第46話 ヴィオラ外伝(4)

(……お腹空いた)


 力なく路地裏をさまよっていたフィアは、ほっそりとした下腹部を撫でた。

 その内側では腹の虫が大合唱している。

 叔父の家を再び飛び出して数日。最後に物を口にしたのはいつだっただろうか。幼い躰に残ったなけなしの体力と体温を、屋根の隙間を縫って静かに降り注ぐ冷たい雨が、債務の取り立て屋のように容赦なく奪っていく。


(何か食べないと……でも、お金なんて――)


 ――持ち合わせているはずがなかった。

 十歳前後の子供であっても、家庭によっては金銭を預けることもあるだろうが、それでも金額はお駄賃程度。家出を繰り返している不良娘にはそれすらもない。


 このままでは飢えて、死ぬ。

 都市部だからこその悲惨な末路。いくら物流が行き届き、物で溢れていようと、金がなければ生きていけないのが都市というもの。何の後ろ盾もない少女がのうのうと生存を許されるほど、人間が作った都市という機構は甘くはない。


 外敵の侵入を拒む自衛力、内敵に対する治安力を持ち、職業的役割分担によってもたらされる生産性の向上は、そこで暮らす人々に豊かな生活を与える反面――その秩序に沿わない者に対しては徹底的に無慈悲である。生きるも死ぬるも自己の性能に一任される大自然の中よりも、考え方によってはずっと過酷な世界なのだ。


 持たざる者にとっては荒涼とした世界を前にして、それでもフィアが飢えを満たす方法は一つしかなかった。


(……また、やるか)


 意を決したように、フィアは路地から顔を出した。



 ◇◇◇◇



 跳躍。また、跳躍。


 ベルイマン古流の奥義の一つ、空渡り。

 極限まで鍛え上げられた精緻な身体運用によって実現する、空間を縦横無尽に駆け抜ける跳躍術。降りしきる雨の中、民家の屋根から屋根へ跳び継いでいくヴィオラの姿は鷲のように勇ましく、鷺のように優雅であった。


 無論、奥義に属する以上、軽々に人前で使うべきではない。されど、今日は雨天。傘を差した人々の目が上空に向けられることはなく、彼らの足元に影が落ちたとしても、巣へ急ぐ鳥が通り過ぎていっただけだと思ってくれるだろう。


 とは言え、それでも流派の秘奥である。いたずらな使用は技の漏洩に繋がり、ひいては術理を解析され、最終的には対策という衰退を招く。いかなる理由があろうと、秘匿という掟は厳守されて然るべき――そう理解していながらも、ヴィオラは急がねばならなかった。


 ローリィの話では、フィアはもう何日も帰っていない。その間、まっとうな食事にありつけていない可能性があった。つまりは飢えている。知恵も力も、金もない子供が飢えを満たす方法は、彼女が知る限り一つしかない。


 何度目かの跳躍の後、ヴィオラは遠い眼下に見知った姿を見つけた。

 四肢を広げて慣性を殺しつつ、最寄りの屋根に着地する。


「……うへぇ。すっかり濡れ鼠だ。これだから雨は嫌いなんだ」

 ヴィオラは苦々し気に侍女服の裾を絞ると、少なくない水がしたたり落ちた。

 傘は持っていたが、跳躍術たる空渡りは風の影響を如実に受ける。広げたままで跳ぶことは不可能。結果、荷物になるので腰帯に差したままだ。


「……さて、と」

 今更、差して意味があるのか。わずかな疑問を抱きながらも、傘を広げたヴィオラは屋根の縁から眼下を覗き見る。


 路地裏から商店街に続く大通り。フィアはその入口から顔を出し、まるで獲物を定めるかのように行き交う人々に視線を向けている。本人は隠れているつもりだろうが、高所から窺うヴィオラの目には丸見えだ。


 力もなく、知恵もなく、そして金もない子供が、それでも糧を得る方法があるとすれば――盗みを働くしかない。


 子供にできる窃盗の手段はスリや置き引きがせいぜいだ。この雨の中、荷物を野晒しにする馬鹿はいない。となれば、スリ一択。どちらにせよ、人通りがある場所に出てくるのは読めていた。――己も歩んできた道故に。


 フィアはヴィオラの存在には気づいていないようだった。フィアでなくとも、よもや屋根の上から観察されているなどとは露ほどにも思うまいが。


 屋根伝いに路地裏へと音もなく降り立ったヴィオラは気配を消し、足音を消し、影のようにフィアへと近づいていく。


 窺い見ている大通りに良さそうな獲物を見つけたのか、フィアの肩に力が入ったのをヴィオラは見逃さなかった。即座に動けるよう体を緊張させ、好機を逃すまいと大通りの動向に目を光らせている。その集中力たるや、真後ろに立つヴィオラにも気づかないほどだ。隠形するのも馬鹿らしいほどの視野狭窄。


「――やめとけ」

 絶妙な拍子に投げかけられた制止に、びくり、とフィアは肩を震わせた。完全に出鼻を挫かれ、飛び出す好機を逸した。ただただ硬直するしかない。


「……あんたはさっきの……?」

「おう」

 恐る恐る振り返ったフィアの目が意外そうに開かれる。

 つい先刻、叔父を人攫いと勘違いして妨害通りすがりの女。ただ、それだけの赤の他人。もう一度会うことになるとは。そもそも、なんでこんなところにいるのか。そのような揺れ動く内情がありありと瞳に映っている。


「……やめとけって、なにを?」

「家飛び出した餓鬼が一人で食いつなぐ方法っつったら、盗み以外ないだろ。この雨だからな。歩いている連中はみんな傘持ち。懐の守りも薄いから狙い目だ。お前、初めてじゃないな?」


 ヴィオラの言葉に、フィアの顔が徐々に青ざめ始める。これからやろうとしていることを見透かされたと言わんばかりに。


「ぬ、濡れ衣よ。まだ何もしてないじゃない」

「いつかはやるだろ。そこで提案だ」


 ヴィオラは侍女服の懐中から小奇麗な包みを取り出した。

 傘の柄を首元で支えながら結び目を解くと、丁寧に形を整えられた二つの握り飯が現れる。


「満足に力の入らない躰で盗みを働いても、振り切れずに捕まるかもしれない。仮に成功したとしても、せっかく盗った財布の中身がまったく入っていない可能性だってある。そんな危険を犯すより、知らない女から施しを受けるというのもアリだと思うが?」


 フィアの瞳が不安に揺れた。ヴィオラの言うことは的を射ていたからだ。現在の自分が衰弱していることは、何よりも彼女自身が良く知っている。事実、先刻も叔父に捕まったばかり。今回もうまくいくとは限らない。だが、彼女の矜持が首を縦に振ることを許さなかった。不安を心の隅に押しやり、きっとヴィオラを睨む。


「それで懐柔したつもり? おあいにく様。別にお腹なんて――」


 強気に言い放ち、そっぽを向くフィア。その時。

 ――きゅるるる。

 フィアの腹が唸るように鳴った。雨音よりも大きいそれを聞いて、ヴィオラの口元に笑みが浮かぶ。


「腹の虫は正直だな」

「っ!」

 顔を真っ赤にしたフィアはヴィオラの手から握り飯をひったくると、背中を向けてがつがつと食べ始めた。


 ――ま、腹が膨れれば、闇雲に盗みをしようとは思わんだろ。

 がっつく少女を優しい眼差しで見つめながら、ヴィオラはそっと傘をフィアの方へ傾けた。


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