第45話 ヴィオラ外伝(3)

 幸い、近くに開店したばかりの茶屋があった。

 投げ飛ばした拍子に腰を痛めた中年の男を支えて店に入ったヴィオラは、気遣わし気な表情をしながら寄ってきた店員に、温かい茶と体を拭くものを注文する。


 店員が小走りに奥へ駆け込んでいくと、しばし静寂が訪れる。

 降りしきる雨のせいか、店内には自分たち以外の客の姿がなかった。聞こえるものは厨房の雑音と、屋根を叩く雨粒の音のみ。


「何というか……申し訳ない」

 いたたまれない気持ちのまま、ヴィオラは深々と頭を下げた。


「気になさらないでください。紛らわしい振る舞いをした私にも落ち度はあります。確かに、あの状況ではこうなってもしかたがありません」


 腰を擦りながら、中年の男は自嘲気味な笑みを浮かべた。

 ――ようやく見つけた。

 先刻の言葉の信憑性が増すほどに、くたびれた笑みだった。


 幼い娘をかどわかそうとする中年男――額面通りの受け取り方をして、事態の本質を見抜けなかったばかりか、さらなる悪化を招いてしまった。ヴィオラは己の未熟さを痛感する。


 とはいえ、あの少女の拒絶感もまた本気のものだ。よほど、この男に捕まることが嫌だったのだろう。親族だからと言って、安全である保障はない。世の中には我が子を奴隷のように酷使したり、人買いに売り飛ばす親も存在するのだ。人当たりが良さそうに見えても――やはり、外面だけの可能性も否定できない。


「お待たせしました」

 店員が二人分の手拭いと、勢いよく湯気を立てる湯飲みを運んできた。焙煎した麦の郁々いくいくたる香りが二人の間を漂う。


「……ああ、美味い。やはり、この時期は麦湯に限りますな」


 湯飲みに口をつけた男が柔和に微笑む。

 それとは対照的に、ヴィオラは眉間に皺を寄せた思案顔。彼女は逡巡していた。不手際を晒した最低限のけじめはつけたし、これ以上関わるべきではないのかもしれない。何より自分の用事も済んでいない。


 だが、それでも――ヴィオラは口を開いた。


「……あの子は本気で嫌がっていた。親族といえど場合によっては、あんたを警吏へ突き出さなきゃならん。余計なお世話かもしれないが、事情を聞かせてはくれないか」


 中年の男は意外そうに目を見開いた。今度は彼が逡巡する番だった。


「……いいでしょう。隠すようなことでもありませんし、痛みが引くまでは激しく動くことは難しそうですしね」


 下手に隠し事をすれば、かえって怪しまれる。中年の男は、今が弁明する好機だと判断したようだ。ことり、と湯飲みを置くと、男は静かに語り始める。


「私はローリィ。そして、逃げて行ったあの子はフィアールカ。普段はフィアと呼んでいます。先程も申しあげたように、叔父と姪の関係です。あの子の父は……私の兄は、この街の警吏でした。正義感に篤く、仕事熱心の優秀な男だったのですが、これがまた子煩悩でもありましてな。フィアを目に入れても痛くないほど溺愛しておりましたし、フィアのほうもよく慕っていた」


 ローリィは在りし日を懐かしむように目を細める。

 しかし、それも一瞬。次第に表情が曇り始めた。


「ですが、半年前、兄は犯罪に巻き込まれ殉死しました」

「……それは気の毒にな」


 ヴィオラは幼い少女の内心を想い、痛ましげに視線を伏せた。

 大切な人の喪失はいずれ誰もが経験する通過儀礼だ。人間が生まれ、そして死ぬ限り、誰しも別れから逃れられることはない。


 されど、早すぎる。

 まだ十の年月しか経っていない子供に、その別れはあまりにも尚早だ。人はいずれ死ぬ――そのような分かり切った道理であっても、受け入れることなど到底できないだろう。


「フィアはそれはひどく落ち込みました。あれだけ慕っていたのですから無理もありません。ですが、間が悪い、とでも言うのでしょうか。悪い時には悪いことが重なるもの。兄が死んですぐに、母親が別の男を作って行方を晦ましたのです」


 ヴィオラの顔が険しくなった。


「存命中から、既に関係を持っていたのでしょう。喪が明けぬうちに、しかも、再婚の邪魔になると思ったのか、あの子を置き去りにして……蒸発したのです」


 ローリィの肩が怒りに震えた。握った拳に力が入り、関節が白くなる。


「なんという不条理。なんという理不尽だろう。大人の身勝手な理由で、あの子は独りになってしまった。親族の寄り合いで私が預かるようになりましたが、今のあの子に大人を信じろと言うのが無理な話だ」


 ローリィは力なく首を振った。

 子供の認知はひどく狭い。両親と暮らす家がフィアの世界の全てだ。

 だが、その片方を失い、もう片方には裏切られた。幼いフィアにとって、それは世界が滅びたにも等しい衝撃だったに違いない。


「飛び出しもこれが初めてではありません。朝まで探し回って、ようやく連れ帰ったと思えば、また飛び出す。その繰り返しです」


 自分の許容できない事態に遭遇した人間が取る行動は二つ。

 その場から逃げるか、何も考えないか。フィアは前者だ。そう――


「ですが、見捨てるわけにもいきません。父に先立たれ、母に裏切られたあの子を私が見捨てたら、私も理不尽の化身に成り下がってしまう。いくら嫌がられようと、私は兄に代わってあの子を育て上げなければならないのです。あの子が心の整理がつけるまで、嫌がられようと、何度でも捕まえなければならないのです」


 ローリィの瞳には強い意志が宿っていた。

 正しい大人を体現せしめんとする意思。少女が慕っていたという兄と血の繋がりがあるだけはある。


 とはいえ――


「事情は分かった。だが、その腰じゃ、長くは探し続けられないだろ。まあ、あたしのせいではあるんだが」

「いえ、誤解を招くような振る舞いをしたのは私の――」


 ローリィの言葉を遮るように、ヴィオラは席を立った。数枚の銅貨を取り出し、机に置く。


「……あんたはここで休んでな。代わりにあたしが探してきてやるよ」


 ローリィの目が驚きに見開かれる。


「ですが……」

「任せておきな。ああいう奴の考え方は熟知しているつもりだよ」


 ヴィオラは傘を手に取ると、茶屋の戸を開いた。店内に湿気を孕んだ風が流れ込み、彼女の癖のある黒髪を揺らした。


「……なんせ、あたしも同類だったからな」

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