壱の太刀 灯篭斬り
第1話 『王国最強』の娘
――黎明。
朝と夜の狭間、夢と現の境界。
空も、人も、誰も彼も己が何者か決めかねて忘我の淵を
開かれた空色の
ローザリッタは右
ならば、なぜ目を覚ましたのか。
普段ならば、まだ夢の淵を
「……まったく。我ながら、なんともわかりやすい」
呆れるように呟いた後、桃色の唇が深い半月を描く。
力強い、やる気に満ちた笑みだった。
ローザリッタは寝床から跳ね起きると、側に立てておいた愛用の木刀を掴んで、勢いよく部屋を飛び出した。
†††
レスニア王国の東の果て。
モリスト地方にシルネオと呼ばれる辺境都市がある。
都市の名を冠するだけあって、居住区をぐるりと市壁が廻り、領主の館を中心とした行政区が設けられているが、それ以外は深い森と田園風景が広がっているだけの――ありていに言えば田舎町である。なにもなさで言えば、イール地方の辺境都市ヴェラスにも引けを取るまい。
彼の都市と唯一異なる点は、ここが剣術家の聖地であるということだろう。
剣の道を志す者の中で、当代領主――ベルイマン男爵を知らぬ者はおるまい。
武家の名門、ベルイマン男爵家が輩出した傑物。若くして近衛騎士団の長として王家に仕え、数多の天覧試合において名にし負う剣客たちを
現役を退き、家督を継いだ今でもその名声は一向に衰えを見せない。彼の存在はもはや信仰の域に達しており、一旗揚げることを夢見る剣術家たちが威光にあやかろうとモリスト詣でと称してこの地を訪れる。
そのベルイマン男爵が住まう館を
寝巻のまま、寝癖もそのままに。木刀を握りしめての大疾走。
早朝であることを配慮してか、足音が消せる程度に手加減している。が、それでも翻った裾の向こう、白い太腿が露わになるほどの速度。
お転婆な振る舞いだという自覚はあった。侍女に見つかったら咎められるだろうという予測も。しかし、全身を満たす高揚感が彼女の足を動かし続けていた。
それというのも――
(いよいよ……いよいよ、待ちに待った元服だ――――!)
――ローザリッタは十六になった今日、
もっとも、
重要な事柄はただ一つ。〔元服を迎えた嫡子は武者修行の旅に出るべし〕という武家固有の
若い頃は、誰でも一度くらいは自分の限界に挑戦したいと夢想するものだ。それが腕に覚えのある剣術遣いであればなおのこと。
ローザリッタは己の技が外の世界でどれだけ通用するのか、もっと言えば自分がどれくらい強くなったのか、ずっと確かめてみたかった。仕来りである武者修行の旅は彼女にとって、まさに打ってつけの試練である。
武者修行を夢見て十年の鍛錬を積み重ね、ついにその日がやってきた。
行き場のない熱量に苛まれ、居ても立ってもいられなくなった彼女が、覚醒も早々、部屋を飛び出したのも無理からぬ話だ。
何も今すぐ旅立とうというわけではない。儀を終えるまでは自分が未成年であるということくらい重々承知している。だが、胸裏に激流のごとく押し寄せる期待感をどうにか発散させないと、本当に飛び出してしまいそうだった。
目指すは、いつも鍛錬に使っている裏手の森。靴を履くのももどかしく、玄関から出るのさえ煩わしい。ああ、もう、どうしてこの館はこんなに広いのか。これだから貴族ってやつは――
「おっと」
曲がり角から人の気配。自分を起こしに来た侍女だろう。見つかったらいろいろ面倒だ。瞬時に方向転換。窓から中庭へ躍り出る。
音もなく着地。土を啄んでいる小鳥たちを追い散らしながら中庭を突っ切り――そのまま塀を跳び越えた。
もしも塀に自我があれば、己の存在意義に疑問を感じて旅に出たかもしれない。それほど鮮やかな、そして常識から外れた凄まじい大跳躍だった。
緩い放物線を描きながら宙を舞うローザリッタを、地平線から顔を出したばかりの朝陽が迎える。照らし出された彼女は、爽やかな
風にはためく黄金の髪。活力に満ちた空色の双眸。磁器のように滑らかで、雪のように白い肌。まだ幼さの残る容貌と小柄な背丈に反して、ゆったりとした寝巻きの上からでも見て取れるほど、その体躯は起伏に富んでいる。
その美貌が血筋に因るものなのは一目瞭然だ。野に咲く百合ではなく、品種改良された薔薇のごとく何代も積み重ねた貴顕の美。いささかお転婆であろうと、血に約束された優雅さや華やかさは四半世紀にも及ばぬ歳月では払拭できない。
「お嬢様!?」
真下から驚きの声が聞こえる。ローザリッタが眼下に視線を向けると、夜間警備に当たっていた若い巡邏二人と目が合った。
運が尽きたか。いや、巡邏たちは突然の出来事に茫然自失としている。我に返るまで数秒を要するだろう。これが敵襲なら目も当てられぬ大失態だが、彼らもまさか内側から不審者が出て来るとは思うまい。情状酌量の余地はある。何より、そのおかげでまだいける。
「おはようございます! お勤めご苦労様です!」
言い置きながらローザリッタは危なげなく着地すると、ぽかんと口を開けている巡邏二人を尻目に、森へ向かって颯爽と駆け出した。
「……見たか?」
あっという間に小さくなった背中を見ながら、巡邏は声をひそめて相方に問う。
「……ああ、白だったな」
「え? そっち?」
「そっちじゃないならどっちだよ」
「どっちってそりゃあ……めっちゃ揺れてただろ。ありゃあ、下に何もつけてないと見たね」
「しまった。見落とした。純白があまりにも破壊力がありすぎて……」
「……いずれにせよ、無防備だよなぁ」
「こういう時、この家に仕えて良かったと心底思う」
「同感だ」
巡邏たちはしみじみとした面持ちで頷く。
「でも、このことは黙っておこうな」
「ああ。不敬罪でお館様に殺されたくないからな。……さてと」
巡邏二人は密約を交わすと、気を取り直して警笛を鳴らした。
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