とあやかは喧嘩の真っ最中なのだ。これまで、小競り合いのようなものは何度もあった。けれども二人が真っ向からぶつかり合ったのは、これが初めてかも知れない。……更に付け加えれば、昌真にとって異性との真剣な喧嘩は、妹とのそれを別にすれば生まれて初めてだった。この土壇場へ来てそんな想定外の事態に遭遇し、正直どうすればいいのかわからない。何をどうすればいいのか本当にわからないのだ。


 ……もうなるようになればいい。何もかもどうにでもなれ。そんな投げやりな内心の呟きと、昌真が足を止めるのとが同時だった。


 コロニアル様式を思わせる白亜の建物と、開場を待つ長い人の列――ロストジェネレーションの本拠地である『古き良き紳士淑女のための迎賓館』通称ロスジェネシアターにたどり着いたのである。


◇ ◇ ◇


「ああもう、何だよ……何がどうなってんだよ、ここ」


 開場時間になり、人波にのまれてロスジェネシアターに踏み入った昌真は、しばらくもしないうちに音を上げた。


 これまで経験したことのない異様な熱気にあてられたというのもあるが、単純に人に酔ったというのが大きい。チケットは席指定なのになぜ長い列を作っているのかという昌真の疑問は、会場に入ってすぐ明らかになった。このツアー限定のグッズが販売されるということで、それを買うためのものだったのだ。もとより昌真はそんなグッズには毛ほどの興味もない。だがここでしか手に入らないお宝アイテムをゲットしようとするファンにより建物の中はさながら戦場のごとき有様であり、昌真は這々の体で逃げ出さざるを得なかった。


 ……それに、考えてみればそもそも最初から中に入ることなどなかったのだ。他の人につられてうっかり入ってしまったが、席は確保できているのだから開演まで建物の中に用はない。確認しなければならないのは建物の外――あやかと落ち合うことになっている六番出口の位置だ。


 そう思って建物のぐるりを一回りしてみたのだがどこが六番出口かということはもちろん建物全体がどんな構造になっているのかさえさっぱりわからない。会場の人に訊こうにも、一般客が通ることのないスタッフオンリーの通用口の場所は訊きづらく、その場所がわからないままフェンス際にへたり込む体たらくである。


 ……ぶっちゃけ疲れた。ライブが始まる前にこれでは先が思いやられる。だが六番出口がどこかだけは確認しておかないと――そう思って、だがそこで昌真の思考は立ち止まった。


「……て言うか、ライブが終わったあと俺がそこ行く意味あんのか?」


 あやかに対する最低限の義理を果たすためライブは観に来た。それはいいだろう。だがそのあとの小芝居についてはもういいのではないか……いや、もういい。大切なステージに立つなと言って諫めた自分が、心底どうでもいい存在になりつつある高岡への復讐のためにあやかに無理をさせることなどできるわけがない。


 今からでもそれをあやかに伝えられれば……そう思ってスマホを取り出しかけ、けれどもすぐまたポケットにしまう。今のあやかにメールなど見ている暇があるとは思えなかったからだ。……約束通り、ライブが終わればあいつはすぐにその六番出口から出てくるだろう。そこにいるべき者の姿がなければ、必死になって探しまわるに違いない。


 ……ダメだ、やはりどうしても六番出口がどこか確認しておかなければならない。そう思ってまた腰を上げる昌真の耳に、ふと横合いから穏やかな声が届いた。

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