021 熱情のカウンセリング(2)

 ……話がまったく見えてこない。


 だがレナの表情は真に迫っていて、とてもいい加減なことを言っているようには見えない。


「俺がその……レナに何か言ったの?」


「中二の終わり頃や。転校してきてからずっといじめられとって、にっちもさっちもいかんようになってもうて、もうどないしよ思っとったところにショーマが喝を入れてくれはったんや。そんなもんと戦っていたかてしょうもない、って。時間が解決してくれはる問題なんやから逃げ続けたらええんや、って。ショーマのその言葉でうちはあの底なし沼から抜け出せたんや! ショーマがそう言ってくれはったから今のうちがあるんや!」


 端整な顔を歪ませてレナは必死にうったえてくる。叩きつけるようなその言葉は、だがどうやら怒っているのではなく俺に対しての感謝を述べているようだ。


 ……なるほど当時レナの置かれた状況を考えれば、それは至極妥当なアドバイスと言える。


 卒業まで逃げ切ってしまえばレナをいじめていたような連中が薫ヶ丘に入れるとも思えない。いかにも俺が口にしそうな論理的いじめの解決方法だ。だがひとつだけわからないのは――


「……ごめん。レナにそんなこと言ったの、俺ぜんぜん覚えてない」


「ショーマが覚えてへんのは薄々わかっとった。せやけどうちは忘れられへん。ショーマはうちの命の恩人やってん。せやからうち、ショーマが傷ついてんの見てほっとかれへん」


 そこで初めて、昌真はレナが自分を励まそうとしてくれているのだということに気づいた。


 体育館でステージを眺めているときよっぽど酷い顔をしていたのだろう。……だが、それこそどうしようもないことだ。レナに言われなくても自分がドツボに嵌っていることくらい、誰でもない自分が一番よくわかっている。


「……けど、俺は別にいじめられてるわけじゃないから」


「いじめられてるやんか! よくわからん理不尽なもんに!」


 そのレナの絶叫に昌真ははっとした。反撃しようのない、しても倒しようのないものを相手に戦っている……その構図において、自分の置かれた状況はいじめと変わらないのか……。


「そんなもんと戦ってたかてしょうもないって! このままやったらショーマの心壊れてまうで! 逃げてもええんや! なんぼでも遠くまで離れたらええ! 少なくとも相手に近づいて傷口に塩塗るようなことせん方がええんや!」


「逃げるって……何から逃げろってんだよ」


「全部や! ショーマを傷つけようとするもん全部!」


「……いや、けど俺、さすがにそこまで追い詰められてないし」


「だったら何で泣いてはんのや!」


「え……うわ! なんだこれ!?」


 反射的に頬に手をやり、そこがべったりと湿りを帯びていることを知って昌真は思わず声をあげた。


 慌てて手の甲でそれを拭う。けれども拭いきれないうちにレナの両手がガッと力強く昌真の肩を掴んだ。触れれば切れるような真剣な目が、真正面から昌真を見据えた。


「一人でよう逃げんのやったらうちが一緒に逃げたる。さっきも言うたやん。ショーマは命の恩人やってん。あんときうちがどんだけ苦しかったか……逃げてもええんやってショーマに言われてうちがどんだけ救われたか。だから今度はうちの番や! あんときの恩、ここで返させてや! 今度はうちがショーマのこと助けたる! うちにできることやったら何でもしたる!」


 昌真の両肩を揺さぶるようにしてうったえるレナの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。嵐に巻き込まれたような気分でいた昌真は、それで少し冷静になった。


「……少し、座ろうか」


 肩を掴んでいたレナの手からそっと逃れて、昌真は近くにあった木のベンチに腰をおろした。ほどなくしてレナもそれに倣う。少し間をあけ並んでベンチに腰掛けた二人は、無言のまましばらく動かなかった。


 ……しかし、まさか自分でも気づかないうちに泣くほど追い詰められていたとは。


 クールダウンした頭で理解した現実に、昌真は改めて動揺を覚えた。騒ぎ立てるほどのことはない、そこまで深刻な話じゃない――思い返してみれば自分が口にしたそれは、精神を病んでゆく過程にある人の常套句だ。


 ……なるほど、と思った。取り返しのつかないところまでいって初めて自分が追い詰められていたことを理解するというのはメンヘルではよくある話だという。周りの人に指摘されてそれに気づき、危ないところで事なきを得るというのも。


 ……自覚無きままの涙腺崩壊などという事態が我が身に起こったことを考えれば、精神を病む一歩手前……いや、もう二、三歩足を踏み入れていると思った方がいい。


 だが、まだ引き返すことはできるはずだ。今から対策を講じれば病名がつくようなことにはきっとならない。……ならないと信じてやっていくしかない。


「……」


 それにしても……と、昌真はそのことに気づかせてくれた人について考えた。


 どうやら俺はレナのことを誤解していたようだ。クールで他人に興味がない薫高生くんこうせいの代表格だと思っていたが、こんな友情に篤いナイスガイ――もといナイスガールだとは思ってもみなかった。


 中学のときに俺がレナにかけたという言葉――詳しく聞いた今でも本当に自分がそんな言葉をかけたのか思い出せないが、それを恩義に感じてくれていたというのはあるのだろう。だがそうだとしても、レナが今このタイミングで俺のことを心から案じ、野放しにしておいてはダメだと真剣に忠告してくれているのは明らかだ。


 そのことを思って、昌真は羞恥心を捨てることにした。泣くほど追い詰められた哀れな男として、素直にレナの話を聞いてみる気になったのだ。


「……レナはその、どうやって逃げたんだ?」


「ショーマに教えてもろた通りにしただけや」


「……と言うと?」


「勉強に逃げてん。うちいじめとった子たちのはいられへん高校に入るために」


「……なるほど」


 実によくわかる話だった。当時のレナを取り巻く状況を考えればそれは極めて合理的な逃げ道だ。そのベクトルは真っ直ぐに彼女の言う『よくわからん理不尽なもん』から離れる方向に向いている。そしてそれはとりもなおさず、昌真がこの夏を乗り切るため試みた逃避法でもある。


 だが結果だけみれば、それは昌真にとって必ずしも有効な逃げ道ではなかった。気が紛れたのは事実だが、それ以上でもそれ以下でもない。……おそらくその逃避法ではダメなのだ。何か別の方法を考えなければならない――


 そんな昌真の心の声が届いたかのように、レナがおずおずとその『別の方法』について切り出した。


「……あと、もひとつ」


「え?」


「こっちは口にすんの恥ずかしいねんけど」


 レナはそこでいったん区切り、昌真に顔を向けた。真剣なふたつの瞳がじっと昌真を見据えた。


「恋に逃げてん」


「……ごめん、もう一度お願い」


「だから、恋に逃げてん!」


こぉい!?」


「ちょ……なんでそんな驚くん。うちが恋したらあかんの?」


 半泣きでそう言うと、レナは真っ赤な顔をして俯いてしまう。ぐわ、可愛い――ではなく!


「ああいや、そういうんじゃなくて……」


 慌てて取り繕おうとして、だがその先が続かない。レナには悪いが正直、意外だったというのは否めない。


 だが、考えてみればそれは鉄板の逃避法だ。彼氏がいたとは全然知らなかったが、レナのような美人であれば彼氏の一人や二人いても何の不思議もない。いつも傍で励ましてくれる彼氏がいたのであれば、レナが中学時代のいじめを乗り越えられたのも頷ける。


 だがそうなるとレナの彼氏というのは西中の出身者ということになるのだろうか。


 西中出身の男子となるとかなり限られてくる。おおっぴらに付き合っている彼女がいたコータローはあり得ない。そうなると山口か大原――いや、あいつらも彼女持ちだ。


 ……今初めて切ない事実に気づいたが、西中から薫ヶ丘に来た男子で彼女がいないのは俺だけだ。


 しかしそれだとレナの彼氏というのは……いや、違う。薫ヶ丘に進んだやつと決めつけて考える必要はない。中学のとき付き合い始めたのであれば、高校が別でも男女交際など余裕で成立する。むしろ校内でレナが男子と喋っている姿など見たことがないのだからそう考えるのが自然だ。


 だがそうなるとレナの恋人当てクイズは暗礁に乗り上げる。先輩や後輩の可能性すらあるのだ。その中から密かにレナと付き合っていた男を探し当てるなど、その辺の事情に疎かった俺にとっては不可能に近い――


「……なに黙ってんねん」


「いや、ちょっと驚いて。レナに彼氏がいたとか全然知らなかったから」


「い!」


「い?」


「い……いいい、いいひんわ!」


「え?」


「なに勘違いしてはんのや! 彼氏なんかいいひん! そんなん誰も言うてへんやん! ずっと片想いやってん!」


「あ、ごめん……そうだったのか」


 そうか、盲点だった。たしかに片恋も立派な恋。恋をしていたイコール彼氏がいたという考えそのものが間違っていたのだ。


「……つか、片想いでもその、レナの言う逃げ場所ってやつになるの?」


「なる!」


「……そうか」


 怒ったような顔を真っ赤にして力強くレナは断言する。


 ……なるほど、レナがこれだけはっきり言うのだから片想いでも十分な逃げ場所になるのだろう。だとすればハードルはぐっと下がる。彼女をつくるとなると雲をつかむような話だが、想い人を見つければいいだけならきっと俺にもできる。


 ……そう、思い返してみれば俺は一時期、あやかとの電話に逃げていた。だがそれはあくまで疑似恋愛……いや疑似恋愛にすらならないごっこ遊びだった。あれではダメだったのだ。少なくとも俺の側では本気で相手のことを好きにならなければいけない。


 ともあれ、心が壊れてからでは遅い。隠していた片想いを打ち明けてまで忠告してくれた友のためにも、俺は今ここで自分の問題に向き合わなければならない。


 戦っても意味のない相手から逃げるために恋をする――不純な動機には違いない。ただ少し見方を変えれば、これまで目を背けてきた恋愛というものについて考えるきっかけをもらったとも言える。いつかは自分も、と漠然と考えていた恋人をつくるため真剣に動き出すべき時が来た――それだけのことだ。


 ……だが、そのためにはまず清算しておかなければならない関係がある。言うまでもない、某アイドルとのあやしい関係だ。そしてその終局はもう目前に迫っている――


「……ありがと。今日レナが言ってくれたこと、真面目に考えてみる」


「え……」


「俺に恋愛とか、そんなのできるかわからないけど、片想いでもいいってことならまずは相手探すところから始めてみるよ」


「いや……だからな、だからうちが言いたかったんはつまり……」


「ん? なに?」


「……なんもないわ」


 近くの木で蝉がけたたましい声で鳴き始めた。


 木立の向こうの体育館では、さっき昌真たちが観ていたバンドの演奏がまだ続いているようだった。

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