第37話 初太刀に懸ける

 力試しは中庭で行うことになった。

 中庭へ続く戸口を閉ざす錠をマウナが開き、それぞれが後に続く。


 息が詰まるような鉄格子だらけの室内からようやく出られたかと思えば、今度は周囲をぐるりと取り囲む柵が視界を遮った。一片の自由も許さぬ隙の無さ。男爵家嫡子としてそれなりに堅苦しい生活を送ってきたローザリッタであったが、ここまでの束縛は受けたことはなかった。ライスフェルトを取り巻く環境そのものが事態の重さを物語っている。


「そうだ、木刀を貸してもらえますか?」

 先に庭に降りたライスフェルトが、照れたように頬を掻きながら言った。


「危険なものは置かないようにしているんです。ここには包丁だってないんですよ」

「……なるほど。構いませんよ」

 小さく頷きつつ、ローザリッタは持ち込んだ木刀のうちの一本を手渡した。彼が幽閉された経緯を考えれば、この家に武器の類がないのは当然だろう。


「……ほう、かしですか」

 感触を確かめるようにライスフェルトが渡された木刀を振るう。どれほどの期間、剣術から離れていたかは定かではないが、剣先は見事に風を裂いた。揺らがぬ地力が窺える。


「思ったより軽いですね」

 ライスフェルトは興味深げに木刀を見つめた。

 木刀はほとんどの流派において稽古道具として用いられているが、その規格は流派ごとに違いがある。


 例えば、ベルイマン古流では鍛錬に樫の――と一口に言っても様々な種類と材質があるが、中でも特に硬くて軽いものを――木刀を用いる。取り回しやすく、女性でもさほど負担にならない反面、耐久性には難がある代物だ。


 壊れやすいのでは稽古道具として不適切と感じるかもしれないが、そもそも本番で使う刀剣自体が衝撃に対しての脆弱性を抱えているもの。あえて折れやすい木刀を使うことで正しい刀線と刃筋を養い、得物に最も負担をかけない太刀遣いの習得を目的としているのである。


 実戦において、決着がつくその瞬間まで武装を維持することはとても重要だ。戦闘の途中で武器を失うことの危険性は語るまでもなく、どれほどの達人であっても、武装の有無から生じる戦力差を覆すことは容易ではない。稽古道具の選び方一つとっても、ベルイマン古流の実戦本意の思想が窺える。


 対して――


「キルハルス一門では、もっと重いものを?」

「ええ。何せ、一族郎党、首切り職人なもので。手の内を養うために重たいものを使います。あと、材質も粘りがあるものを選びますね。重い分、威力もありますから、打ち合った時に折れてしまいますので」

「……面白い。やはり、流派によって考え方の違いがあるのですね」


 ローザリッタの語気が弾んだ。自分では当たり前と思っていたことが、そうではないと知った時の驚き。未知を知る楽しさ。当流と他流の違いを研究し、吸収し、自分の糧とする。それこそがローザリッタの求めた武者修行だ。こんな状況でなければ、ようやく機会に恵まれたと無邪気に喜べたことだろう。


「それでは、始めましょうか」

「はい」

 従者、友、家族――それぞれが視界の端で見守る中、二人は三間の距離を取って位置に着いた。


 ゆるりとライスフェルトが構える。左肘を前に出し、剣先を高めに掲げる八相の変化形。あるいは上段の亜種。先日戦ったシャーロウと同じ構えだ。斬首を生業とするキルハルスの剣における基本型なのか。


 それをローザリッタは上段で迎え撃つ。こちらは右肩に担ぐような太刀取り。長物を振り回すのに困難な狭い空間であっても威力を保つべく、遠心力で巻き込むように打ち抜く古流実戦派の構え。


 垂直に近い角度で剣尖を掲げるライスフェルトに比べ、太刀を寝かせ気味のローザリッタのほうが敵手までの到達距離が長い。同時に振り下ろせば、その差がそのまま到達時間の遅れとなって表れる。


 それでも、ローザリッタは上段を選んだ。選ばざるを得なかった。

 そこにしか活路がなかったからだ。


 御前試合でシャーロウと戦った時は始終、男女の体格差に苦しめられた。小柄な体躯を活かすために懐に入ろうにも彼はそれを許さず、打開策を見つけられないまま防戦一方となった。最後に逆転できたのは奇跡以外の何物でもない。


 そんなシャーロウよりも上手と明言されているライスフェルトを相手に、同じ轍を踏むわけにはいかない。体格勝負に持ち込ませないために、初手の一合で勝敗を決する必要がある。そして、ローザリッタにはそれを可能とする技があった。


 狙うのは、ただ一点。――〈切り落とし〉。

 相手の太刀筋を見切ったうえで対称の太刀を重ね、運剣の精度で打ち合いを制する攻防一体の返し技だ。ベルイマン古流における。時代の流れと共に対竜ではなく、対人剣術としての収斂を余儀なくされた古の剣法が編み出した新たな絶技である。


 防御も回避も不可能とされる必殺剣ではあるが、その特性上、相手よりも動き出す必要がある。攻撃の機を譲るのだから仕損じれば敗北は必至。それでも唯一残された勝機にローザリッタは全てを賭ける。


 しかし――


(……動かない、か)


 ライスフェルトの佇まいは、さながら荒野に寂しく残された枯れ木ようだった。

 つまりは静寂。つまりは不動。到達距離の利を得ていながらも、易々と攻め入る気配はない。向こうもまた応じ技の用意があると考えるのが妥当だ。


 互いに必殺の術を秘め、ひたすらに敵手の焦燥を待つ構え。

 一合も触れ合わないまま、勝負は精神戦に突入する――かに見えた。


「……っ」

 静寂が、不動が崩れた。

 よそ風に吹かれた柳のように、ライスフェルトの剣がわずかに揺れたのだ。


 ローザリッタは反射的に踏み込みそうになる肉体を抑え込むのに、多大な意志力を必要とした。ライスフェルトが何らかの策を仕込んでいるのは明白。唐突な挙措は相手を誘うための陽動に違いない。彼女は警戒しながらも黙して推移を見守った。

 

 釣られないと理解しているにも関わらず、それでもライスフェルトの不可解な動きは止まらない。陽の傾きにも似た遅々とした速度で脇が締まっていき、やがて、突き出していた左肘がぴたりと胸に密着する。


 その意味を理解した時、ローザリッタの顔から血の気が引いた。


(不味い……逃した……)


 ――勝機を。おそらく、唯一といっていい好機を。


 あれはだ。

 左肘をあえて固定し、支点を形成することで作用点――剣速を向上させる技法。

 手元のわずかな狂いによる運動効率の損失さえ厭った、髪の毛一本分でも速く打ち込むことを極限まで追求した構え。そこから繰り出される斬撃がどれほどの速度に達するか、初見であるローザリッタには想像もつかない。


 即ち――ローザリッタの手の内が看破されたのだ。


〈切り落とし〉はあくまで太刀同士を合わせることが前提の技。。仮に合わせられたとしても力負けする恐れがある。何せ、左腕を使わないと言うことは――文字通り、残った全身で斬りつけると言うことだ。


 そのようなものを斬り弾けるだろうか?

 運剣の精度だけで制することができるものだろうか?

 それに加え、頸椎の隙間を刃筋を通す精緻さを併せ持つとくれば、それはまさに一撃必殺と呼ぶに相応しい。


 ローザリッタは数秒前の自分を笑ってやりたい気分になった。

 応じ技の用意がある、だと。何という見当違い。あれは仕掛け技。先を取られれば受ける間もなく首が断たれ、後から巻き返されて首が断たれる。あれはそういう類の剣に違いない。


 欠点を上げるとすれば――二撃目以降は大した脅威ではないことか。

 あの窮屈な構えから放たれるのは初撃だけであり、だからこそ必殺の威力を持つ。構えを維持できなくなった二撃目からは適用されない。むしろ、下手をすれば体勢を崩す恐れもあるのだから、総合的に見れば悪手である。


 だが、その欠点は現状では欠点足り得ない。

 初太刀で決着をつけようとしていたのはローザリッタも同じだからだ。

 体格勝負を回避したいと拘泥するあまり、己の戦術の幅を狭めてしまった彼女の思惑が完全に裏目に出てしまった。


(これは……無理だ……)


 認めがたき絶望が、紙に落とした墨のように胸中に浸み込んでいく。

 よもやただの一太刀も浴びせることなく敗北を喫しようとは。剣術遣いとしての順然たる差。ローザリッタは改めて己の未熟さを痛感する。


(ですが、どうして……?)

 だが、一つ疑問が残る。

 先を取っても負ける。先を取られても負ける。心、技、体。全ての要素で優位を獲得しながら未だライスフェルトが仕掛けてこないのは、何故だろう。


(……そうか、呼吸か)

 ライスフェルトはローザリッタの呼吸を読み切っていないのだ。

 呼吸における三つの動作。即ち、吸う、止める、吐く。

 このうち、肉体が最も脱力するのは吸気である。この時に攻撃されれば攻撃も防御も十分に働かない。


 逆に、肉体に最も力が籠るのは呼気だ。

 もし、仕掛けた時機が呼気と重なれば仕損じる可能性がある。だからこそ、ライスフェルトはこうやって精神的な重圧をかけ続け、ローザリッタの呼吸を乱そうとしている。後詰を怠らない彼の堅実さによって、彼女の命を辛うじて繋ぎ止められているのだ。


(なにか……なにか方法は……)


 蚕の糸のように細い息を吐きながら、残された時間の中でどうにか活路を見出すべく、ローザリッタは観察と分析に全精力を傾ける。


 制限された吸気の中では十分な酸素を供給できない。加速された思考で血中の酸素はあっという間に消費尽くされ、視界は徐々に薄闇がかかっていく。早鐘のように打ち付ける心臓。焼けつくような焦燥感。どれだけ頭を働かせても、自壊する未来しか見えてこなかった。


 せめて、ライスフェルトが攻撃に移行する一瞬。吸気の拍子さえ捉えれば――先を取られたとしても、多少なりと威力を減じさせることができる。受け太刀が叶えば、二の太刀に繋ぎ、そこから逆転できるのではないか――そんな楽観的な思惑を嘲笑うかのように敵手の表情は涼やかだ。表皮一枚の下に苦悶をはびこらせるローザリッタとは正反対に。


(嘲笑う……?)

 刹那、ローザリッタの脳裏に過去の対戦が再生される。


 かつて斃した無銘の剣士。そして、邪剣遣いファム

 両者ともに呼吸を欺瞞することを得手としていた。剣の技量は自分に劣っているにも関わらず、二人がローザリッタを窮地に陥れることができたのは、正統派剣術遣いの呼吸を乱す、に感覚を狂わされてきたからに他ならない。


 実戦経験が少ない自分でもあれほどの狂いが出たのだ。もし、嘲笑う拍子を己が使うことができれば現状を覆し得るのではないか――確か、あの時は――


 思考と行動、どちらが早かったか。

 両者の緊張が最高潮に高まった瞬間、ローザリッタはライスフェルトに


「――――」

 ライスフェルトが硬直する。

 彼は息を吸うことも、吐くことも忘れ――筋肉が脱力も収縮もすることないまま、ただその場に佇むだけの据え物と化した。呼吸の乱れが、肉体と意識の接続を切断したのだ。


 一瞬の虚。瞬きにも及ばぬ空白。

 だが、その空隙の最中にローザリッタは瞬転。横薙ぎに走る切っ先が、ライスフェルトの脇腹を捉えた。


 邪剣。

 正統派剣術の裏を掻く、一度きりの騙し技。

 かつて、無銘の剣士が放ったこの技をローザリッタが初見で躱せたのは、彼が事前に正道を欠く剣士だと見抜くことができたからだ。


 だが、ライスフェルトは違う。

 正統派の雰囲気を纏うローザリッタがこのような騙し剣を使うとは、それこそ想定していなかっただろう。二度目はない。それでも――


「――見事」

 どこか嬉しそうに、ライスフェルトは呟いた。

 己より強い者を求めた彼にとって、流儀の誇りを投げ打ってでも勝ちを求める執念こそが何よりも重要だったからだ。

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