007 仮初のコーディペンデンス(1)
ノリで告白したら相手がやけに本気で引っ込みがつかなくなった男がとるべき次善の策としては、メールや電話での塩対応により「なんか思ってたのと違う」感を演出し、早期フェイドアウトあるいは相手からのカットアウトに持ち込むことだろう。
実際、そんな微妙な始まり方ではなく相思相愛でスタートを切ったカップルにおいてさえ、初期調整がうまくいかずに別れてしまうケースは多いのだ。素っ気ない態度をとり続けていれば相手の方で察して引いてくれる――身勝手な男の考えには違いないが、方法論としては間違っていない。
であるからして、高岡への復讐に大乗り気のあやかに対して昌真がとるべきだった態度の模範解答は、律儀に電話になど出ず、無反応を貫くというものだったと考えられる。
そもそも出会いがあれである。昌真がそうした態度をとっていても誰からも責められはしなかっただろうし、あやかもしばらくすれば昌真のことなど思い出すこともなくなっていたに違いない。
その結果、最初から何事もなかったかのような理想的なゴールにたどり着く。昌真が約束を反故にする後ろめたさを我慢するだけで、万事丸く収まるはずだったのだ。
だがこの手の状況に特定のファクターが介在する場合、ノリで告白した男がその方法を採れないままずるずるといくケースが考えられる。
たとえば、男が傷心である場合。このケースでは男の心にぽっかりと大きな穴が空いており、その穴をすーすーと風が吹き抜けている。そこに好意を寄せてくる相手がいれば、その構図に慰めのようなものを見出し、突っぱねることができなくなってしまうのである。
また、このケースでは男がその傷心ゆえに
――今回の昌真のケースはまさにその典型であり、あやかにより日常が侵食される様を目の当たりにしながら、ほとんど無抵抗にその状況を受け入れてしまっている理由もまたそこにある。
◇ ◇ ◇
『――ねね、次は英語で教えてほしいとこあるんだけど』
「リスニングは却下だぞ。昨日も言ったけど、そっちで再生すんの電話越しに聴くとかありえないから」
『わーかってるよ。普通にリーディングだよ。待ってて、いま問題集出すから』
「はいはい」
あやかはどうやらあの事件で自分が招いた、ラブホテルの前で記者が待ち構えているという絶体絶命のピンチを昌真の献策により切り抜けられたことで、すっかり気を許すようになってしまったらしく、あの夜からこの方、三日にあげず電話をかけてくる。……と言うより、昌真の両親が一時帰宅するために自粛を要請した先週の二日間を除けば毎日である。
ただあやかがそうして熱心に電話をかけてくるのは、例のリベンジに前のめりになっているからではなく、ましてや昌真に異性としての興味を抱いているためでもない。
その常軌を逸した電話攻勢のモチベーションリソースはもっぱら昌真の学力をあてにしたもので、通話時間の半分は昌真によるあやかのプライベートレッスンに費やされている。
最初のうちはもっと酷く、学校の宿題をそのまま昌真にやらせるような勢いであったため、それではあやかの勉強にならないとたしなめたところ、その日の授業や問題集でわからなかったところを質問してくる今のスタイルに変わった。
正直、昌真に言わせればそんなことは教師に聞けという質問ばかりなのだが、昌真の方が教え方が上手いだの芸能人だから学校に行けない日があるだの何かと理由をつけては昌真に聞いてくるのである。
『はい! 準備完了であります教官殿!』
「まずどんな問題で、何がわからないか教えて」
『穴埋め問題で、正解が動詞の現在形だったのですが、どうして過去形にならないのかわかんないんであります!』
「どんな文章?」
『読むね。ぜい、くにゅー、ざっと、ざ、さん、せっつ、いん、ざ、うえすと』
「“They knew that the sun sets in the west.”『太陽は西に沈むことを彼らは知っていた』か。“sets”の部分を埋める問題でいい?」
『いえす!』
時制の一致の例外を問う典型的な問題だ。穴埋め問題ということであれば問われるのはそこしかない。ただ“set”は過去形でも現在形と変わらないため、類題に比べて少しややこしい問題でもある。
「それで、何て回答したの?」
『せっと』
「三単現の“s”つけなかった理由は?」
『前の方の「くにゅー」が「くのう」の過去形だから、後ろもそれに合わせて。「せっと」は過去形でも変わらないんだよね?』
「うん、それが基本。そこまではオッケーな」
ここ数日かけて念入りにレクチャーしてきた時制の一致についてあやかが基本を理解できていることを確認し、昌真は思わずほくそ笑んだ。プロアマを問わず勉強を教える者にとって、生徒の学力向上は何にも代え難い悦楽である。
ここまであやかに勉強を教えてきた印象として、彼女は決して頭が悪いわけではない。昌真がきちんと説明すればそれを消化するだけの理解力はあるし、素直に学ぼうという姿勢でいるためか呑み込みも早い。記憶力についても結構いいものを持っているのである。
……ただ一点。時折おかしな思い込みをし、それが理由で先に進まないことがあるというのが難点だった。ちなみに“know”ないし“knew”の“k”を発音しないことは繰り返し言ってきたのだが、あやかの中では脊髄反射レベルで定着してしまっているらしく一向に直らない。おそらくは、間違った思い込みが正されないまま定着してしまった悪い例である。
「で、何がわからないの?」
『だから言ったじゃん。どうして「せっと」が過去形になんないのかわかんないんだって』
「解答の解説に何か書いてない? それ読めばわかると思うんだけど」
『それがわかんないの。なんか、イミフなこと書いてあって』
「何て書いてあるの?」
『不変の
「……あのな。それは不変のし・ん・り」
『えー、だってクラスにこの字で真理ちゃんいるし』
「いてもそれはしんりって読むの。つか、ウケ狙ってんじゃないよな?」
『狙ってないよ! あたしにそんな器用なことできるわけないじゃん!』
……とまあ、こんな感じで先に進まなくなるのである。
あやかがウケ狙いで言っているのではないということは昌真にもわかるが、それは裏を返せばあやかが真剣にそのボケをかましているということであり、その事実を思うとだいぶ慣れてきた昌真も身体の力が抜けるような感覚にとらわれる。
そんな苦労を背負い込みながらも昌真がこうして家庭教師の真似事を続けている
傷心、と言っても女にフラれたわけではない。バンドの解散――もっと言えば音楽で世に出るという夢を失ったことによるブロークンハートな状態から未だに抜け出すことができずにいるのだ。
昌真はこれまで、睡眠や家事などの時間を除いた家でのオフタイムを、勉強とギターと趣味の翻訳に三分割していた。帰宅後すぐに机に向かいその日の授業の復習と明日の予習を片付け、夕食後にじっくりと好きなギターと翻訳に取り組むといった具合である。
ちなみに翻訳というのは英文小説の全文訳作業で、まだ中学の頃に英語教師に薦められた勉強法を試してみたところが意外に面白く、今ではほとんど趣味と化したものである。
昌真は文系、理系を問わず万遍なく成績が良いオールラウンダーだが、最も自信を持っているのは英語であり、その英語力は日々の翻訳においてヘミングウェイやフィッツジェラルドといった大戦前後のアメリカ文学――所謂ロストジェネレーションの作品を自力で訳すことで鍛え上げたものだ。
ここでのロストジェネレーションがあやかの属する某アイドルグループの名称ではなく、スタイン女史がヘミングウェイに投げかけた嘲りともとれる台詞に由来するアメリカの一連の作家群を意味する言葉であることは言うまでもない。
ちなみに昌真がジュークボックスというビジネスモデルの先進性を認めながらも、あやかの属する某アイドルグループをいまいち好きになれない理由のひとつはそのあたりにある。なぜ選りに選ってそんな名前をつけた、という反発が強いのだ。
ともあれ、昌真が取り組んでいるのは満を持して手に取ったヘミングウェイの名著『誰がために鐘は鳴る』の訳であり、目下、後半の佳境に差し掛かっている。こうしている今も訳を進めたい気持ちでうずうずしているのだが、それが思うように捗らない理由はもっぱらあやかのお悩みホットラインにある。
「不変の真理ってのはだな、何があっても変わらないルール、ってことだ」
『野球のルールとか?』
「野球のルール? 野球のルールは……どうなんだろ。考えたこともなかった。けど、たぶん不変の真理には当てはまらない」
『なんで?』
「ほら、たまに変わるだろ。スポーツのルールは」
『あ、そっか。じゃあさ、おっぱいが大きくて可愛い子は性格がひん曲がってる、ってのは?』
「……身近にそういう人いるの?」
『うん』
「参考までに、『おっぱいが大きい』の基準は?」
『Fカップ以上! ちなみにあたしはEだから当てはまらない!』
「そこまで聞いてない」
『アンダー70のEね』
「だから聞いてないって」
『それって不変の真理?』
「バストサイズがFカップ以上の美人にも性格が真っ直ぐな子はいる。よって不変の真理ではない」
『えー、誰か身近にそういう子いるの?』
「ああ、俺の知る限り百三十六人はいる」
『そんなに!?』
音楽への未練を断ち切るため、バンドを解散すると決めてから昌真はギターに一切触れないようにしている。
相棒のレスポール――中一の春、親に無理を言って買ってもらってから共に日々を過ごしてきた愛用のギター――もはや身体の一部のようになったそれも押入れ深くにしまい込んだ。いっそ手放すことも考えたのだが、レスポールと過ごした日々の思い出が昌真にそうすることを許さなかったのだ。
……だが、これが辛い。毎日毎晩、腕に抱いて語り合ってきたギターに触れられないのは、昌真にとってまさに生木を裂かれるような苦しみだった。
とりわけギターの練習にあてていた時間――家事の当番によって若干の変動はあるがおおむね夜九時から十二時までの時間帯が地獄だった。いつもギターを立てかけてあった机の右隣につい手を伸ばしてしまうし、気がつけば手がギターを弾くときの形をとっている。……ほとんど禁断症状に近い。
だからといってその時間に勉強をする気にはとてもなれず、これまでキッチリと一日四ページのペースで進めてきた翻訳のスピードを上げることもできない。結果、昌真は悶々としながらその浮いた時間を持て余していた。
そこに降って湧いたあやかからの電話である。あやかとの間に交わされるたわいもない会話を、ギターに触れられない辛さを紛らわすために利用していることを、昌真ははっきりと自覚している。
つまりは一見するとあやかだけに利があるように見える毎日の長電話はその実、昌真の
『……それでねぇ、昌真ぁ』
「なんだよ、いきなり甘ったれた声出して」
『リスニングなんだけどさ』
「却下」
『ちゃんと最後まで聞いてよ! 来週テストだからほんとヤバいんだって!』
「ヤバかろうが何だろうが却下だ。さっきも言っただろ、そっちで再生すんの電話越しに聴くなんてのは――」
『ちゃんと解決法考えました!』
「……ほー、どんな?」
『あたしが昌真の家に行く!』
「だから! それは問題があるって何度も言ってんだろ!」
『でもあたしたち付き合ってないじゃん! 付き合ってない男の子の家に勉強訊きにいくだけなのに、なんでそれがいけないの!?』
「実際はそうでも世間はそうとっちゃくれないんだよ。恋愛禁止のアイドルが男の家に入り浸って、中で何してるかなんてわからないだろ」
『……そんな言い方しなくたっていいじゃん。昌真のえっち!』
「あーのーなー、見つかって困るのあやかの方なんだぞ?」
『だったら昌真が
「……問題大ありだっての」
そういった事情であるからして、あやかがアイドルであるとか規格外の美少女であるとかいったことは、昌真にとってこの際、関係ないのだった。
もちろん勉強ができる男のサガとして、見目麗しい同世代の女子に勉強を教えているというシチュエーションにそこはかとない喜びのようなものを感じなくもない。
だが今の昌真ならまったく好みでない女子が相手でも頼まれれば同じようにするだろうし、男子であってそれは変わらない。ぶっちゃけある程度の距離を保って話に付き合ってくれるのであればおっさんでも宇宙人でも対話型アンドロイドでもいいのだ。
その点、あやかは申し分ない。ここまで半月あまりあやかと付き合ってきて昌真が持つに至ったのは、意外に慎ましく細やかな気遣いができる人という評価だった。
彼女自身については聞いてもいないのにスリーサイズまで喋るが、昌真のプライベートには滅多に踏み込んでこない。帰宅してから夕食までの時間は勉強に集中したいから控えてほしいと伝えるとその時間帯には絶対に電話をかけてこなくなった。
そればかりではなく、あのラブホでの会話を踏まえてということなのだろうか、昌真が高岡に似ているということを頑なに口にしようとしない。高岡への復讐計画を練る上でどうしてもそのあたりに触れざるを得ないこともあるのだが、そうしたときも必ずゴメンと一言断ってから口に出す。
……なんというか、逆にこちらが申し訳なくなるほど奥床しい子である。とても見ず知らずの男をラブホに連れ込んだ女と同一人物とは思えない。
だから昌真は家庭教師の真似事をさせられても嫌な気はしないし、むしろあやかに感謝さえ覚えているのである。
ただ相手の大切な部分を侵すまいとする奥床しさを持っているということは、全面的に謙虚で遠慮がちということと同義ではない。問題はあやかサイドの希望により日々の通話時間が漸増の一途をたどり、ギターをやっていた時間のみならず翻訳の時間までもが侵食されつつあることだ。
「つかさ、俺たちがこうして連絡とり合ってるのって何のためだっけ」
『昌真があたしに勉強教えてくれるため?』
「ちーがーうーだーろ! 高岡涼馬への復讐計画を練るためじゃなかった?」
『あ、そうでした』
「そのためにどうしても必要だから顔合わせるとかならまだしも、おまけの部分でお互いのお家に訪問、とか正直どうなんだ? 俺たちがやろうとしていることはそんなつまらないことか!?」
『違います参謀殿! 我々がなそうとしていることはもっと崇高な、正義を示すための行為であります!』
「……いや、ぶっちゃけ崇高じゃないし、正義とか欠片もないんだが」
『参謀殿!?』
「まあいずれにしろそっちの方もそろそろ具体的にしていこう。そのための相棒契約なんだし」
『そだねー』
「なら、今日はそろそろお開きにするか」
『えー、もう寝ちゃうの?』
「うん、もう寝る」
『だったらおやすみー』
「ああ、おやすみ――」
こんな感じでようやく切り上げたあと、電話と並行して進めていた翻訳作業に本腰を入れるのである。
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