第27話 影を払って

 ――準備中。

 そう書かれた〈青い野熊亭〉の立て札に影が差し、羽を休めていた小鳥が慌てて飛び立っていった。


 具足に身を包んだローザリッタは、複雑な眼差しで立て札を見つめる。

 彼女に与えられた女給としての最初の仕事は、この立て札をひっくり返して営業中にすることだった。


 もとより夕刻から営業する食事処。朝課の鐘さえ鳴っていないこの時間に、準備中の立て札があるのは当然のことだ。だが、ローザリッタは数日の間、これが一度も裏返っていないことを知っている。


 ローザリッタは意を決して、〈青い野熊亭〉の扉を開けた。

 鍵はかかっていなかった。窓を閉め切った店内は薄暗く、しばらく掃除をしていないのか埃の匂いがする。


 厨房まで進むと、積みあがった食材を前に立ち尽くす亭主の姿があった。

 その手には包丁が握られているが、まだ何も刻んでいない。まな板の上に皮付きの芋が所在なさげに転がっているだけだ。

 憔悴しきった表情。瞼の下には黒々とした隈ができており、あまり眠れていないのがわかる。生気のなさは老衰間際の熊と言っても差し支えなかった。


「……おはようございます」

「……ああ、ローザちゃんか」

 亭主は虚ろな視線をローザリッタに向けた。


「今から発ちます。短い間でしたが、お世話になりました」

「……そうか。もう行くのか」

「はい」

 ――あの事件から数日が過ぎていた。

 補充を終えたローザリッタ一行は今日、アコースを発つ。働いた期間はそう長くもなかったが、出立に際し、どうしても挨拶をしておきたかった。リリアムからは止められたが、それでも、しなければと思ったのだ。


「……営業、できそうですか?」

「そう思って、厨房に立ってみたんだけどな。やっぱり駄目そうだ」

 亭主は乾いた笑みを浮かべると、諦めたように包丁を傍らに置いた。


「……薄々はわかっていたんだ。ファムちゃんがただの流れ者じゃないってことは」

 溜め息のような吐露。

 事件の顛末は亭主も知っている。その日から、この店の扉は閉じられたままだ。


「この一年、俺もとんだ異常者を養ったもんだ。他人の大切なものを奪うのが好きだなんてな。はは、だったら俺の童貞も奪ってくれよって話だ。宝物みたいに大切に取ってあるぜ?」

 冗談めかした口調だが、表情は変わらない。

 暗く、重く、空気が圧し掛かる。


「けど、俺はそんな異常者との生活が楽しかった。何かを奪われたことなんて一度もない。それどころか、むしろ……」


 与えられていたのだ、と唇が動いた。

 賑やかな日々を。刺激的な毎日を。ファムの調子の良さに亭主が引っ張り回されている光景は、その一年を知らないローザリッタにも容易に想像がつく。だって、彼女も楽しかったのだから。


「……こんなこと、考えちゃいけないってことくらいわかっている。でも、どうしても考えちまうんだ。ってさ」

 その言葉に、ローザリッタは痛ましげに顔を曇らせた。


 前回とは逆だ。

 モリスト地方との領土境で野盗団に襲われていた小さな村落。

 あれは自分たちが関わったことで、その魔の手から救うことができた。自分たちが村に立ち寄らなければ、今も野盗たちによって苦しめられていたことだろう。


 けれど、今回は――


「……すまん。責めるつもりじゃなかったんだ」

 亭主はばつが悪そうに視線を逸らした。


「あんたがやったことは間違っていない。誰が見ても正しい。ああ、そうだ。正しいんだよ……」

 言葉とは裏腹に、その声には遣り切れなさが滲んでいた。



 †††



 亭主に別れを告げると、ローザリッタ一行は市壁の門へ向かった。

 大通りを歩くローザリッタの足取りは重々しい。いつもなら元気にぴょこぴょこ揺れる馬尾結いの金髪も、どこか覇気がない。


「落ち込みすぎよ。あなたは何も悪くないし、何の責もない。ファムさんを斃して、第二の被害を食い止めた。よくやったと思うわ」

 少し離れたところからリリアムは励ましの言葉を投げかけるものの、ローザリッタは無言。振り向きもしない。視線は足元に向いたまま、とぼとぼと歩き続ける。


 リリアムは小さく溜め息を吐くと、隣を歩いているヴィオラを横目で窺った。


「……重症ね。だから、行くのやめろって言ったのに」

 リリアムはいつか見たローザリッタの綺麗な背中を思い出す。

 女の自分でさえうっとりするような疵一つない無垢なる背中。あらゆる困難から逃げたことがない勇者の証。責められるとわかっていても、立ち向かわずにはいられなかったのか。たとえ、それが謂れのない中傷であろうと。


 それとも、逃げることに罪悪感を覚えているのだろうか。

 だとすれば、その背中には一転して悲壮感しかない。その痛ましさに不思議とリリアムは怒りを覚えた。


「知り合いが敵になり、間接的にとはいえ、それを手にかけた。お嬢にとっては初めての経験だ。落ち込んでもしょうがない」

「そりゃそうかもしれないけど、私だったら落ち込む前に怒るわよ。だって、こっちはまったく悪くないじゃない。ファムさんの手前勝手な理屈で標的にされただけ。もっと被害者面していいのに」

「お前さんの言うことはもっともだ。お嬢は何も悪くない。それでも、お嬢はこう考えちまうんだよ。自分のせいかもしれないってな」

「……前からそんな気がしてたんだけど。もしかしてローザって、自分のこと嫌いだったりする?」

「する」

 きっぱりとヴィオラは断言した。


「……意外と面倒くさい娘ね」

「なんだ、友達やめたくなったか?」

 からかうような視線に、リリアムは肩をすくめた。


「別に。人間だもの、いろいろあるでしょ。私だっていろいろあるし……あら?」

 ふいに言葉が途切れる。

 市壁門の前に、見知った姿を発見したからだ。


「出立だと宿の者に聞いてな。間に合ってよかったよ」

 見知った人影――デストラは安堵の表情を浮かべ、三人を迎えた。


「……傷は、どうですか?」

 ローザリッタが気遣わし気にデストラの右腕を見やった。彼の利き腕には包帯が幾重にも巻かれている。


「幸いなことに切り落とさなくて済むらしい。とはいえ、これまでのようには剣を振れぬだろうがな」

「わたしがもう少し早く駆けつけていれば……」

「それは違う」

 デストラは首を横に振った。


「助太刀を断ったのは俺だ。むしろ、そなたが助けに入ってくれたからこそ、この程度で済んだのだ」

「ですが」

「そもそも、この事件の発端は俺だ。俺があの時、怒りに任せて店に乗り込んだりしなければ、そなたは俺を投げることもなく、看板娘殿が狂気を呼び覚ますこともなかった。全ては、友を疑った俺の未熟が招いたことだ」

 巻き込んですまなかった、とデストラは深々と頭を下げた。


「だから、どうか気に病まないでくれ」

「……そう言って頂けるのは、とてもありがたいです。でも、だからといって、全ての責任をデストラさん一人に押し付けることなんてできません。わたしだって当事者なんですから」

 ローザリッタは沈痛な面持ちで言った。

 自分がもっとうまくやっていれば――いや、それ以前に、リリアムに張り合って、働いてみたいなどと軽はずみに口にしなければ、こんなことにはならなかったのではないか。そんな取り留めのない考えばかりが頭を巡っている。


「わたしさえ、いなければ……」

 だからか、ローザリッタの口から珍しく弱音が零れた。

 それを聞いたデストラの表情が厳しくなる。


「そんなことを言わないでくれ。もし、そなたがあの店にいなかったら、看板娘殿ではなく、俺がシニスを殺していたかもしれんのだ。そなたがいてくれたおかげで、俺は友を手にかけるという最大の過ちを犯さずに済んだ。断じて、そなたのせいなどではない」

「でも……!」

 ローザリッタの有無に関わらず、シニスとデストラはあの店で衝突したのは間違いないだろう。彼が言うように、彼自身がシニスを殺していたかもしれない。


 ――だが、

 自分がいたばかりに、シニスの死が確定してしまったのではないか。自分という存在が、より悪い未来を引き寄せてしまったのではないか。そう思わずにはいられなかった。


 どれだけ強かろうと、いくら成人と認められようと、ローザリッタはまだ十六の小娘なのだ。人生の半分も生きていない。気持ちを整理できないこともある。


「……人生には、いつだってそういう時があるものだ」

 デストラは諭すようにゆっくりと言葉を紡いだ。

 剣士としてではなく、人生の先達としてこの少女には関わらないといけない。そう直感したかのように。


「ほんの少しのきっかけで噛み合うべき歯車が噛み合わず、噛み合わなくていい歯車が噛み合って運命の輪が狂い出す。これをな、何というか知っているか?」

「……いえ」

というのだ」

「間が、悪い……?」

 ローザリッタは信じられないといった目つきで、デストラを見た。


 竹馬の友を失って。これまで積み重ねたものを剣技を失って。人生最大の悲劇が降りかかったと言っても過言ではないのに――間が悪い。たったそれだけの言葉で片付けようというのか、この男は。


「後悔もある。無念もある。けれどな、どうやったって過去は変わらない。だから、強がって、見栄を張って、ただ間が悪かっただけだとうそぶく。そうやって立ち直るのが人間というものだ」

「そんなの……ただの空元気じゃないですか」

「かも知れんな」

 デストラは苦笑する。


「だが、空元気だっていいさ。悔やみ、思い悩み、足を止めてしまえば、せっかくの時間が失われてしまう。のは癪ではないか?」

 ローザリッタが息を呑んだ。

 死んで、なお奪い続ける。

 ファムが自刃したのは、彼女の歪んだ矜持のためだけではない。命が尽きた後も奪い続けるためだ。彼女たちが思い悩み、時間を浪費している様を嘲笑うためだ。どこまでも貪欲で、どこまでも身勝手な女なのだろう。


「だから、ローザリッタ殿。あまり思い悩むな。こういうこともあったな、くらいで片付けてしまえ。それが、生涯奪い続けることを貫いた彼女に対してできる、我らの唯一の抵抗だ」

「デストラさん……」

「俺も足掻く。利き腕は使えなくなってしまったが、これがきっかけで新たな太刀筋を見つけられるかもしれんしな」

 にやり、とデストラは笑った。

 明らかに無理をしているのがわかる。だが、誰も指摘しなかった。彼は自分の身に降りかかった理不尽に抗っているのだ。必死に。懸命に。


 ならば、自分も負けるわけにはいかない。理不尽に屈するわけにはいかない。

 ローザリッタは努めて笑顔を作った。あなたにも奪えないものはあるのだと、色濃く脳裏に残る略奪の影を笑い飛ばすように。


「……そうですね。その時は一手御教授願います」

「うむ。約束しよう。それまで息災でな。旅の無事を祈っている」

「はい!」

 すると、朝課の鐘が鳴った。

 重々しい音を立てて門が開く。人が、街が動き始める。


 ――わたしも動き出そう。

 この街で得た悲喜交々を胸の隅っこに押しやって。今はただ、先を目指そう。

 歯車を正位置に。ローザリッタの天命は今一度正しい軌道を描き出す。


「さあ、二人とも! そろそろ出発しますよ!」

 ローザリッタは力強く背後を振り返ると、旅立ちの号令をかける。

 黄金の結い髪が、いつものように元気よく揺れた。





 参の太刀、邪剣の閃き/了

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