第42話 その時が来たら

(……あと一歩だったのだがな)


 消えゆく意識の中でライスフェルトは――肉体の人格は口惜しげに呟いた。

 彼の視界は暗黒に閉ざされていた。超立体の視座も見えない。それどころか、立体世界も見えない。


 ありていに言えば――時間切れだった。

 超立体の視座。人知を超えた力。人間の精神は、その世界を観測し続けるだけで急激に摩耗していく。


 本来、彼に自我など存在しない。

 本能という、生まれた時から血に刻まれた『機能』。それが、自己否定――存在としての死への抵抗から、偶発的に表層に浮き出ただけの泡に過ぎないのだ。些細なことで弾けては消える。むしろ、超常の力を行使しながらあれだけの時間、自我を保っていられたことのほうが奇跡だった。


 それがただの『機能』に戻る。戻り逝こうとしている。

 その感触は水に沈むのに似ていた。

 彼の意識はどこまでも続く暗黒の海に沈んでいき――そこで、出会った。


(……お前か)


 すぐ近くで気配がした。

 忌々しいほど見知った馴染みのある気配。

 を生み出した張本人。精神側の人格が。


(……やあ)

(こんな黄泉路に何の用だ。精神おまえと俺はもはや別々の存在。消え去るのは俺だけだろう)


 超立体の視座に到達し得たのは、肉体の人格である彼だけだ。

 故に、摩耗も彼だけに起こり得る。貨幣の裏面がいくら削られようと、表面は綺麗な状態のままなのと同じだ。


 そして、貨幣と同じように表裏は決して向き合うことはない。

 はずだったが――


(それとも、俺さえも見送ろうというのか。ご立派なものだな、キルハルスの精神というやつは)


 嘲るような声。

 そうだ。何者かの死を前に、精神の人格が現れないはずがない。

 何故なら、彼こそはキルハルスの化身。

 死を与え、穢れを払い、より善き来世を願う者。

 その対象は、己の半身であっても同様なのだろう。


(……聞こえていたよ。肉体きみの言葉は、全て。君は君の存在理由を果たそうとしていただけだったんだな)


 憐れむような声。

 羊は羊として生き、狼は狼として生きる。狼のように生きる羊などいないし、羊のように生きる狼もいない。だとすれば、首斬りは首斬りとして生きようとするのは当然だ。


 それは悪か?

 生き物が、己の生のしるべに従うのは悪か?


 否だ。

 が人間社会においては都合の悪い存在なのは間違いない。だが、己の在り方を貫こうとする生命を、ただ不利益というだけで在り方を否定することは、何よりも愚かではあるまいか。


(……すまなかった)

(なぜ、謝る?)


 呆れたように、肉体の自我は鼻で笑った。

 キルハルスの精神的伝統。死に逝く者に手向ける慈悲の心を。


(何様のつもりだ。人間は自分勝手な生き物。俺は俺の生き方を貫き、その結果、あの小娘に負けた。それだけだ)

(それは、そうだけど……)

(そんなだから、俺が生まれたんだ。精神おまえがいくら否定しようと、これがお前の本質だ。お前がそれを認めない限り、俺はまた現れる。必ずな)

(……ああ。そうだな)


 その返事に、肉体の人格はわずかに動揺した。


(……なんだ。随分と物わかりがいいな)

(もう、君を否定はしないさ。君を含めて僕だ。お前の言う通り、ただ認めればよかったんだんだな。ライスフェルトという人間は、そこまで立派なものじゃないってね)


 肉体も精神も独立した存在ではない。

 それらを包括し、受容した先に真の自己同一性エインセルがある。今、ライスフェルトの魂と器は一つに融和しつつあった。だからこそ、顔を合わせられないはずの表裏が出会ったのだ。


(僕はもう君を恥じたりしない。誰からどう思われようと、これも僕なんだだって胸を張って生きていこうと思う)

(は――そう思えるなら、しばらく俺の出番はなさそうだ)


 楽しみにしているよ。

 そう挑発的に呟いて、肉体の自我は闇の世界へ溶けていった。

 そこには何も残らなかった。



†††



 裂帛の気合が斬り裂いたのは空のみだった。

 白刃を振り下ろす寸前、ライスフェルトが膝をついて前のめりに倒れる。

 沈黙。ゆるやかに肩が上下しているところを見ると、息はあるようだ。


「はぁぁぁ……」

 ローザリッタはぺたりと腰を落とし、盛大な息を吐く。

 超立体の視座は既に消え失せていた。あれだけ流れ込んできた世界の構成情報ももう観えない。彼女の空色の瞳には、ただいつも通りの風景が映っている。


 だが、超立体への扉が閉じる直前。

 ライスフェルトを支配している意思が消えていくのを感じた。肉体の人格は超立体の視座の圧力に耐え切れずに消滅したのだろう。それを察知できたからこそ、彼女も太刀を振り下ろさずに済んだのだ。


「……おや?」

 ぽたり、と赤い滴が地面に落ちた。

 どこか怪我でもしただろうか。痛みらしきものは一切感じない。体のあちこちをまさぐっていると、鼻の下に軽い違和感。手の甲で拭うと、べっとりと赤い血が。鼻血である。


「ローザ!」

 勝負の行く末を見守っていたリリアムが慌てて駆け寄った。


「血が出ているわよ、大丈夫!?」

「だ、大丈夫です……これ、自前の血なんで……」


 限界を超えた集中と、超立体世界から流れ込んできた膨大な情報の処理に追われた脳はかなり疲弊していた。大量に消費される酸素と、それを運搬する血液。繊細な鼻腔の血管は、急激な血圧の上昇に耐えられなかったのだ。


「あーあー、もう、美少女が台無しじゃない」

 リリアムが懐から手拭いを取り出し、ローザリッタの鼻に当てた。

 白い布地がさっと赤色に染まっていく。


「よ、汚れちゃいますよ」

「どうってことないわ、これくらい」

「でも」

「いいから」


 有無を言わせず、ぐいぐいと顔を拭う。

 少しだけ力が籠っているのは、いざという時に役立てなかった自身への悔恨のせいだろうか。ローザリッタは無言で成すがままにされている。


「……終わったのですか?」

 離れて様子を見守っていたマウナが、ゆっくりと二人に近づく。


「もう大丈夫だと思います。目が覚めるころには、元のライスフェルトさんに戻っているはずです」

「……そうですか。よかった」


 マウナは心の底から安堵したように、倒れ伏すライスフェルトに歩み寄る。膝をついて、愛おし気に頬を撫でた。


 肉体の人格は消えたのは間違いない。けれども、それを生じさせた肉体は残ったままだ。いずれは現れる。これはライスフェルトに生涯付き纏う問題だ。

 けれど、今は。

 首狩りの魔刃が誰の首も刎ねなかったことを、素直に喜ぶべきだろう。


 すると。


「うおおお! あたしはまだ負けてねぇぇぇ!」

 瓦礫を吹き飛ばしながら、ヴィオラが起き上がった。

 気炎立ち昇る彼女に、三人がなんとも言えない眼差しを向ける。


「……ヴィオラ、もう終わりましたよ」

「え!? 本当に!?」



†††



「それにしても、これくらいで済んでよかったわ」

「まったくだ。骨折しなかったのは幸いだよ」

「旅に支障が出るものね」


 気を失ったライスフェルトを馬車の荷台に乗せると、三人はめいめいに応急処置を始めた。リリアムの言う通り、怪我の具合は全員軽傷。常識外の怪物を相手に立ち回ったにしては、驚くほど損害が少ない。


 マウナは村の方へ人を呼びに行っている。

 気を失っているライスフェルトも含め、彼女以外の全員が満身創痍だ。医者の手配に瓦礫の撤去。いずれにしても人手が足りない。無傷代表のマウナが率先して動くのは当然だった。


「……二人とも、話があります」


 ローザリッタは処置の手を止め、二人へと向き合った。

 これまで言おう言おうと思っていたこと。けれど、言い出せなかったこと。この件に関わったことで、ついに相談する決心がついた。


「どうした、改まって」

「実は――」

 ローザリッタは意を決して、二人に自分の体の変調のことを伝えた。

 それを告白するのは人知を超えた怪物に挑むよりも、もっと勇気が必要だった。


「ひ、引きました、よね……?」

 そわそわと指を絡ませながら、上目遣いで二人を見やるローザリッタ。


「「いや、別に」」

 異口同音の答え。

 想像以上に、あっさりとした受け答えにローザリッタは戸惑いを覚える。


「深刻そうな顔をしているから、どんな話かと思えば……いや、お嬢にとっては深刻だったんだろうけど、なあ?」

「ええ」

「い、いや、でも、人を斬って濡れちゃうんですよ?! おかしくないですか!?」

「なんだよ、引いてほしかったのよ」

「引かれたら傷つきます! でも、驚きもしないのも腑に落ちません!」


 我が儘だなとヴィオラが呆れたような目つきになり、リリアムが肩をすくめた。


「別に驚きゃしないわよ。生き物にとって戦いは日常。戦って勝たなきゃ餌も、番も手に入らない。人間だって動物だもの。まして、弱肉強食の理に一番近いところにいるのが殺し合いをする戦士なんだから、戦いで興奮を覚えるのは普通のことよ」

「でも、リリアムは……違うじゃないですか。わたしみたいに、こんな……」

「私は人を斬ったら気持ち悪くなる。あなたは気持ちよくなる。ただそれだけのことでしょ。個人差よ、そんなもの」


 ――個人差。

 散々悩んだ自らの異常を、たった一言で片づけたことに、ローザリッタは軽く衝撃を受けた。


「快楽を覚えるのが悪いことだって言うのは育ちが良いからかしらね。個性に善悪なんてないし、異常も正常もない。ローザは真面目だから勘違いしているようだけどね、人を斬って気持ちよくなることが悪いんじゃないの。それに支配されて、気持ちよくなるために人を斬るのが悪いのよ。……ファムさんみたいにね」


 他者から略奪すること快楽を覚える魔性の女。

 彼女はその在り方を肯定したからこそ、欲望の限りを尽くした。悪と断じるとしたらその一点だけだろう。


「制御できない個性は個性じゃなくて野性。個性的に生きることと、本能で生きるのでは意味がまるで違うわ。あなたは、まだ分別ができている。なら、それは個性ってことにしておけばいいじゃない」

「……そのままでいいと言うのですか」

「あなたが改善したいっていうなら、やってみてもいいと思うわ。でも、治らなかったとしても落ち込むのだけはやめることね。それも自分だって受け入れなさい。問題は解決できても、悩みっていうのは解決できない。悩みから解き放たれるには……自分というものを、ありのまま受け入れるしかないんだから」


 羊が羊で在ることは変えられない。狼が狼で在ることも、また然り。

 だから、最後は受け入れるしかないのだ。意固地になって否定し続けるよりも、どう向き合っていくか考えるほうが大切だ。そうやって、人間は理想と現実の落差を埋めていく。それが人生というものだから。


「でも、やっぱり不安です。いつか、わたしが本能に従って人を斬ってしまうんじゃないかって。誰かを守るためじゃなくて、自分のために人を傷つけちゃうんじゃないかって……」

「その時は、私が介錯してあげるわよ。友人としてね」


 その言葉に、ローザリッタが目を見開いた。


「……なによ、私の介錯じゃ安心できないっていうの?」


 リリアムが不満げに唇を尖らせ、半眼になる。


「――いいえ。それなら安心です」


 そんな友人の顔を見て、ローザリッタはしっとりと微笑んだ。

 今でも不安は消えない。けれど、事実を知って、それでも友であることを辞めない人がいる。人を斬ることを嫌悪しながら、自分のために首を斬るとまで言ってくれる人がいる。そんな人の手を煩わせるくらいならば、自身の個性を認めることなど造作もない。


 だから、きっと大丈夫だ。


「じゃあ、リリアムが道を踏み外した時は、わたしが介錯しますね!」

「ふん、私がどの道を踏み外すってのよ」

「衆道好きが行きすぎて、そこいらの男に衆道を強要したりとかはあるかもな――いてぇ!?」


 あんまりと言えばあんまりな例えに、リリアムは無言で手刀を見舞う。

 脳天を押さえて蹲るヴィオラに、ローザリッタは思わず声をあげて笑った。






 肆の太刀、首狩りの魔刃/了

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