第41話 魔剣と魔刃

 ――この感覚に陥るのは、二度目だ。

 知覚が拡張する。自己という枠組みから逸脱し、世界を俯瞰して観測する。立体で構成された世界を、一つ上の視座から垣間見ている意識じぶんがいるのを体感する。


 ここにはきっと、全てがあった。

 風の流れ、熱の動き、力の働き。物質の組成、空間の構造。遠くに倒れ伏すヴィオラにまだ息があることや、リリアムが気を失ったふりをして隙を窺っていること。知りたいと思うことが、思うより早く意識下に直接流れ込んでくる。


 かつて、リリアムが語った〈無念無想の境地〉。

 剣術家の理想の在り様ではなく、無意識下に潜在している身体能力の開放、それを実行し得る状態。それ自体はこの力を指すわけではないが、に至る方法の一つだったことは間違いないだろう。


 どうやったら意識的に無意識になれるかというローザリッタの問いかけに、リリアムは答えた。一切合切を忘れ、修練に没頭することだと。それは言い換えれば、我を忘れると言うことに他ならない。


 すなわち、忘我だ。

 私事や私欲、そういった個としての不純物を排した、在るがままの自分でなければ、この境地には決して辿り着けない。ライスフェルトが語ったように、人として生きているうちに積み重なっていった常識が、この視座を秘匿してしまうのだ。


 幼子には不思議な能力が宿っており、母親の妊娠を当人よりも早く察知したり、天災が起こることを予知したり、見えないものが見えたりするという。


 大人になるにつれ、そういった超常の力は失われていくと言われているが、今にして思えば、それはこの視座からもたらされたものではないだろうか。自我の発達が未熟で、人としての常識が希薄である存在だからこそ、当然のようにこの境地に立っていたのではないだろうか。


 だが――


(……これは、苦しい)


 脳を酷使しているのがわかる。きっと、幼い頃は当たり前の景色だったものが、ローザリッタの意識を容赦なく削り取っていく。リリアムが言う通り、無敵の力でもなんでもない。こんな状態が続けば、


 その前に、決着をつけなければ。


「リリアム」

 ライスフェルトから視線を逸らさないまま、倒れているリリアムに声を掛ける。


「あとはわたしが何とかしますから、マウナさんをお願いします」

「……気づいていたのね」


 ぴくりとも動かなかったリリアムが、むくり、と起き上がる。


「会心の死んだふりだったのに」

「たぶん、ライスフェルトさんも気づいていますよ」

「その上で放っておかれたのか……甘く見られたものね」


 忌々しげに舌を鳴らす。

 リリアムの存在は、路傍の石と変わらないとでも言いたいのだろう。何とかして一矢報いようとしていた彼女からすれば、屈辱以外の何物でもない。


「……斃せるの?」

「斃します」

「……そ」

 小さく頷くと、リリアムが手にしていた太刀を放った。

 投げて寄こすには危険な代物だが、ローザリッタはそれを難なく掴み取る。今の彼女には単純な物理的軌道など丸見えだ。


「丸腰よりいいでしょ」

「はい。ありがとうございます」

 リリアムと入れ替わるように、ローザリッタが前へ出る。


「……やはり、お前が立ちはだかるか」

 低い声音で、ライスフェルトが呟いた。


「さっきもそうだったな。殺すつもりで放った俺の一撃を、お前は無意識に防いで見せた。この力においては、お前の方が先達ということか」

「そうでもないですよ。これで二回目です。一回目は本当に偶然ですし、今回だってここまで追い詰められなければ入れませんでした」


 第一、入ろうと思って入れる状態ではない。

 入ろうという考えが既に雑念だからだ。明確な死の幻影。臨死の淵。あくまでローザリッタの主観ではあるが、そういったこれまで積み重ねてきた人生が空っぽになる瞬間でなければ、この扉は開かれない。ライスフェルトのもう一つの人格が、存在の死を否定しようと無我夢中で足掻いた果てに、この力を手にしたのと同様に。


「あなたは、ライスフェルトさんですけど、ライスフェルトさんではありませんね?」


 少しずつ扉が閉まっていくのを知覚しながらも、ローザリッタは言葉を紡いだ。


「そうだな。肉体の人格とでも言えば、わかりやすいか」

「これから、どうするつもりです?」

「さてな。こまごまとしたことは考えておらんよ。ただ、首を斬る。俺が生まれた意味を完遂する。それだけだ」


 のローザリッタには、ライスフェルトの言葉の真意が理解できた。

 人は、己が解らぬ生き物だ。自分は何者なのか。どうして己が在るのか。何のために生まれて来たのか。理性を持って生まれたが故の空白を、長い時間と経験をかけて埋め合わせ、人はようやく自己同一性を獲得する。


 だが、ライスフェルトの肉体は本能の領域で自分が何者であるかを理解していた。蝶の幼虫が決められた種類の植物の葉しか食べぬように。蜘蛛が生まれながらに複雑な円網を編み上げる技巧を体得しているように。長い刻をかけて品種改良を重ね、本能の域にまで高められた自己認識。


 しかし、人としての精神がそれを否定した。

 キルハルスの斬首に必要なのは慈悲の心。肉体がもたらすのはあくまで技術のみ。その高潔な精神と、血なまぐさい本能は当然のように反発し、その結果、精神と肉体は二つに分かれた。これが三年前の真相だ。


「だが、そのためにはお前の首を刎ねなければな。お前は他の有象無象とは違う。この場においてお前だけは、俺を打倒し得る存在。俺が俺として在るためには、お前が邪魔なのだ」


 その言葉に、ローザリッタは悲しげに目を伏せる。

 今のライスフェルトはキルハルスに値しない。最高傑作どころか、首を斬ることしかできない出来損ないだ。そこに高潔な精神が宿っていないなら、ただの妖刀。魂の救済など望むべくもない。


 そんなライスフェルトに対して今の彼女ができることは、一つだけだ。

 ローザリッタはリリアムから託された太刀を肩に担ぐ。古流正調の上段に構え、倒すべき男をきっと見据えた。


「ミリアルデ=ローザリッタ=ベルイマン。お相手承る!」


 ローザリッタは高らかに宣言し、地を蹴った。

 小手調べとでも言わんばかりに、ライスフェルトが空気弾を放つ。

 圧縮された空気は鍛え抜かれた拳撃にも匹敵する。まともに当たれば骨が砕け、内臓が揺れる威力だ。


 ローザリッタはそれをこともなげに躱す。

 空気の流れは目に見えずとも、今の彼女には一つ上の視点がある。不可視ゆえの利点はなく、ただの物理攻撃であれば当たらなければどういうこともない。むしろ、見えても反応できない攻撃のほうが厄介だ。


 例えば、熱量操作による範囲攻撃。

 いくら範囲が見えていても、それから離脱する手段がなければ意味はない。


 例えば、重力操作による光子の収束攻撃。

 光の速さには、人間の身体能力では物理的に抗いようはない。


 そういった攻撃は、今の二人にはできない。

 質量が極めて軽く、意思を伝播しやすい大気は比較的干渉しやすいが、それ以上の操作は多大な精神力を必要とするため、ライスフェルトも避けている節がある。


 しかし、いつかの時代、どこかの誰かが、この力の仕組みを解析し、技術的に普遍化させることができれば――そのような超常攻撃の応酬が繰り広げられる光景が訪れるかもしれない。


 立て続けに放たれる風の鉄槌を躱し、ローザリッタはライスフェルトに迫った。

 あと一歩で白刃が届く。されど、ライスフェルトは不敵な笑みを浮かべた。


「――っ!?」

 ライスフェルトは周辺の空気を硬化させ、不可視の障壁を生み出した。

 それは身を守る盾ではない。ローザリッタを封じ込めるための檻だ。彼女の四方を囲むように展開、行く手を封絶する。


 ローザリッタがあくまで近接戦を仕掛けようというのならば、単に近づけさせなければいいだけの話。堅牢さに関しても折り紙つきだ。何せ、リリアムとヴィオラの連携技でさえ防ぎ切った実績がある。常に表の人格に抑圧され、意識の奥底に閉じ込められてきた彼だからこそ、檻の想像が強固なのかもしれない。


 それを――


「破っ!」

 ローザリッタは切り裂いた。薄紙を破るように。あっさりと。


 当然だ。屋敷に閉じ込められ続けたライスフェルトと、それを打ち破って外の世界へ羽ばたいたローザリッタ。障害を乗り越える力は圧倒的に彼女が上だ。

 そして、その意思の強さが直結するのが同士の戦いだった。


 ついに二人の距離が間境となる。

 空間が軋みを上げた。接触した二人の意思の力が、周囲の空間の支配権を賭けて取っ組み合いをしている状態だ。その波紋は立体世界にも影を落とし、物理的な現象に置き換えられる。重力が乱れ、大気が荒れ狂い、紫電が生じ――静寂。


「馬鹿な、なぜ押し負ける……!?」


 ライスフェルトが瞠目する。

 突然の静寂は、支配権をめぐる戦いに敗北を喫したと言うことに他ならない。


「当然です! こんな状態が長続きするわけがない! あなたはもう、窒息する寸前なんですから!」


 ローザリッタの優位は、ヴィオラやリリアムが時間を稼いでくれたおかげだった。

 この力の行使は、さながら深い湖の底へ潜水しているようなもの。深く潜れば潜るほど、最初に取り込んでいた酸素は瞬く間に消費される。そして、息継ぎする間もなく、潜ったばかりのローザリッタとの戦闘。彼女の言う通り、ライスフェルトは窒息寸前だった。


「くっ!」

 忌々しげに眉をゆがめ、ライスフェルトが退いた。

 そして、足元に転がっていた、ヴィオラが手放した太刀を拾い上げる。


 ――そうだ。正しい。

 それを見たローザリッタが立ち止り、構えを整える。


 同じ力を有する者同士、その力比べでは決定打にはなり得ない。

 いや、持たぬ者であっても、きちんと対策を講じれば対処することも可能だ。制限時間。操作し得る現象の限界。理を超越した力ではあるが、この力は全能でも万能でもない。


 故に、最後は――剣術勝負となる。


 剣術遣いにとって、太刀は意識と肉体の延長。

 普段、腕があがらなくなるまで素振りをするのは、何千、何万と同じ型を繰り返すのは――刀身の長さ、重さ、重心の配分を己の一部であると体に覚え込ませるためだ。太刀が肉体の一部になるまで馴染ませているからこそ、剣術家は一寸未満のわずかな間合いを奪い合うことができる。


 剣術家が己が太刀を大事にするのは、精神的な伝統でも資産保持のためでもない。愛刀の喪失は文字通り肉体の欠損に値する。似たような武器を手にしたとしても、その違和感が邪魔をして十分に技量を発揮できなくなることだって十分にあり得るのだ。状況に応じて様々な武器を使うことを目的に訓練されるとの差異。


 だからこそ、二人が手にした太刀はただの太刀ではない。

 それは己の一部。意思と肉体の延長。を伝導させるためのものとして、その手の裡に在った。


 すなわち、魔剣と魔刃。

 という確固たる意思を宿し、立体世界を状態へと変容させる究極の斬撃――


「……ふ」

 互いの生死を賭けた状況でありながらも、ローザリッタは笑った。


「……何がおかしい」

「いえ。やっぱり、あなたはライスフェルトさんなんですね」


 ライスフェルトの堂の入った構え。一分の隙もない立ち姿。こんな摩訶不思議な力なんかに頼らなくとも、十分に斃し難い敵だ。


 相上段の図。先刻の写し鏡。

 左肘をぴたりと胸元に引き寄せた、ローザリッタが知る限り最速の変形。全てを見通すこの視座においては、不意打ち、騙し討ちの効果は皆無。今の自分に果たして、正面からあの魔刃を破ることができるのか――


 考えるまでもない。考える必要もない。

 意識を研ぎ澄ませ、思考を澄み渡らせ、どこまでも透明に――




















「「斬――!」」


 二人の裂帛の気合が、静寂を切り裂いた。

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