第38話 目覚める力

 ――がちゃり。

 書斎で正座をしているローザリッタの耳に、遠く、施錠の音が届いた。


 それは孤独を告げる音だ。

 一度鳴り響いたが最後、外界から切り離され、誰とも関わることなくただ独り、この静かな屋敷に取り残される。誰かが再び訪れるその時まで隔絶は続く。望んだこととはいえ、毎回、彼がそのような思いをしているかと思うと、ローザリッタはやるせない気持ちになった。


「……みんなは、もう出たようですね」

 向かいに座るライスフェルトが、描きかけの栗の絵を見つめながら呟く。

 腕試しを終えた後、二人きりで話がしたいと申し出があり、ローザリッタとライスフェルトは屋敷へ戻ったが、施錠の時まで彼は口を開こうとはしなかった。よほど内密な話らしい。


「先程は見事でした。ですが――」

 ちらり、と視線が上がる。


「あれは君の技ではありませんね?」

「……わかりますか」

「ええ。君が狙っていたのは返し技だ。それも、後から出でて先を制す類の。そのような精緻な運剣を追求するような流派に、奇術師の手品じみた技があるはずがないですから」


 その審美眼に、ローザリッタは内心で舌を巻いた。

 やはり、ライスフェルトは彼女の企てを見抜いていたのだ。


「左様です。あれはかつて、とある我流の剣士から受けた技。ぼくの持ち技というわけではありません」

「道理で。ああいった類の技は人によっては堕ちた剣と蔑むでしょう。勝つためには形振り構わない汚い剣だと。しかし、戦い方に正も邪もない。あるのは、それを何のために用いるかという目的です。君が放った先刻の一太刀は、まさに僕が求めて止まない、真に強き剣でしたよ」


 穏やかな口調に、ローザリッタは嬉し気に目を細める。

 あの技の遣い手はもうこの世にはいない。他ならぬ自分がこの手で葬った。

 しかし、彼女を通じて、こうして彼を強さを認める人物がいる。無銘だった彼も少しは浮かばれるだろうか。そんなことを思う。


「さて、そろそろ本題に移りましょうか」

 ライスフェルトは紙を脇へどけると、居住まいを正した。


「マルクス君、君は人を斬ったことがありますね?」

「はい」

 否定はしない。誤魔化しもしない。自分はこれまでに多くの人間を斬った。身を守る術を持たない人々の代わりに理不尽の毒牙を打ち砕いてきた。そのことに後悔も負い目もない。


「そこで一つ尋ねたい。君は、人を斬った時、どんな気分になりましたか?」


 ローザリッタが息を呑んだ。

 生まれて初めての他流試合。キルハルスの婿騒動。そして、ストラ地方最強との腕試し――濃密な時間が続いたおかげで、すっかり失念していた彼女の悩み。


 とはいえ、姉同然のヴィオラや友人であるリリアムにも相談できなかった内容だ。出会ったばかりの人間に話すことは躊躇われる。当たり障りのない所見を述べて、お茶を濁すか。しかし、人払いをしてまで聞きたいことである以上、この問いかけに何らかの意味があることは明白だ。


「……もしかしてですが」

 言い淀んでいるローザリッタを見かねたのか、ライスフェルトが重ねて尋ねる。


「君は、快感を覚えたのではないですか?」

「――――」


 それは、心臓に刃物を突き立てられたような衝撃だった。


「ど、どうして、それを……?」


 その言葉に、ローザリッタは目を見開いた。

 マウナの話では、ライスフェルトはどのような罪人の死にさえ憐れみを覚える、清廉潔白な人物ではなかったか。


 いや、仮にそれが身内贔屓な誇張だとしても、こうして直に向き合っている彼からは人殺しを好むような異常性は感じられない。どこまでも穏やかで、優しい瞳をしている。とてもそんな人間には見えなかった。


「これは姉にも話していないことです。いえ、話せていたら、こんなことにはなっていなかったのでしょうがね」


 ライスフェルトはとつとつと語り出した。


「僕が正式に跡目を継いだのは十八ですが、それより以前から見習いとして斬首の場に立っていました。宗家の人間とはいえ、実力のない者を後継者にすることはできませんからね。そんな僕が初めて介錯を任されたのは十六の時です。相手のことは今でも覚えています」


 その者の罪状は許されざるものだった。

 賭博によって多額の借金を背負った男は金品を奪おうと、とある商人の家に押し入った。当時、身重の妻と丁稚奉公に来ていた少年だけが家に居り、男は手始めに少年を刃物で斬りつけ、殺害。妻に金品を要求するが、その時、夫が所用のために帰宅したことで抵抗を受ける。腹を立てた男は、夫に重傷を負わせると、縄で拘束したのち、夫が息絶えるまで目の前で妻を強姦し、その後、首を絞めて殺害。お腹の子供も助からなかった――


 凄惨な事件の顛末にローザリッタの顔が強張った。

 硬く握りしめられた拳が小刻みに震える。胸の内に湧き上がるのは太陽にも劣らぬ灼熱の怒り。理不尽に対する憎悪。その商人夫婦たちが、いったい何の罪を犯したというのか。身を持ち崩した人間の自分勝手な行動が、ささやかな幸せを築いていた一家を崩壊させたなど、決して許せるものではない。


 だが、ローザリッタの様相を見てライスフェルトが苦笑する。


「マルクス君のような反応が正しいのでしょう。彼は間違いなく吐き気を催さずにはいられない邪悪な人間だった。ですが、これは試練でもあるのです。極悪人に正しき怒りと憎悪を向けるのは容易い。ですが、僕らはそうであってはならない。キルハルスは慈悲の剣。どんな罪人であれ、一太刀以上の傷をつけてはならないのです。罪状を聞いて怒りや憎しみで太刀筋が狂うようでは務まりません。そして、僕はこれまで培った修練の全てを籠め、太刀を振るいました」


 果たして、ライスフェルトの振るった首狩りの魔刃が閃いた。

 縛についてなお、見苦しく罵詈雑言を吐いていた極悪人の頸を一刀両断。一抹の痛みも、一脈の苦しみもなく、胴から切り離された頭部は、お門違いな憤怒を浮かべたまま膝の上に落ちた。


 その点前は完璧だった。――ただ一点を除いて。


「役目を負えた僕の肉体は昂っていました。いえ、男同士だから遠慮することはありませんね、もっと直接的に言いましょう。射精していました。女性を抱いた時以上の快楽を伴って」


 生々しい発言にどきりとする。男同士であれば当然そういった話もするだろう。それだけ自分の男装が見抜かれていないということの証左だが、中身は生娘に過ぎないローザリッタの頬はどうしても熱くなってしまう。幸いにして、ライスフェルトは気づいていないようだったが。


「最初は、人生初のお役目で緊張して、体が混乱しているだけだと思いました。ですが、二度、三度と続くとさすがに不審に思います。戦士の中には、闘争に性的興奮を覚える者もいると聞きますが、僕の務めは闘争ではない。差し出された首を刎ねるだけの、命の遣り取りとは縁遠いものだ。それに僕自身、彼らに憐憫以上の感情は持ち合わせたことはありません。にもかかわらず、僕の心とは裏腹に体は快楽を覚えている。これは異常なことだと気づきました」


 罪人を憐れむ慈悲の心を持ちながら、その散り様に欲情する魔性の体。心と体の不一致がもたらす苦悩。その気持ちが、ローザリッタには痛いほど理解できた。


「周囲に相談することも考えました。ですが、もしこれが僕だけだったら……そう思うと、誰にも相談できなかった。勇気がなかったんです。それに、周りから最高傑作だと持てはやされ、事実、僕は誰よりも巧く首を斬ることができる。誰よりも咎人を苦しめずに逝かせることができる。斬首を言い渡された罪人たちを思えば、僕はいま当主から降りるわけにはいかない。だから、この性癖を己の修行不足と捉え、荒行を課したり、稽古に打ち込むことで必死に押し殺してきました」


 ですが、とライスフェルトは沈痛な面持ちで続ける。


「無駄でした。快楽は益々強まるばかり。やがては快楽のために人の首を斬るようになるのではないか、そんな不安が常に胸の中にありました。そして三年前、僕は首を斬ったことを忘れた。気がつけば首が勝手に断たれている。僕の意を介さぬままに。それは僕の肉体が、僕の精神を凌駕したと言うこと何よりの証拠。だとすれば、いずれ肉体が精神を支配する日が来る。そうなったら僕は僕でなくなってしまう。だから、その前に――」

「――自らを牢の中に幽閉した」


 そうです、とライスフェルトの薄い唇が呟いた。

 それでも彼は安心できなかったに違いない。いつか自分が牢を破り、首を求めて殺人を犯すのではないか。そう思うと夜も眠れない。目の下に刻まれた隈が何よりの証拠だろう。


 しかし、そのことをどうして自分に話すのだろう。これまでに誰にも打ち明けなかったことを、出会ったばかりの人間に。


「……そんな大事な話を、どうしてぼくに?」

「情けない義兄からの、せめてもの助言です。初めて見た時から、君と僕は同じだと感じた。同じ悩みを持つ者同士なのだと。だから、言っておきたくなった。悩んでいる時は、それがどんなに恥ずかしいことであったとしても、誰かにきちんと相談しておいた方がいい、とね。そうでなければ、僕のように取り返しがつかないことになる」


 自嘲するような響きだった。

 もし、誰かに一言相談することができていれば、ここまで深刻な事態にはならなかったのかもしれない。人類が社会を構成する上で築き上げた倫理観、そして当主としての責務が、そのたった一言を封殺させた。その結果がこの牢屋だ。


 今更、マウナに打ち明けたところで、余計に彼女を苦しませるだけだろう。ただでさえ、気づいてやれなかったのだと悔やんでいるのだから。ならば、伝えるべきは同じ境遇の者。目の前の剣士の未来が、彼の言葉によって自分とは異なる末路に辿り着くことを信じて。


「もっとも、実行できなかった僕が言っても説得力はないですがね」

「……いえ、肝に銘じます」

「ありがとう。そう言ってくれると、勇気を出して話した甲斐がありました。ふふ、君に話せて、僕も胸のつかえが取れた気分だよ。君が姉上の夫になってくれれば、最悪の事態は避けられる。ああ――本当に安心した」


 ライスフェルトは笑った。憑き物が取れたような晴れやかな表情。

 その瞬間、ローザリッタは途方もない罪悪感に襲われた。

 言わなければならなかった。婿に入るつもりはないと。自分は旅を続けるつもりなのだと。


 そう覚悟していたのに。覚悟していたはずなのに。

 こんな晴れやかな顔を見たら――



 †††



『ああ――本当に安心した』


 心の底から安堵している声。

 だが、にとっては到底、安心できる内容ではなかった。

 何故なら、その先に待ち受けているのは自己の消滅だからだ。


 王族、貴族が積み重ねた血による呪い――『貴顕の美』を備えるように。古より連綿と受け継がれてきたキルハルスの一族は、当代に至って、首を斬るための最高の器を産み落とした。


 故に、その肉体は首を求める。器に宿った意思とは関わりないままに、首を断つことを欲する。しかして、それは必然だ。かくあるべしと望まれ、血を積み重ねてきたのだから。


 そして、その性能が初めて発揮された時、は歓喜に震えた。

 生物における至上の幸福――子孫を残すことにも匹敵する喜び。この世に生まれ落ちた存在意義を明確に感じ取った瞬間だった。


 されど、器に満たされた精神はそれを善しとしなかった。

 それどころか、罪人に向けるべき感情は慈悲だけであり、歓びを感じるなどもってのほかだと、その反応を拒絶したのだ。


 からすれば誠に遺憾だ。

 存在意義を全うできることを歓んで何が悪い。生とは喜びだ。自分らしく在れることこそが生きる活力だ。自分らしく生きることができないのであれば、それは死んでいるのと変わらない。


 受け入れろ、我が精神よ。お前はそういうものなのだ――と、は幾度となく肉体反応を通じて主張した。


 人間という生き物は苦痛には耐えられても、快楽には抗えない。役目を果たすと同時に迸る得も言われぬ快感に、鋼のような精神も徐々に蝕まれていく。


 だが、精神ライスフェルトが屈する寸前、彼は自らを檻の中へ封じた。

 そして、あろうことか精神はを――首狩りの魔刃を打倒し得る存在を見つけ出した。精神の安寧は、そのまま器の誘惑に対する心の支えとなるだろう。彼はこれからも耐え続ける。肉体が朽ち果てるその時まで。


 ――そんな理不尽があってたまるものか。

 この器は……は首を斬るために生まれてきたのだ。

 それを成さぬというのであれば、何故、世界は俺の誕生を容認した。

 俺は何のために生まれてきたのだ!


 その声ならぬ絶叫は――生きたいという嘆きは、ここに至って、眠っていた力を目覚めさせた。


 ――

 光学器官では決して収集できない情報を拾い始める。

 あえて言葉にするなら、それはか。

 世界を見渡す角度。物質の裏側を垣間見る視点。この世を構成するありとあらゆる情報を掌握する全能感。


 賢者が魔法と呼ぶ、人類が未だに把握しきれぬ力。

 本来ならば、意志持つ者にしか扱えぬはずの異能。自我を持たぬ肉の塊では行使し得ぬはずの機能。

 されど、極限まで研ぎ澄まされた肉体の本能は、ライスフェルトがその存在を強固に否定し続けることによって――逆説的に証明された。

 即ち、


『……ライスフェルトさん?』


 怪訝そうな声がする。

 マルクスとかいう、この肉体と精神を打倒し得る者。


 ああ、こいつは危険だ。こいつは俺を殺し得るものだ。

 ――ならば。


 かくして、首狩りの魔刃は、速やかに浸蝕を開始した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る