029 黎明のエンゲージメント(1)
『会いたいよ』
――PCにインストールしたジュークボックスから歌声が聞こえる。この中にあやかの声がある。
一日一曲。それが昌真が自分に許したあやかとの時間だった。
チップを払う相手にあやかを指名して、けれども映像は見ない。あやかの顔を見れば辛くなるかも知れない。だから、映像は見ない。
ロスジェネの曲もだいぶ覚えた。好きな曲もできた。……何のことはない、気がつけば自分はロスジェネの――亞鵺伽のファンになっていた。
もちろん熱心なファンには及ぶべくもないだろう。だが、かつてはまったく理解できなかったアイドルファンの気持ちが、今の昌真には何となくわかる。
この世界のどこかで亞鵺伽が歌っている。彼女らしく一生懸命頑張って、きらきらと輝いている――それだけでいい。そんな亞鵺伽のことを思うだけで、生きる力が湧いてくる。
……これがアイドルファンの本質なのだとしたら、自分は立派なアイドルファン――亞鵺伽推しのロスジェネファンになれたということだ。
これからは一人のファンとして生きてゆく――そんな昌真の決意は、けれどもひとつの事情によりなかなか定まってはくれない。
『お願い、会って』
ギターの練習やら何やらでしばらく休んでいた『誰がために鐘は鳴る』の翻訳を再開した。……と言っても、もうラストだ。
主人公のロバート・ジョーダンが敵の攻撃を受けて重傷を負い、自分も残ると言ってすがりつくヒロインのマリアを仲間たちと共に逃がして自らは死に臨む場面。惚れた女のために命をかける男――ヘミングウェイの硬質な文体そのものと言っていいロバート・ジョーダン最期の心理描写を訳しながら、そんな男の姿を自虐的に眺める昌真がいた。
……実際はこんなに格好良くはいかない。こんな完璧な人間はどこにもいない。
もっとも彼のように死んでしまうのなら話は別だ。死んだ英雄だけが良い英雄という言葉は、そのあたりをよく言い表している。
だがもちろん昌真には死ぬ気などないし、逆に生き急いでさえいる。あやかと出会ってから薫陶祭でのライブまでの事件を経て、より良く生きていかなければという意識が昌真の中に宿ったのだ。
……だがそうなると、昌真がロバート・ジョーダンであり続けることは難しい。生きている限り人間は考える。そして生きている限り人間は悩むのだ。
『昌真に会いたい。会いたくてたまらない』
一日一通、連絡先に登録されていないアドレスから短いメールが届く。
文面は違っても内容は同じ。ただ会いたいということだけを毎日、違う言葉で伝えてくる。
『興味を持ってもらえるまで乱射するな。本当に伝えたいことだけを一日一通。ウザがられたら終わりなんだからな』
――まだ佐倉がターゲットだった頃、関係を進展させるための秘訣として昌真がしたアドバイスを、今も彼女は忠実に守っているのだ。
着信拒否にはできない。……彼女のためにそうした方がいいという思いはあっても、そこまでは非情にはなれない。
だが、そろそろ限界なのかも知れない。メールの文面は日を追う事に悲痛なものになってきており、彼女が真剣に苦しんでいることが短い文章からも見て取れる。
……進むべきか退くべきか、それが問題だ。
だがその日届いたメールが、昌真に進むことを決断させた。
『どうしても昌真に聞いてほしいことがあります。一生のお願いです。もう一度だけ会ってください。それで本当に最後にします』
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