幕間の太刀

第43話 ヴィオラ外伝(1)

 雨は嫌いだ。

 理由なんていくらでもある。

 服が濡れて冷たい。泥が跳ねて靴が汚れる。湿気がまとわりついて鬱陶しい――


 何より、雨の音がもたらす寂寥感。

 絶え間なく響く雨音が他の音をかき消してしまって、騒がしいはずなのに、どこか遠い世界に取り残されてしまったような寂しさを覚えてしまう。


 それがヴィオラにとっては、どうにも居心地がよくなかった。

 ――あの頃を思い出すから。


「……それにしても、全然乾かねぇな」

 室内干しのために設けられた一室。物干し竿にかかった洗濯物の一つを指先で触りながら、ヴィオラは憂鬱そうに溜め息を吐いた。


 窓の外は大粒の雨が降り注いでいる。空は分厚い雲に覆われており、昼間だというのに薄暗い。室内であればなおのことだ。それがもう三日も続けば、気が滅入ってしまうのも無理はない。


 ――雨季。

 レスニア王国を擁する大平原には、年に二回ほど降水量が爆発的に増える時期がある。

 生きとし生ける者。とりわけ、水稲耕作による食糧生産が要であるレスニア王国の民にとって、この時期の長雨は生命線だ。干ばつに見舞われれば、稲が根を十分に張ることができずに夏を乗り切ることができない。まさに天恵と呼ぶに相応しいが、一向に乾く気配を見せない洗濯物を前にすると、どうしても煩わしさが先に立ってしまうのは人情というものだろう。


「それもこれも、お嬢が毎日のように稽古場に行くからだぞ」

 そう言いながら、ヴィオラは呆れたような視線を背後の主人に向ける。


「だって、他流の稽古に混じることができる機会なんてなかなかないんですよ。一日でも多く足を運ばないともったいないじゃないですか」

 切れ長の黒瞳の先。列を成す生乾きの洗濯物を生み出した張本人である主人、ローザリッタは悪びれもなくのたまった。


 少し前のことである。

 ストラ地方の行政都市サナリオンへと到着したローザリッタ一行は、領主が主催する剣術大会に参加したことをきっかけに、この地における司法執行の要、介錯人一族の長にまつわる事件に関わることとなった。


 人に語れば疑いの眼差しを向けられること必至の非現実な激闘の末――どうにか事態を解決へと導いた三人であったが、手傷を負ったまま出立することに不安を覚え、当主の厚意もあって、そのままキルハルスの屋敷に逗留して治療を続けることにしたのである。


 だが、そうこうしているうちに雨季が到来。本格的な足止めを喰らってしまった。


 元より辺境を往く旅路そのものが危険の塊。それに、いつ止むともしれぬ雨が加われば、その深刻さは計り知れない。道中で河川の氾濫や土砂崩れなどに見舞われれば、いかな剣の達人とはいえ無事では済まないだろう。自然の猛威に比べれば人間などちっぽけな存在だ。三人は逸る気持ちを抑え、雨季が過ぎるまで出立を延期せざるを得なかった。


 予定から外れた長逗留ではあるが、雨季が過ぎるまでの間、ローザリッタはこれ幸いにとキルハルスの道場に入り浸っている。


 本来、武術の道場とは門下生以外は立ち入ってはならない。部外者に揚々と稽古を見せてしまっては瞬く間に技術が漏洩してしまうからだ。見学を許す道場でも、術理を盗まれないように型に『崩し』を入れることで、流派の神髄を易々と見抜けぬように工夫を行っている。いずれにせよ、入門もしていない人間が正しい稽古を見聞きすることは不可能と言っていい。


 されど、一族の窮地を救ったローザリッタは、当主の厚意によって特例として道場に踏み入ることを許されている。シャーロウを筆頭としたキルハルスの優れたる強者と剣を交えるという新鮮な体験は、彼女の類稀なる才覚に更なる磨きをかけ、剣士としての腕前に更なる飛躍をもたらしていた。


 その代償として――


「言わんとすることはわかるが、着替えがなくなるまでやるこたぁないだろ」

「だってぇ」


 従者の正論に、ローザリッタは童女のように唇を尖らせる。

 験を担ぐことを重んじる風潮がある古い武家にとって、心身の不浄ふじょうは太刀筋の不定ふじょうに繋がると信じられており、稽古前後のみそぎは極めて重要なことだった。当然、身に着ける物も清潔でなくてはならないため、その都度、着替えを行わなければならない。


 なんとも手間のかかることではあるが、定められた場所に住み、生活基盤が安定していれば――即ち、生家であればさしたる問題ではなかっただろう。


 されど、ローザリッタは武者修行の身。それも徒歩かちでの旅だ。

 人間一人が背負える荷物には限界があり、その容量の大半は食糧や水筒、野犬散らしといった生死に関わる道具が優先して収納される。他にも提灯、松明といった照明具、少々の縄、鍋などの調理器具といったものも快適な旅には必要だ。


 それらの物資に比べれば予備の衣装などは不可欠とは言い難い。多少の損傷は裁縫針と糸さえあれば応急処置ができるからだ。


 もっとも、いくら正体を伏せているとはいえ、貴人であるローザリッタには旅の最中であっても相応の品格が求められる。旅人の心得に逆らってでも、替えの衣装は強引に詰め込まざるを得ないが――何せ、この長雨だ。洗った服は一向に乾かず、先述の事情で頻繁に着替えるため、予備の着替えはあっという間に底を尽きてしまった。


 そのおかげで――


「だってじゃねぇ。主人にあられもない姿をさせちまっている侍女の気持ちを考えろってんだ」


 胡乱な視線を注がれたローザリッタは己の姿を見直した。

 その姿はいつもの旅装束ではなく、かつて路銀稼ぎに働いた食事処の制服――そう、あの方々で物議を醸したである。


「これの、どこがあられもないんです?」


 きょとん、とローザリッタは首を傾げる。それに合わせて、頭飾りの兎の耳がぴょこりと動いた。ますますもってヴィオラの視線は険しくなる。


「本気で言ってんだもんなぁ……」

 

 卑猥とさえ言えるほど露出の多い格好ではあるが、当の本人は『可愛い』の一言で済ませている。もとより肌を晒すことに抵抗がない貴族階級。幼い頃より他人の目に晒されて育ってきたため、羞恥に対する感覚は庶民とは根底から違うのは承知の上なのだが、この調子ではその格好で稽古に行きかねない。よかった、今日の分まで服が持って。ヴィオラは心の底から安堵する。


 ……つーか、その服、持ってきてたんかい。


「まあ、いざとなれば火鉢の上で乾かせばいいか。炭の臭いがつくけど、その格好で出歩かれるよりマシだ」

「――そう言うと思って借りて来たわよ」


 そんな声とともに物干し部屋の戸が開く。その向こうから姿を現したのは、火鉢を抱えたリリアムだ。


「お。気が利くじゃないか、リリアム」


 にやり、と白い歯を見せてヴィオラが笑う。

 旅の仲間である銀髪紅眼の少女は、天然風味の主と違って、ヴィオラと同等の価値基準を持つ。つまり、常識人だ。人を斬れないという脆弱性を抱えるものの剣の腕に優れ、聡明で、世情にも明るい。旅の道中、彼女の機転に助けられたことは一度や二度ではない。彼女の存在はローザリッタだけでなく、ヴィオラにとっても既に大きなものになっていた。


 リリアムはふんと鼻を鳴らしながら、ヴィオラに火鉢を手渡す。


「その格好のローザに目の前をうろうろされると、気が滅入っちゃうからね」

「それはまあ、同意」


 適当な位置に火鉢を設置しながら、ヴィオラ。

 かつてより身体的劣等感を抱えるリリアムはもとより、ヴィオラも主人が衆目の前で痴態を晒してしまわないか気が気ではない。ローザリッタの認識は別にして、客観的には下着よりはマシくらいの格好なのだ。


「……ただでさえ、足止めを食らっていらいらしているのに」


 リリアムの舌先に、わずかに毒がこもる。

 母親の仇を探す旅をしているリリアムからすれば、この長逗留はローザリッタやヴィオラ以上の焦燥感があるのは間違いない。


 しかし、強行軍を貫いた挙句、目的を達成できないまま落命しては本末転倒だ。合理的な判断はリリアムの得意とするところ。されど、その決定に気持ちを完全に切り離せているかは別だろう。


「ご、ごめんなさい……」

 発言の意図に気づいたローザリッタがしゅんと首を垂れる。

 因果を辿れば、男子限定の剣術大会に無理やり参加した彼女のわがままが発端だ。あのような事件に巻き込まれなければ、つづがなく旅を再開できたのは間違いないだろう。


 申し訳なさそうなローザリッタを見て、リリアムがばつが悪そうに眉をしかめる。


「……今のは私の失言ね。ローザのせいなんかじゃないわ。こんな事態になるなんて誰にも想像できなかったんだから。謝るのはこっちの方よ」

 ごめんなさい、とリリアムが呟く。自己嫌悪混じりに。


「まったく未熟だわ。天気に文句を言ってもしょうがないのにね。あー、美味しいものでも食べて気分転換したいわ」

「……毎日食ってるじゃねぇか」


 呆れ顔でヴィオラ。

 とんだ長逗留になってしまったが、キルハルスの歓待は変わらなかった。毎日のように魚鳥に飽くる食事でもてなしてくれている。並の家柄であれば、一生分の贅沢をしたと思えるほどに。


「そういうのじゃなくて、もっとこう、庶民的なやつよ。串焼きとか」

「そりゃまた雑な。でも、言いたいことはわかる」

「あとお芋さんとか食べたいわね。せっかくの芋鍋を、あの野盗どもに台無しにされたし……」


 離れ離れになった恋人を想うような眼差しで、リリアム。

 ストラ地方に足を踏み入れて間もない頃、森の中で自生している芋を見つけた。保存食にも飽き飽きしていた三人は、野営のために立ち寄った河原で採れたての芋を調理していたところ、野盗の襲撃に遭って食べ損なってしまったのだ。


 しかし、リリアムの言には誤謬ごびゅうがある。


「台無しにしたのは野盗というより、ヴィオラでは?」

「……そういえばそうだったわね」


 その時のことを思い出したのか、リリアムの真紅の双眸に恨みがましそうな光が宿る。その通り。年齢に触れられたヴィオラが激昂して、野盗たちに鍋を投げつけたのだ。もっとも、その先制攻撃が功を奏して、首尾よく野盗を撃退できたのは事実であるが――そんなもので帳消しにできるほど、食べ物の恨みというのは浅くない。


「わかった、わかった。芋だな。芋を食わせればいいんだな。ったく、食い物の恨みは怖ぇなあ……」


 ヴィオラは観念したように溜め息を吐きながら言った。

 一応、台無しにした自覚はあるらしい。


「お芋と言えば、シルネオの街で食べた揚げ芋は美味しかったわね」


 リリアムが言っているのは、ローザリッタの故郷の名物だ。

 領主がまだ領主ではなく、ただの跡取りとして騎士団に属していたころ、従軍中に松の枝を削って芋を焼いたという逸話から作り出された創作の名物料理。湯がいた芋を潰して油で揚げたものに、溶かした乾酪かんらくをかけて食べる。実物とは似ても似つかないが、まさしくリリアムが求める雑で美味な料理であろう。


「……ああ、食べたいですね」


 そう言ったローザリッタの表情が寂し気に陰った。

 故郷を発ってから、かなりの月日が流れている。武者修行の旅を望んだのは彼女の意思だが、時には望郷に浸りたい時もあるだろう。彼女は十六の小娘に過ぎない。ましてや、この歳になるまで街の外へ一歩も出たことがなかったのだから。


 そんな主人の内心を読み取ったのか、ヴィオラは鼻を鳴らした。しょうがない、とでも言いたげに。


「……じゃあ、作るか」


 その言葉に、リリアムがきょとんと目を瞬かせた。


「え? 作れるの?」

「おいおい、これでもベルイマン男爵家の侍女。それも継嗣のお付きだぜ。掃除、洗濯、炊事。なんでもござれだ。揚げ芋ぐらい、どうってことはない」


 その頼もしい言葉に、リリアムがきらきらと目を輝かせる。


「ヴィオラさんってその口調さえどうにかすれば、お嫁さんとして文句なしね!」

「現金な奴め……」


 さっきまでとは打って変わった態度に、ヴィオラが忌々し気に口元を歪めた。


「お世辞じゃなくて、本気で思っているわよ。でも、だからこそ不思議。あの失礼千万な野盗たちじゃないけど、ヴィオラさん、もう二十歳過ぎているでしょ。そろそろ身を固める時期じゃない? なんで、ローザの旅に付き合おうと思ったの?」

「余計なお世話だ。だいたい、あたしが結婚したら誰がお嬢の面倒を見るんだよ?」

「あら、そうかしら。先に子供を作っておいたら、ローザが赤ちゃん産んだ時に乳母になれるじゃない?」

 王侯貴族では子育ては雑事と捉えられることが多いため、母親自ら子供の世話をするということは少ない。授乳を含め、専門の教育係を用意するのが常識だ。


 そして、乳母は誰でもいいわけではない。乳母兄弟という言葉があるように、血が繋がっておらずとも母乳を通じて両者の一族が結合するという意味もある。武家では当主の子と乳母の子は主従の間柄であることが多く、そのため乳母役もある程度の位の高さが求められるのだ。


「手ずから子育てをする貴族の奥方もいるだろうけど、ローザに乳母役は必要だと思うわ。ほら、胸が大きい人ってあんまり母乳出ないらしいから」

「え、そうなんですか? ただでさえ剣を振る時に邪魔なのに、これでお乳が出ないなら、ますます価値なんてないじゃないですか」

 無垢なローザリッタは胸元にぶら下がっているそれが大いなる価値を持っている自覚がなく、ましてや授乳以外に使い道があるなど想像もしたことがなかった。


「ご愁傷様ね。まあ、これも等価交換ってやつよ」

 ふふん、と得意げに鼻を鳴らすリリアム。

 先の時代ではどうかはわからないが、実用的な代用乳がほとんど存在この時代において、母乳の多寡は容姿の美しさに並んで女の価値を決める要素である。ついつい勝ち誇ってしまうのも無理はない。


 ……なのだが。


「そんなの迷信だよ、迷信。乳母経験がある侍従長ばっちゃんが言ってたぞ。乳の大小に関わらず出る女は出るし、出ない女は出ないって。先代の奥方はでっかい割に枯れ井戸そのものだったらしいけど、それと同じくらいでかかった侍従長は湧水のごとく出たそうだ」

「そうなの!? 私、それだけが巨乳に対する心の支えだったんだけど!?」

 鐘を打ち鳴らしたかのような衝撃とともにリリアムが撃沈する。


「珍しく乳の話に乗ってくると思ったら、そんな曖昧な話を真に受けてたのか?」

「だ、だってぇ……」


 リリアムはさめざめと涙を流す。返り討ちに遭った姿は何とも哀愁を誘う。さっきまでの気まずい雰囲気はどこにもなかった。いつもの調子が出てきたか。


「とにかく、あたしは今のところ結婚する気はねぇよ。あたしには継ぐ家もないし、孫の顔を見せる親もいない。お嬢の子供に乳をやるのは、まあ、魅力的な提案だが、どのみち、お嬢の武者修行が終わってからじゃないと無理な話だ。……そんじゃあ、行ってくるわ」


 どっこらしょ、と年寄り臭い声を出して立ち上がったヴィオラを見て、リリアムが眉を顰める。


「わざわざ買い出しに行くの? 厨房のを分けてもらえばいいじゃない?」

「リリアムじゃないが、至れり尽くせりで腕が鈍っているのはあたしも同じだからな」

 口が悪く、剣の腕も立つ剛の者ではあるが、ヴィオラは奉仕者だ。あれこれとのは彼女の性に合わない。


「なに、軽い準備運動さ。ところで、何個くらい食うつもりだ?」

「最低、十個は食べたいわね」


 リリアムが両の掌を開く。

 ヴィオラの脳が瞬間的に全員分の材料と手順を導き出した。


「……準備運動じゃ済まないかもなぁ」


 身から出た錆とはいえ、安請け合いしたことを早くも後悔しながら、ヴィオラは部屋を後にした。

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