第33話 縁談
「おおっ!」
エフロード子爵は拳を握って席を立ち上がった。
厳めしい顔に浮かんでいるのは驚嘆、そして高揚。
始終、劣勢だった少年の鮮やかなる逆転劇。体が大きく、重い者が圧倒的に有利――そんな戦いの無情な常識を覆すような番狂わせ。これで血潮が滾らなければ男ではない。そう言いたげに。
だが、昂ぶったのは男だけではない。
その傍に控えるマウナも感嘆に目を見開いていた。
胸が熱くなる。動悸が高まる。婿を探して三年が経とうとしていたが、これまでの御前試合でシャーロウを超える剣士は一人も現れなかった。そして、これからも現れない。そう観念していたが――ついに運命に巡り合えた気がした。
「……彼なら、倒せるかもしれない」
艶やかな朱唇から、そんな言葉が漏れる。
熱気に包まれた観覧席の誰もが、彼女の修飾語の欠損を指摘しなかった。
†††
「――ぐはっ!」
シャーロウの喉が震える。
咄嗟のことで受け身が間に合わなかった。硬い地面に打ち付けられた衝撃が全身を貫き、あらゆる感覚が消失する。
シャーロウが墜落しても、検分役はまだ決着の合図を出さなかった。
実戦ならともかく、剣術試合という催しで、体術による有効打を認めるか迷ったのだろう。
だが、それも些細なことだ。
シャーロウが起き上るには最低でも数秒を要する。一瞬の隙を探り合う剣術勝負において、その数秒はあまりにも長大すぎた。実戦であれば三度は殺されてもおかしくない。
対して、ローザリッタはは無事に着地。すぐに木刀の切っ先をシャーロウに突き付ければ、その時点で勝利だ。そのような仕草、一秒あれば事足りる。彼女の勝利は目前だ。
「――――」
なのに、ローザリッタは着地の姿勢のまま動かなかった。
すっかり血の気が引いた顔は白いというより真っ青で、頬にはびっしりと脂汗が浮かんでいる。
着地の衝撃で足でも痛めたか。
いや、普段からもっと高いところを跳んでいるローザリッタに限って、それは考えにくい。あの程度の空中戦、郷里では毎日のようにこなしてきた。要因は身体的な負傷ではなく、別のところにある。
(さらしが……破れちゃった……)
ローザリッタの服の下。彼女の豊満な乳房をぎゅうぎゅうに締め付けているさらしの一部に切れ目が入っていた。ここで激しく体を動かせば裂け目が広がり、押さえつけていたものがまろびでるのは想像に難くない。
これが真剣勝負であれば、そんなことを考えている暇はないだろう。
乳が飛び出そうが、尻が丸見えになろうが、いちいち気にしている余裕はない。むしろ、命を賭した遣り取りをしているのに、そんな些末なことで動揺することのほうが問題である。
しかし、今回は男子限定の剣術試合だ。
命の遣り取りではないうえに、性別を偽って参加しているという負い目が、ローザリッタに猶予を与えてしまった。
結果、その硬直は数秒におよび――シャーロウの復調を許してしまう。
苦痛に顔を歪めながらも木刀を構え直した敵手に、ローザリッタは内心で悲鳴を上げた。
(ちょ、ちょ、ちょっと待って――!?)
無論、試合に待ったはない。そして、彼女の懊悩もまたシャーロウに伝わることはない。
彼が
この御前試合が男子限定である理由は結局解らぬままだったが、何れにせよ彼女は主催者――この地方最大の権力者が定めた規則に真っ向から逆らっている。正体がバレればどのようなお咎めがあるかわかったものではない。さすがに命までは取られはしないだろうが、何らかの罰が下されれば旅に支障が出る恐れがある。
もう、あれこれ考える時間はなかった。
ローザリッタは意を決したように目を見開き――
「棄権します!!!」
「「……は?」」
朗々とした宣言に、シャーロウと検分役が間抜けな声を出す。
「それでは失礼!」
ローザリッタは胸元を抑えながら、逃げるように舞台から去って行った。
†††
領主の邸宅の周囲を、ヴィオラは落ち着きのない犬のようにうろうろとしていた。
御前試合というものに一般観戦はない。
文字通り、主催者の前で腕を競う催し。特別な許しがない限りは、参加者以外の人間は敷地内に踏み込むことはできないのだ。
そもそもからして、武術の試合は秘匿されるべきもの。
積み重ねた修練の成果を易々と無差別に公開すれば技術の漏洩に繋がり、ひいては流派の衰退に繋がる。興行的には相性がいいものの、見世物にされることを嫌う武芸者も多い。なので、このような仕儀は当然のことだった。ヴィオラにできることは主人の無事を祈りつつ、こうやって待つことだけである。
「……少しは落ち着いたら?」
落ち着きの無さに呆れたようにリリアムが言った。
その両手には串団子が握られている。彼女の昼餉の一部だ。残りは既に胃の中に収められている。食後の甘味か。
「ローザだって子供じゃないんだから。一人で行って、一人で帰ってこれるわよ」
「そりゃそうかもしれないけどさ……」
理解はしているが、気持ちが伴わないのだろう。
従者として長年、ローザリッタの傍に侍っていた身分だ。木刀試合とはいえ、自分を置いて戦いに行ったことに一抹の不安を禁じ得ない。過保護と呆れられても否定できない性分。
「まだそんなに暑くないけど、朝からずっと立ちっぱなしじゃ、ヴィオラさんのほうが先に倒れちゃうわよ。ほらほら、食べて食べて」
「むぐ」
リリアムは溜め息交じりにヴィオラの口に団子を突っ込んだ。団子の自然な甘みがヴィオラの焦燥を和らげていく。
「どう、美味しい?」
「……美味い」
「そ。なら良かったわ」
静かに微笑むと、リリアムも自分の分を口に運ぶ。
「……気を遣わせてすまんな。お前の方は、何か手がかりがあったか?」
ヴィオラの問いかけに、リリアムは肩をすくめた。
「さっぱりね。負けて出てきた連中に話を聞いてみたけど、それらしい参加者はいなかったそうよ。だいたいが仕官口を探しての参加でしょうからね。あいつが今更、どこかに仕官するとも思えないし、もともと望み薄だったわ」
「お前の旅も一筋縄じゃ行かないな」
「……覚悟の上だから」
冷めた反応。こういったことは一度や二度ではないのだろう。だが、それでも旅を辞めないのは、彼女の中に決して消えない炎があるからだ。憎悪という名の。
「ところで最近、変じゃない?」
リリアムがそれとなく話題を変えた。
ヴィオラも追及する気はなかったので、それに乗る。
「なにがだ?」
「ローザのことよ。どうにもこそこそしているっていうか、何か隠しているっていうか……そんな感じしない?」
「ああ、そういう感じするな。ま、悩みの多い年頃だ。お嬢も見えないところで何か抱えているんだろうよ」
「……こっちから詮索した方がいいかしら?」
リリアムは友人として、ローザリッタの悩みを解決してやりたいのだろう。
冷めた印象があるが、根っこの部分では情に厚い。そうでなければ、足手まといになるとわかって旅の素人二人を同行させはしない。
「難しいところだよな。相談できる内容なら相談しているだろうし、よっぽど言い出しにくいことなのか……」
「言い出しにくいことね……たとえば、好きな人がいるとか?」
「ははは!」
ヴィオラが思わず吹いた。
「ないない! お嬢がそんな普通の女の子だったら、こんな旅してないって!」
「それもそうね」
そんな遣り取りをしていると、ローザリッタがすごすごと戻ってきた。
「噂をすればね。お疲れ様。どうだった?」
「……準決勝で棄権しました」
二人が驚きに目を剥く。
準決勝まで進んだことではなく、その次の言葉に。
「お嬢が棄権するなんて天変地異の前触れか? 一体何があったんだよ?」
「実は、途中でさらしが破れまして……」
「あんなにぐるぐる巻きにしたのに?」
「はい。性別を偽って参加した天罰でしょうか。大義のない戦いでは、やはり加護は得られな……あっ!」
小さな悲鳴。布が裂ける音がした後、ぼん、と胸元が爆発的に盛り上がった。裾が引っ張られ、
「か、間一髪でした……」
「本当、わがままなおっぱいね……」
げんなりしたような顔のリリアム。今度は吐血しなかった。二度目なので耐性ができたようだ。
「ま、準決勝まで進んだのなら、まずまずの結果なんじゃない?」
「これさえなければ勝てたんですけどね……」
ローザリッタは千切れたさらしを不満げに弄ぶ。言葉通りなのだから、悔しさもひとしおだ。
「とはいえ、有意義な時間だったと思います。村で聞いたキルハルスの剣士とも戦えましたし」
「へえ、どうだった?」
問いかけに、ローザリッタは先刻の戦いを振り返った。攻防の一つ一つが脳裏に鮮明に刻まれている。さほど時間が経っていないというのもあるが、あれほどの手練れ、そう簡単に忘れることはできない。
「……強かったです。純粋な剣術比べであそこまで追い詰められたのは、ずいぶんと久しぶりでした」
「お嬢にそこまで言わせるたぁ、ストラ地方最強は伊達じゃないな」
「幸いなことに、もっと上がいるそうです。後日、キルハルスの家を訪ねて、その方に手合わせを願い出ようと思います」
シャーロウの言葉が事実なら、一族の長は彼以上の技量だという。第二位を相手にこれだけの体験ができたのだ。当主と剣を交えれば、どれだけのことを学べるだろう。試合が終わったばかりだというのに、ローザリッタの胸中には真っ赤な闘志が燃え盛る。
「次は万全の状態で挑みます」
「万全の状態って?」
「そりゃあ、いつも通りの格好ですよ。さらしはもうこりごりです。胸が揺れないのは助かりますが、息が苦しいわ、肋骨が締め付けられるわ、もう大変――」
「――なるほど。先ほどの硬直はそういうわけでしたか。まさか女人とは、まんまと騙されました」
背後から投げかけられる柔らかい声。
振り向くと、少し離れた先に長い黒髪の女性が立っていた。衣装も庶民が纏うような粗雑なつくりではなく、しっかりと仕立てられた政務用のもの。
つまり――
「……あ、あなたは?」
「失礼。
その言葉に、ローザリッタの肩がぎくりと揺れる。
領主の家臣であれば観覧席にいたはずだ。つまりは御前試合の関係者。その女性に男装が解けた姿を見られてしまった。
もはや弁解はできないだろう。下手に否定しても、咎めが重くなるだけだ。ローザリッタは観念したように深々と頭を下げた。
「も、申し訳ありません! 男子限定と知ってはいたのですが、どうしても腕試しがしたくて……!」
己の意固地さを呪いたくもなるが、後悔先に立たずだ。今は精一杯の謝辞を並べることしかできない。
だが、返ってきた言葉は予想外のものだった。
「顔を上げてください。別に偽ったことを咎めようというわけではありません」
「……え?」
「咎めないんだ? そのくらいで済むくらいの規定なら、わざわざ男子限定なんて張り出さなくてよかったんじゃないの?」
当然の疑問をリリアムが口にする。
ローザリッタが浅慮にも規定を破ったのは公然の事実だ。それを咎めないというのならば、わざわざ規定する必要がない。
「その規定が設けられたのは、私の婿を探すためです」
「……なるほど。それで領主様が気を利かせたってわけ」
先程、マウナは自らを代理当主と称した。
つまり、本来の当主が別にいるはずなのだ。それが何らかの理由で、いま当主の座を降りており、彼女が代理をしている。
だが、ベルイマン男爵家のお家事情からも分かる通り、女当主は原則として一代限り。すぐに婿を取り、後継ぎを作らねばならない。
そして、臣下の婚姻問題は領主も無関係ではなかった。職能によって成り立つ一族が潰えれば職務が停滞するのだから、問題解決のために可能な限り力を貸すだろう。どうしてそれが御前試合なのかは部外者である三人にはわからないが。
「左様。私には強い夫がどうしても必要なのです。少なくとも、シャーロウを上回る遣い手が。かれこれ三年間探し続けましたが、彼を打倒し得たのはマルクス殿ただ一人です。女であることは悔やまれますが、私にはもう時間がない。これ以上、待つことはできません」
マウナは決意に満ちた表情で、ローザリッタを見た。
「マルクス殿。あなたが女であろうと構いません。どうか、私の婿になってください」
「「「はあ!?」」」
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