020 熱情のカウンセリング(1)

 翌日は登校日だった。ただ登校日と言っても学校側のそれではなく、生徒が自主的に登校することが認められた日である。


 夏休みが明けてすぐにある薫ヶ丘高校最大の行事、薫陶祭くんとうさいに向けた準備のために、毎年この時期になると生徒会が学校側に申請して登校の許可をもらうのだ。


 ただこのシステムには批判も多い。受験生である三年生にとって夏休みの一日を削られることは決して軽いことではない。その分、勉強が遅れるからだ。


 だったらそもそも文化祭を夏休み明けになど持ってくるな、その前に終わらせることはできないのか、という至極まっとうな議論が持ち上がるわけだが、今日に至るまでその時期は据え置かれたままだ。


 全国の著名な私立進学校の大半が夏休み前に文化祭を終わらせることを考えるとその弊害は小さくないものと思われる。だが得てして公立の進学校というのは、スマートな受験計画などというものとは遠く離れた地平に存在しているのである。


◇ ◇ ◇


 この日の昌真は朝からクラスの出し物の準備だった。昌真のクラスは月並みだがメイド喫茶をやることになっており、当日に接客――つまりはメイドをやる女子と調理を担当する男子の他は、この登校日の準備への参加が義務付けられていたのである。


 そういったわけで、机を端に寄せた教室で看板やら飾り付けやらの製作に勤しんでいるのはどちらかといえば消極的パッシブな面々なのだが、それでも夏休み前と比べると見違えるような変貌を遂げた顔がちらほらいる。


 防具をつけて練習に励んでいたであろう剣道部の高橋はなぜか真っ黒に日焼けしているし、清楚が売りだった茶道部の水瀬さんは何があったのかぱっと見、完全にギャルと化している。


 そんな中にあって昌真は、夏休み前とまったく変わり映えのしない自分を呪わしく思った。どうせ夏休み中カンヅメになって勉強していたんだろう――などと思われているかと思うと苛立ちは更につのる。


 ……いや、実際その通りなのだが、たとえそれが紛れもない事実だったとしても、一夏の経験を積んだであろうクラスメイトたちにそんな目で見られるのは我慢がならないのである。


 ちなみにこのクラス――2年C組における昌真の立ち位置だが、入学以来学年トップに絡み続ける俊英ということで一目置かれており、良く言えば孤高の存在としてクラスの誇りとみなされ、悪く言えば自分達とはレベルの違うお勉強野郎として敬遠されているフシがある。その場のノリで馴れ馴れしく肩を組んでくるようなやつもいないではないが、必要以上に踏み込んでくる者は滅多にいない。


 バンドを解散したのは夏休みが始まるよりずっと前で、その情報はクラスの面子にもまわりきっているはずだが、誰もそれについて触れてこないのがその証拠である。


 要するに、挨拶の延長としての会話を交わす級友はいても、それ以上はいない。昌真にとってそれ以上――本音をぶつけ合える友人ということになると、なんだかんだ言ってもコータローくらいしかいないのである。


 昌真が任された仕事は喫茶店の入り口に掲げる看板のレタリングだった。レタリングブックを拡大コピーしたものをカーボン紙で写し取り、アクリル塗料ではみ出さないように色を塗ってゆく。


 黙々とそんな作業を続けながら、昌真はぼんやりとあやかのことを思い出していた。


 ――特番が終わり自分の部屋に戻った後、昌真はあやかに『体調はどう?』とメールを打った。二分後にあやかから『ちゃんと観ててくれたんだね! 体調は大丈夫!』というレスが返ってきた。


 これはつまり、まったく大丈夫ではない、ということである。本当に大丈夫であれば返ってくるのは『体調ってなに?』というレスになるはずなのだ。


 あいつが大丈夫と言うのだから俺がとやかく言うことではない――そんな風に思いながらも、昌真はどうしても引っかかるものを感じた。


 ……なんだろう、あやかは無理をしている気がする。そしてその無理の理由が自分にあるのではないかと、昌真にはそんな気がしてならないのだった。俺が観に行くと言ったから無理をしてでも出る――自意識過剰かも知れないが、もしあやかがそんなことを思っているのだとしたら、その考えは改めさせなければならない。


 問題のライブは三日後だからコンディションを回復する時間はある。けれども昌真がリサーチした限り今日も明日も明後日も、そのライブの日まであやかのスケジュールは真っ黒なのだ。


◇ ◇ ◇


 メイド喫茶の準備は午前中に終わった。クラスの出し物がそれと決まったときには恥ずかしいだの何だのと言っていた女子のほとんどがおそらくメイド服着たさに当日組にまわった関係上、本日のメンバーは男子率が非常に高く、ダベりもせず作業を進めたことで早く終わったのである。


 もっとも、準備が早く済んだ理由はそれだけではない。時間のある連中が夏休みのうちに進めておいてくれたのだ。レタリングに色をつけている周りでそんな話をしているのを耳にして、そういうことなら俺も手伝いに来れば良かったと昌真は溜息をついた。……それはそれで面白くもない作業だったと思われるが、それでも家にこもりきりで勉強しているよりはマシだった。


 午後までかかると思って用意してきた弁当を一人で食べると、昌真は教室を出た。そのまま帰ろうかと思ったが、自然と足が体育館へと向いていた。


 ……本当ならこの日は昌真にとって大忙しの一日になるはずだった。午前中はさっきまでやっていたメイド喫茶の準備。だが昌真は正午を待たずクラスメイトに頭を下げ、体育館へ走ることになっていたのだ。


 ――正面扉を開け中に入ると、すべての窓に暗幕がおろされた藍色の空間に、フットライトに照らされるステージが浮かび上がっていた。


 冷房のない昼下がりの体育館は茹だるような暑さで、その暑さの中、軽音部の顔ぶれが薫陶祭当日におけるライブのリハーサルを行っているのだ。


「よお、久し振りじゃねえか」


 声のした方を見ると、少し離れた暗がりにコータローが立っていた。……こいつも観に来ていたのか。何となく返事をする気になれずに黙っていると、呼んでもいないのにコータローの方から昌真に近づいてくる。


「ショーマは夏休み何やってたんだ?」


「何やってたんだろうな……まったく」


 力なくそんな呟きがもれた。コータローに問われるまでもなく、この休みを通して毎日のように自分の頭にのぼっていた疑問だ。


 いっそコータローには正直にただひたすら勉強していたと返してやろうか。「お前にだけは負けられないからな」などと心にもないリップを添えて。……そんな嫌味くさい考えが浮かんできてしまうほど、昌真にとってこの夏休みはカラッポだった。


 その原因の一環がバンドを解散したことにあるのは間違いない。けれどもそのことでコータローにとやかく言うつもりは、今の昌真にはない。


 後ろで扉が開く音がして振り返ると、逆光の中に背の高い女子が入ってくるところだった。レナだ。コータローが小さく手を振り、けれどもレナは何も言わず昌真とコータローの間に並んで立った。これでプリンバンド頭のメンバーが全員揃った格好になる。


 本来なら今日ステージに立っているはずだった三人は、三者三様の表情でその場所を眺めた。一人は達観したような薄笑いで、一人は醒めきった無表情で、そしてもう一人は何かに堪えるような張り詰めた表情を浮かべて。


「結局、オレらの時間どこにネジ込んだんだ?」


「原口先輩んとこと、北村のとこ。どっちもブーたれてたけどな。自分のケツくらい自分で拭けって」


「へっ、ちげえねえ」


 バンド単位で活動する軽音部は横のつながりが希薄な部活だ。部員が集まっての会合など一度もないし、名前を見ても顔が思い浮かばない部員も多い。


 付け加えれば今は無き昌真たちのバンド以外、全てコピーバンドである。これはもう仕方がないことだと言える。神に愛された天才ならまだしも、少し勉強ができるだけの高校生が書いた曲が通用するほど今日こんにちのミュージックシーンは甘くない。音楽をやらない生徒たちも聴くだけはたっぷりと聴いているのだ。


 もっとも、コピーかオリジナルかということとバンドの完成度とは無関係だ。人気のあるアーティストのコピーバンドであれば、そのアーティストのファンが観に来てくれるという事情もある。件の原口先輩のバンドは、飛ぶ鳥を落とす勢いのUKロックグループを高次元でコピーした実力派のバンドで、去年の薫陶祭でも観客が体育館に入りきらないほどの盛り上がりを見せた。


 だが、昌真たちのバンドとて負けたものではない。超満員とまではいかないまでも席はけっこう埋まっていたし、歓声も数多くあがった。ただその歓声の半分以上は昌真たちにではなく、昌真を通して見える別のアーティストに向けられたものではあったが。


 ……そう、結局のところ、昌真たちがオリジナルバンドでありながらそこそこの人気を博することができたのは、高岡涼馬のおかげだったのかも知れない。高岡抜きで自分たちがどれだけライブを盛り上げることができたのか――もう今となってはそれもわからない。


 ――そもそも高校の文化祭でのライブというのはいったい何なのだろう。照明の届かない暗がりから光の中にあるステージを見つめて、昌真はそんなことを考え始めた。


 少なくともプロへの登竜門ではあり得ない。それはもうはっきりしている。ライブハウスで人気を博したバンドにレーベルから声がかかるというのは聞く話だが、学園祭でということになるとそんな話はほぼない。


 人気と実力、このふたつで測ったとき、今年の薫陶祭でもやはり原口先輩のバンドが一番の目玉だろう。


 だが、彼らはプロデビューなど目指していない。昨年末の模試で全国第十六位という結果を出した原口先輩は京大の医学部を目指しているとかで、バンドメンバーもみな粒揃いの秀才ばかりだ。薫陶祭のライブを最後に受験モードに切り替え、当面あるいは永遠にギターを手放すのだ。それは仮にここでの解散がなかったと考えたときの、来年の今頃における昌真の姿でもある。


 昌真の知る限り、あれだけの演奏技術を誇りながら、原口先輩のバンドは薫陶祭以外ではライブをしていない。そのあたりは他のバンドも――解散前の昌真たちのバンドも含め――似たり寄ったりだ。結局のところ、ライブハウスに殴り込みをかけるほどの時間も動機も、勉強に忙しい優等生たちにはないのだ。


 つまり今日、この体育館に集った軽音部の面々にとって、薫陶祭でのライブは一年でただ一度きりの舞台ということになる。


 では彼らにとって――いや、俺たちにとって、薫陶祭でのライブとは何か?


 見ての通り、それはちっぽけなステージだ。照明は学校の備品を使ったありあわせのものだし、凝った照明効果など望むべくもない。


 だが去年の薫陶祭でそのステージに立ったとき、昌真は約束の地に降り立ったような感動に打たれた。苦吟を重ねて曲を作り、ときに衝突しながらもコータローたちと練習を重ねてきたのはこのときのためだった……と。


 ――あのステージに、俺たちはいた。


 たとえそれがいくらちっぽけなステージであろうとも、俺たちは音楽に懸ける情熱の全てをあのステージに向け、ただがむしゃらに努力と研鑽の日々を――


「――ショーマ!」


「え?」


 いきなり呼ばれて昌真が顔を向けるや、ほとんどひったくるような勢いでレナに手首を掴まれた。そのまま強引に体育館から連れ出され、中庭まで引っ張られてゆく。


 突然のことに反応できないでいた昌真は、人気のないゴミ集積場のわきでレナが足を止めたところでようやく抗議の声をあげた。


「ちょ……どうしたんだよレナ」


「逃げてもええんやで!」


「え……」


「逃げてもええんや! うちにそう教えてくれたんショーマやんか!」

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