第32話 キルハルスの一門
「――何者だ、あの少年は。これで四人抜きだぞ」
領主の邸宅の庭先――といっても、世間一般の庭とは規模が桁違いであるが――に設けた競技場。その観覧席に居並んだ家臣たちの口からどよめきが漏れる。
此度の御前試合の参加者は総勢百二十八名に達した。
これは過去最大の人数である。その大半は領主が擁する警吏部隊の精鋭や、領内に道場を構える腕利きの剣客、あるいはその門弟たちであるが、外部参加の許しを機に各地の腕自慢も数多く参戦している。
そんな海千山千の強豪がひしめく勝ち抜き戦の最中、破竹の勢いで勝利を重ねる少年の姿があった。
丁寧に結い上げ、纏め上げられた眩い金髪。健康的で瑞々しい肌。可憐な少女と見紛うばかりの端正な顔立ち。
とても荒事には向いていなさそうな優しげで繊細な風貌でありながら、既に四人もの名だたる剣士を下し、汗の一筋、呼気を乱れ一つないまま、五人目の挑戦を受けようとしている。
観覧席の頂に座す、この剣術試合の主催者にしてストラ地方領主、エフロード子爵は少年の姿を興味深げに眺めた。
「……あの若さで信じられん腕前だ」
感嘆に喉を唸らせながら、白髪交じりの豊かな顎髭をしごく。
何かと気苦労の多い為政者としての暮らしは、威厳の代わりに彼から愛嬌を奪ってしまった。幾つもの皺が刻まれた厳めしい容貌は頼り甲斐はあっても、馴れ合いや親睦などという言葉とは無縁に思える面構え。
が、この時ばかりは違った。
猛禽のように鋭いはずの両眼は星を見る子供のように見開かれ、口元には高揚を表わす深い笑みが浮かんでいる。小兵が大兵を打ち負かす単純明快な爽快感が、爵位を継ぐ前、ただの少年だったころを思い出させていた。
「あの少年、名を何という?」
「……受付名簿を確かめましたところ、マルクスと申すようです」
エフロード子爵の傍に控えている佳人が静かに答えた。
年齢は二十代半ばだろうか。墨を流したような艶やかな黒髪に、理知的な光を宿す切れ長の双眸。抜けるように白い肌が、唇に差した紅を一層鮮やかに見せる。
観覧席に座し、正装を身に着けていることから侍女ではないだろう。家臣団の一員と考えるのが自然だ。
「ほう、ベルイマン卿と同じ名か」
女の返答に、エフロード子爵は面白げに口角を上げた。
さして珍しくもない名前だ。同じ名前の人間など領内を探せば何人もいるだろう。だが、目の前で繰り広げられている少年の快進撃は、同名の伝説的な騎士の姿を想起させるのに十分だった。
「もう二十年ほど前になるか。お主が生まれるかどうかの頃だな。王城で開かれた天覧試合での、あの御仁の活躍は目覚ましかった……」
――『王国最強』の騎士、マルクス。
若くして国王直属の近衛騎士団の長を務め、数多くの天覧試合で無敗伝説を打ち立て、それを一切傷つけぬままに現役を辞した男。
そのマルクスが己が家を継いでから二十余年が経つ。若い世代の人々は、逸話こそ聞いたことがあっても、戦士としての彼を見たことがないだろう。子爵の声には、その戦いを直に見た者ならではの優越感が滲んでいた。
「特に、銀髪の剣士との決勝戦は――」
「……子爵様。試合が始まりますよ」
「おっと」
はっとしたように、エフロード子爵は視線を試合へ戻す。苦笑を浮かべて。
「歳を取ると思い出話ばかりになっていかんな。それにしても、あの少年の風体は庶民とは思えん。どこか名のある家の
「――否定は致しません」
マウナと呼ばれた女は静かに答えた。
「ですが、それは我がキルハルスの剣士たちを破ったらの話。門弟たちに勝てぬようであれば、
その言葉が本当ならば、彼女はこの土地で代々死刑執行人を務める一族、キルハルス家の長ということになる。法務執行を担う地方官吏の重鎮だ。観覧席に座していても不思議ではない。
不思議ではないが、違和感はある。
マウナの体つきは厚ぼったい正装の上からでもわかるほど華奢で、袖から覗く手首の細さはとても太刀を振るうようには見えない。手ずから斬首を行う死刑執行人の一族と言うには、彼女はあまりにも普通すぎるのだ。
不審な点はまだあった。
死刑、即ち斬首は特殊技能。その技術に秀でているからこそ、キルハルスの一族は子爵家の重鎮という地位に就いている。その当主の婿が、キルハルスの剣士を破った者というのは、一族の信用の失墜を招く行為になるのではないか。
「……どうして、こんなことになったのでしょうね」
ぽつり、とマウナが呟いた。
「あまり、自分を責めるな。今は弟を安心させてやることだけを考えろ。存外、それが特効薬かもしれん」
「……はい」
この娘に何度同じ励ましをしただろう、とエフロード子爵は述懐すると同時に、それしかできない自分の無力さをなじった。爵位を継いで二十余年。為政者としてそれなりに老成したつもりだったが――所詮は、ただの人なのだと突きつけられた気分。
事実、己は凡人だ。ベルイマン卿のような輝かしい傑物ではない。
家臣の悩み一つ、自分の手では解決してやれないのだから。
だが、それで手をこまねくのは凡人以下の愚人である。
己を無能だと理解し、その上で自分に何ができるか考えることが肝心。
自分では解決できない問題を、他人の手を借りて解決するのは決して恥じることはない。本当に恥ずべきは、安っぽい矜持に拘って問題を放置することだ。
だからこそ、エフロード子爵は御前試合を開いた。
「――期待しているぞ、伝説と同じ名を持つ少年よ」
†††
「一本、それまで! 勝者、マルクス!」
検分役が声を上げ、観覧席が沸いた。
「……完敗です。見事なものだ」
五番目の対戦相手である武装警吏の長は深々と頭を下げると、右手を差し出した。
荒事に従事する人間は常に利き手が使えるように、普段の生活の中では必要に迫られない限りは逆の手で所作を行う。利き手で握手を求めるのは、相手に対する最大級の敬意の表れだ。
「そちらも善い腕でした」
差し出された手のひらを力強く握り返し、少年は爽やかな笑みを浮かべる。
世辞ではなかった。勝てば勝つほど、次の対戦相手が強くなるのが勝ち抜き形式というものだ。五回戦まで勝ち残った警吏の腕前は、長に任命されるに相応しい充実したものだった。
「マルクス殿。是非、このまま勝ち上がられよ。優勝者に負けたとあれば、お
「ええ。貴方の分まで、最善を尽くします」
「はは、よろしく頼む」
手を解いて敬礼すると、武装警吏の長は舞台を降りていく。
その背中を見送りながら、マルクス――男装したローザリッタは笑顔の奥で、安堵の息を吐いた。
――まだ、誰にもばれていない。
男装は想像以上に機能していた。三分人材、七分
というか、胸の有無か。
ちょっとさらしを巻いただけで、ここまで都合よく誤魔化せるとは。いかに世の中の殿方が胸ばかりを見ているかがわかる。
さすがのローザリッタも一抹の情けなさを覚えるが、男がそういう単純な生き物でいてくれたからこそ、本来ならば挑むことができなかった剣術試合を満喫することができているのだから、あまり責めることもできない。
(……うん。大丈夫みたいですね)
ローザリッタは衣装の乱れを直すふりをして、股のあたりをさりげなく確認した。
並みいる強豪との戦いに精神はすっかり高揚しているものの、肉体に性的な反応は現れていない。木刀試合だからだろう。かねてからの予測通り、真剣での斬り合いが原因で起こる症状のようだ。
とはいえ、確証を得たところで何の救いにもなりはしなかった。自分は殺し合いに性的な興奮を覚える女だということが、より一層浮き彫りになっただけだ。
ローザリッタの脳裏に、ファムの姿が浮かぶ。
野盗という身分を隠し、街へ流れついた彼女を受け入れた食事処の亭主は、その本性を指して異常者と呼んだ。奪うことに極度の快楽を覚える、常識外の怪物。
だとすれば、自分もそうなのではないか。
たった一つしかない人間の命を奪い、その度に恍惚に浸る。自覚がないだけで、彼女もまたファムと同じ存在ではないのか。
悪い想像を振り払うように、ローザリッタは自分の頬を叩く。
(……いけない。今は試合に集中しなきゃ)
せっかく、準決勝まで勝ち上がったのだ。警吏長が言った通り、優勝を目指さなくては、負けた者たちに失礼だ。
すると、
「おお、シャーロウ殿だ」
「危なげなく勝ち上がったのは、彼も同じか。さすがは、キルハルス一門の次席」
「あの少年にも目を見張るものがあるが、果たして……」
ざわざわと観覧席から漂うどよめきの中に、そんな声を拾う。
――真打登場、か。
ローザリッタの表情から悪い想像と一緒に余裕が消える。
木刀を片手に、壮年の男が舞台へ上がってきた。
黒髪を短く刈り込んだ、精悍な風貌。
背丈は六尺余りの長身。肩幅も広く、道着の上からでもわかるほど筋肉の密度が高い。ただの筋肉自慢であればローザリッタの敵ではないだろうが、まったく視線を揺らさない足運びが示す通り、体幹――姿勢を支える深層筋の発達も著しい。
即ち、十分な鍛錬を積んでいる証左。
そして何より、その流名――
「……キルハルスに連なる者とお見受けします」
「我が一門をご存知か。いかにも。
「ロ……こほん。マルクスです。キルハルスの一族はこの地方最強の剣客集団だと聞きましたが、噂以上ですね。あなたほどの人物が当主でないとは……」
立ち姿を見るだけでもわかる。
おそらく、眼前の剣士はローザリッタがこれまで戦ってきた相手の中でも別格の相手だ。未だ直接手合わせをしたことはないが、自分以上と目しているリリアムにも届き得る可能性がある。
だが、シャーロウはあくまでキルハルス家に仕える
介錯人という役職を考えれば、家督が通常の世襲制であるとは考えづらいだろう。無論、血筋も重要だろうが、何よりも役目を果たすための技術の高さが後継の選定基準となるはず。
つまり、キルハルスには彼を上回る剣士が存在する。
「当主は参加されていないのですか?」
「此度は」
「……それは残念です」
それは本心だった。当主が不参加ならば、此度の大会でシャーロウ以上の相手はもういないと考えていいだろう。彼女にとってはこの試合が事実上の決勝戦だ。
「ふふ、むしろそこは強敵が減って喜ぶところではありませんか?」
「わた……ぼくは別に士官を望んでいるわけではありませんから。ただ、強い相手と戦って自分の腕を磨きたいだけです」
「なるほど。では後日、直接キルハルスの門を叩くとよいでしょう。もっとも、某に勝てぬようであれば、当主の相手は務まりませんがね」
会話を切り上げ、二人は示し合わせたように同時に木刀を構えた。
「双方、準備は良いな?」
頃合いを見て、検分役が声を掛けた。両者、頷く。
「――それでは準決勝、始め!」
号令と同時にローザリッタは正眼、シャーロウは八相に構えを取った。
双方、摺り足でじりじりと距離を刻む。
静かに、けれど着実に自分に有利な間合いを測り合い、奪い合っていく。
互いの撃尺まではあと数歩。
ローザリッタはその間に可能な限りの思考を巡らせた。五感で読み取れるありとあらゆる情報を解析し、戦術を練り、展開を予測する。
(八相……にしては――)
肘が前に出過ぎるている。これはそこを狙わせる意図があると解釈すべきか。太刀筋を限定させれば防御も容易。迫ってきたこちらの剣を払うか、いなすかして、攻勢に転じるという魂胆――
その時、ぞわり、と首筋を何かが這い上がるような感触が走った。
思考が停止するより先に身体が動く。
悪寒の正体はすぐにわかった。何の前触れもなく、視界の中央に剣尖が迫り来たのだ。残り数歩の距離を消し飛ばして。
「くっ……!」
回避行動を取ったにも関わらず、なおも蛇のように迫りくる剣尖。それを遮二無二弾きながら、素早く後退。体勢を立て直す。
(これは……
目の前で起こった不可思議の正体を、ローザリッタは即座に看破した。
武術における速さとは単なる物理速度ではない。認識速度だ。命を賭した斬り合いでは、ほんの一瞬、判断が遅れるだけで致命的な隙となる。
逆説的に、相手の認識を能動的に狂わせることができれば、隙を生じさせることができるといっても過言ではないだろう。
武術の世界では古来よりその技術を追求してきたが、その解答の一つが縮地――運足の理想形とされる技術である。
構えた状態から左足の裏を地面に対して水平に持ち上げ、滑るように下げる。重心が崩れ、自然と体が前へ傾斜する――と同時に右足を前へ出す。
すると、どうなるか。
本来ならば存在する踏み込みが省略され、身体が勝手に前へ進むのだ。
重心移動のみを推進力にした身体制御。
予備動作による行動予測が叶わないので、この技を仕掛けられた者は、気がついたら相手が目の前にいたという摩訶不思議な感覚を味わうことだろう。
無論、実践するのは言うほど容易ではない。右足を出すのが早ければ前のめりに転倒し、遅ければ自重を支えるために硬直する。全ての条件を寸分の狂いなく一致させなければ、この魔法じみた移動術は成し得ない。
それをこうも自然に実現するとは――シャーロウの修練の高さを窺わせる一手。
そんな奇襲にも等しい一撃をローザリッタが凌げたのはもっと単純な話。
ベルイマン古流にも同様の技術が存在するからだ。
ベルイマン古流は、この世界における最古の刀剣操法。
男爵家で連綿と庇護されていった一方で、建国初期のうちに枝分かれしていって世に流出したものもある。
そうでなくとも、剣術とは文字通り刀剣の操法の最適解を求める試行錯誤。さながら収斂進化のように同様の答えに行きつくことも珍しくない。
(……とはいえ、ベルイマン古流の術理は、最終的に空を渡るためのもの。地上戦の術理の精度はさすがに向こうが上か)
主戦場を地上に限定し、それに必要な技巧のみが洗練されるのが現代剣術だ。
天地を渡って三次元的に展開するベルイマンのような流派は、現代の尺度で考えれば、むしろ特殊な部類に入るだろう。
一刀で仕留められなかったことで警戒を強めたのか、シャーロウは追撃を仕掛けなかった。再度、距離の削り合いが始まる。
(……今度は、こちらから行かせてもらいます!)
胸の内で宣言すると、ローザリッタは切っ先をやや下げて、身を沈めた。
一歩踏み出すごとに、少しずつ前のめりに。間境に入る頃には、無防備な後頭部が敵手の前に差し出された形になる。
撃尺に達した瞬間、シャーロウはローザリッタのむき出しの後頭部目がけて正確に唐竹割りを振り落す。
――誘導成功。
木刀を手元に引き込み、頭上に迫る剣閃を切り上げる。甲高い音を立てて接触。軌道が逸れた一刀は、肩口の裾を霞めながら過ぎて行った。
同時に、がら空きになった脇腹が視界に入る。
低姿勢から足を狙うと見せかけて、それを制しようとする振り下ろしを誘い、更にはそれを受け流して、新たに生まれた隙を突く。先の先を読んでの攻撃。
ローザリッタは手首を返して、打ってくれと言わんばかりの脇腹を薙いだ。
――だが。
(読まれた……!)
脇腹を無残に打ち据えるはずのローザリッタの木刀は、翻ったシャーロウの木刀によって阻まれていた。
防御への切り替えが異様なほど早い。こうなることを予見していたとしか思えなかった。おそらく、ローザリッタの意図を察知し、先の唐竹を放った時には既に変転に備えていたのだろう。
しかも、その力加減が絶妙だった。
シャーロウが誘いに乗らなければ、あるいは乗ったふりをしていることに気づけば、即座に別の攻め方に変更する心積もりでいたが、彼女が続行を決意するほどに、その一刀には頭頂を割らんと気迫が込められていた。
まんまと読み合いで上を行かれた。
そして、近接してしまった以上、そのまま鍔迫り合いに持ち込まれるのは道理。
「ぐっ……!」
極限まで張りつめた、ローザリッタの両腕が震える。
鍔迫り合いは、彼女が最も不得手とする状態だ。
女であり、体格も小さいローザリッタは、いくら鍛えようと身に着けられる筋力には限界がある。覆せない男女の筋肉量の差。向こうもそれは解っている。だからこそ、誘いに乗ったふりをして、この状況に陥るように仕向けたのだ。
(まずい、このままじゃ斬り潰される……!)
どれだけ力を籠めようと、一寸たりと押し返すことはできなかった。
それどころか、じわじわと押し込まれていく。まるで倒れゆく石壁と力比べをしているような感覚。
(この――!)
更に一歩、シャーロウが力を入れた瞬間、ローザリッタが脱力。押し込まれる力を受け流し、さながら
互いに背中を向けた状況では、先に正面を向いた方が攻勢の機会を得る。
小柄なローザリッタの方が回転半径の面で有利である。
ここで流れを掴み、挽回を試みる――が、向き直ろうとする寸前、いち早く転身したシャーロウが突進してくる姿が視界に飛び込んできた。
(あの体躯で、なんと身軽な――!)
肩同士をぶつけ合い、再度拮抗――する間もなく、あえなく弾き飛ばされた。
ローザリッタとシャーロウでは重量が犬と熊ほどに違う。心と技では埋めようのない、圧倒的な体の差が露骨に出た。
掬い上げるような追撃。ローザリッタはそのまま体勢を崩し、その推進力を以って転がった。なりふり構わない回避。
観覧席から落胆の声があがる。
目覚ましい活躍を見せた期待の新星も、やはりストラ地方最強たるキルハルスの一門には及ばないのか。そう言いたげな大気の震え。
しかし、そんな雑音はローザリッタの耳には届いていなかった。
(強い……本当に強い……!)
土にまみれた体を起こしながら、ローザリッタの胸中に純粋な憧憬が湧きあがるのを感じる。
これまで戦ってきた相手は、強いがどこか癖のある相手ばかりだった。
その癖を突くことでこれまで何度も起死回生を図ってきたが、眼前の相手にはそれらしきものがない。あらゆる要素が高次元で纏まっており、付け入る隙が一向に見当たらない。
肉体性能は明確に劣っている。読み合いでも上を行かれた。真剣勝負の経験も、おそらく自分以上だろう。ここまで敗北の二字が色濃く想像できたのは、いつ以来だろうか。
こんな猛者、郷里に閉じ込められたままではきっと出会えなかった。
やはり、自分などまだまだだ。理想の自分には遠い。遠すぎる。
――だったら。こんなところで立ち止まっているわけにはいかない。
(出し切れ――わたしが鍛えてきたもののすべてを出し切れ! 例え敗北しようと、より多くのものを学び取れ! そのために、出せる手は全て出し尽くせ!)
決意を新たに、ローザリッタはもう一度下段に構える。
――刹那、音もなく距離を消し飛ばした。
今度は、彼女が縮地を仕掛けたのだ。
だが、シャーロウは動じない。相手の縮地に反応して見せた時点で、同様の技術を体得していると判断したのだろう。
ローザリッタはシャーロウの懐に入る。
刃を返して、下段からの逆流れを繰り出した。
――退くか、受けるか。
これが同流対決であればまた違った展開予測になるが、二次元戦闘が主流の現代剣術において、選択肢は二択しかあり得ない。そのどちらを選んでも、対処できるだけの戦術を脳裏に展開する。
だが、シャーロウの行動はそのどちらでもなかった。
ローザリッタの顔に影が差す。
「はっ!」
シャーロウは跳んだ。高々と、空を舞うように。
退けば、何らかの突進技が連続で放たれると踏んだのか。確かに、跳んで避けるなどと言うのは通常の剣術勝負では考えられないだろう。そもそも、この大男がこれほどの跳躍力を持っているとは想像の
――埒外?
否。それは油断だ。思考停止だ。
何が起こるかわからない他流試合、それも初めて剣を交える流派を相手に、二択しかないなどと決めつけた。視野狭窄が招いた愚の骨頂だ。
加えて、偶然の産物であるものの、シャーロウの選択は彼女にとって実に最悪なものだった。
これでは自分も跳ぶことができない。
ローザリッタならばもっと高く跳べるだろう。だが、距離が近すぎた。この状況で跳んだとしても、最高点に到達する前に叩き落されてしまう。後追いをすることは、それだけで自分の首を絞めるも同義だ。
(ああ……負けた)
ぼんやりと、ローザリッタは思った。
ここから立て直す術を彼女は持たない。腕は伸びきり、追撃をする余裕もない。せいぜい受け太刀をするくらいだが、落下速度を味方につけたシャーロウの一撃を受け切れるかどうか――いや。
果たしてそうだろうか。
ここにこそ、活路があるのではないだろうか。
ローザリッタの古い記憶が何かを訴えかけてくる。お前にはあるはずだ。郷里では誰よりも高く、長く跳べたが故に使う機会に恵まれなかったものの、この状況を打破し得るものを持っているはずだ、と。
閃きは電光にも似て。
答えを得たローザリッタは、悪手と理解してもなお後を追って跳んだ。
上から振り下ろされる木刀と、下から振り上げられる木刀。
二条の剣閃が空中で強かに交差して、止まる。下降する力と上昇する力がぶつかり合い、両者の体は中空で停滞した。
だが、それもわずかな時間。
高所に位置するシャーロウはいずれ重力を味方につけ、そのまま彼女を叩き落とすであろう。
――そのわずかな時間で十分だった。
空中戦においては、高所に位置取りをした者が絶対的に有利である。
だが、それに失敗したからといって負けが確定するわけではない。
何故ならば、ベルイマン古流にはその劣勢を挽回できる技法も存在するからだ。
「なにっ」
驚愕の声。
ローザリッタの足が、蛇のようにシャーロウのふくらはぎに絡みつく。交叉した足を軸にくるりと体勢が――上下が入れ替わった。
天地返し。
空中戦における高所と低所、優勢と劣勢を覆す妙技。
かつて郷里の森でヴィオラと空渡り同士の稽古をした時、ローザリッタが空中で反転し、頭からヴィオラを迎え撃ったのはこれを防ぐためだったのだ。
よもや、この状況で足払いをされるとは思いもよらなかったのだろう。
足場のない空中では踏ん張ることもできない。自分の身に何が起こったのかわからないまま、シャーロウは背中から墜落した。
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